「感受性が豊か」は言い訳か?
学生時代、私はよく「感性が鋭い」だとか「感受性が豊か」と言われてきた。
「感性」「感受性」・・・
それらは曖昧で、自分ではよくわからない。
考えすぎるのも、人の顔色を気にしすぎるのも、ささいなことにビビるのも、すぐ泣いてしまうことも、すべて「感受性」の仕業なのか?
小さなことで悩み、落ち込む。
周りに相談すると「そんなのみんな同じ!悩みすぎ!」「楽しむことだけ考えて!」と言われる。
ずっと私は、ああ、みんな悩んでるけど切り替えて生きてるんだ…。こんなに色々悩む私は変なのかな…。と考えていた。
しかし、そこに「感受性」の概念が加わると、自分の中で「私は感受性が強いから・・」という前置きをするようになっていた。
でも最近、私は本当に感受性が豊かなのか?そもそもそれはどうやってはかるのか?感受性は弱まったりしないのか?などの疑問が浮かんでいた。
もしも私が感受性の希薄な人間であったなら、こんなに考えすぎたりすぐ泣いてしまったりするのは、ただ打たれ弱いだけなんじゃないか?我慢ができないだけなんじゃないか?どこか異常なんじゃないか?
今までは「感受性」という言葉によって私の性格が正当化されたような気がしていたが、これはただの言い訳に過ぎないんじゃないか?
・・などと思うようになった。
私にとって「感受性」はすごく神聖な言葉であるように思う。
それが豊かなのは素晴らしいことだ。だから、私がそれに値するほどのものを持っているように思えない。
だけど、そうでないならば、私はどうしようもないほどの欠陥人間なのではないかと情けなくなる。
自分の感受性はどれほどのものなのか、一度数値化してみたい気もするけど、上記のような理由から、知るのが怖い気もする。
きっと今日も明日もこれからも、私は「感受性」にモヤモヤしながらも、生きていくためにその言葉に頼っていくのだろう。
いますか?感受性
ありがとう、感受性
よろしくね、感受性。
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