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草薙理解「私が正しい」

秩序のカリスマ・草薙理解は「正しいこと大好き 悪い奴らは死ね」など、かなり過激な思想を持ちながら世に蔓延る悪い奴らを一掃すべく日々精進している。

そんな彼を語る上で欠かせないものは、「私が正しい」というセリフだろう。

草薙さんお誕生日おめでとう👼🏻🤍の気持ちも込めて今回は、「私が正しい」を少しだけ語りたいと思う。

文法的な見解

まず最初に「私は正しい」ではなく「私が正しい」と言っている点を突っ込んでいきたい。

「は」と「が」は、どちらも助詞であるが種類が違う。
「は」は、副助詞。「が」は、格助詞だ。

普段何気なく使っている日本語ではあるが、この助詞の微妙なニュアンスの違いを改めて洗い出す。

この2つの使い分けのルールをざっくり示すと、主に以下の3点になる。

伝えたい情報(新情報)には「が」
すでに分かっている情報(旧情報)には「は」を使う


例:
「あの人が警視総監です」
→警視総監は誰なのか知らない人に「あの人だよ」と教える場合の文

「あの人は警視総監です」
→「あの人」のことをお互い見ていて「あの人」について教える場合の文
現象をそのままいうときは「が」
判断・評価したときは「は」を使う


例:
「(理解を見て)理解さんが笛を吹いている」
「(テラを見て)テラさんが鼻血を出している」
→見たままの現象を言う場合の文

「大瀬くんは絵が上手い」(形容詞文)
「ふみやさんはよく本を読んでいる」(動詞文)
「彼は依央利さんだ」(名詞文)
→ 見たものを認識して、一般的な性質や属性についての判断を言う場合の文
従属節・名詞修飾節の中では「が」を使う

例:
「猿川くんが喧嘩をしていた時(従属節)、天彦さんはポールダンスをしていた」
「理解さんが用意した(名詞修飾節)プレゼントは方丈記だった」
→「は」を使うことができない文

「私が正しい」の場合は、
・伝えたい情報であること
・判断する前の状態であること

「私は正しい」の場合は、
・既に分かっていること
・判断後の状態であること

と言える。

これだけだと少々分かりにくいため「私は正しい」の具体例を示すと、「#36 僕はテラ」でテラさんを責めた後に草薙さんが自己正当化する際に言った「悪いのは向こうです。私は秩序を守っただけだ。私は正しい」というセリフだ。

・既に「私は正しい」状態であるということ
・私は正しいということを判断した後の発言であること
上記2つのポイントが抑えられていると思う。

この2つの助詞の違いは他にもある。

対比の「は」

例:
「甘いものは好きだが、苦いものは好きではない」
→「甘いもの」「苦いもの」を対比する文

「鶴は庭にいる」
→「鶴はいるけど鳩はいない」のような対比のニュアンスを含む文
排他の「が」

例:
「理解さんがハウスの風紀委員だ」
→他の誰でもなく理解さんが風紀委員であるという排他の意味を持つ文
対象の「が」

例:
「マカロンが食べたい」
「喧嘩がしたい」
「自分のことが大好きだ」

「私が正しい」は、排他的
「私は正しい」は、対比的

であると言える。

言い換えれば、

他の誰でもなく「私が正しい」
他と比較して「私は正しい」

となる。

つまり「私は正しい」ではなく「私が正しい」を使うことによって、草薙さんは自分の正しさを排他的に主張していると言える。

余計な可能性を排除して、比較する前の''状態''・''事実''的なニュアンスを含ませて「私が」と主語を強調させながら「正しい」ということを伝えているのだ。

「私は正しい」より「私が正しい」の方が我が強いな…と思うのは上記の理由からである。


「私が正しい」の危険性

草薙さんは「#47 風呂」「#54 避難訓練」「#68 暑い」など、ハウス内随一の6:1経験者となってしまっている。

これは「私が正しい」のせいと言っても過言ではないと私は思う。

「私が正しい」という排他的表現を言い換えると、「お前らは間違っている」となる。

''正しさ''という自分の基準・常識・価値観ect…で物事を判断(judge)して自分と周りの間に一本線引いているということだ。

この''正しさ''による''判断''で自分と他人を分断する行為の危険性は3つある。

①他人の力を借りられない

「私が正しい」から起こる''正しさの証明''、すればするほど他人の力借りることが難しくなり、どんどん「自分がなんとかしないと!」という状態に陥る。

「私が正しい」≒「お前らは間違っている」
間違っている人に助けてって言えますか?って話。

逆に「間違っている」と判断された側が「私が正しい」って言ってる人間を助けてあげたいと思いますか?にもなる。

「私が正しい」を主張すると、付いてくるものは「自分が頑張らなくちゃ!」「自分がどうにかしないと!」という苦しい生き方だ。

まあ普段散々「私が正しい」と主張しているのにも関わらず、自分の命が危険に晒されると速攻プライド捨ててテラさんに助けを求められる草薙さんはまだ可愛げがある方だとは思う。(#13 遭難)

''正しさ''とか''秩序''の前に草薙さん本人の''可愛げ''でどうにか人間関係回ってるところあるから(良くはないけど)良かったね…で見ていられるところはある。

②成長しない

先述した通り、''正しさ''による線引きは他人の力を借りられない状況に追い込む。他人の力を借りられないということは、成長できないということにも繋がる。

「判断」をすると、自分が正しいという感じは得られますが、前には進めません。「判断」はこう言っているのです。「私が教わることは何もない。私はすべての答えを知っている。そして停滞している」と。
チャック・スペザーノ/『傷つくならば、それは「愛」ではない』

自分が一番だと思っている点でテラさんと草薙さんはかなり似ていると考えられる。

インタビューで、趣味は欠点探しだけど全然見つからないというテラさん。毎晩自分の反省点を日記に書くけどそもそも反省することが無い草薙さん。

自己肯定感が尋常ではなく高い2人だが決定的な違いがある。それは、''正しさ''による''判断''だ。

#55 滅私」でテラさんが完全体(スーパーテラくん)を目指すべく依央利さんに滅私のやり方を乞えたのは、自分が正しいとは思っていないからだろう。

逆に草薙さんはあの状況を見て「私以外の人間は誰しも欠点がある」と言っていた。こんなこと言っているようでは草薙さんにこれ以上の成長は見込めない。

これは人としてかなり危険なのではないだろうか。

とは言え「#35 セクシー相談室」でセクシーのなり方を教わろうとした時に''正しさプライド''を捨てられているだけマシではある。本当の完璧人間ならばセクシーのなり方くらい分かるはずだ。

③孤立

「私が正しい」を捨てられれば、暑さに服従してみんなと一緒に全裸になるという選択肢も生まれる。

「私が正しい」という思い込みや「私がどうにかしないと!」というプレッシャーや責任感から解放されれば、お風呂に入るタイミングを仕切ることなくみんなと一緒に楽しく依央利特製夜食を食べる選択肢が生まれるだろう。

草薙さんは、秩序というカリスマ性や「私が正しい」という自覚によって6:1にならざるを得ない状況が多々産出されている。

''秩序''は自分だけの問題ではないところがポイントで、草薙さんだけが頑張っても意味が無い。故に、不健全な方法ではあるが強制的・独裁的な統治をするしかなくなっているのである。

足並み揃えること・協調性・調和を重んじているはずなのに孤立するなんて切なすぎる話だ。

また、草薙さんは過去に「人から好かれたことが少なく」と言っていたが、実際は草薙さん本人が無意識に心の奥底で人を見限ってきたとも考えられる。(#61 誕プレ感想ツイ感想noteより)

これは恋愛に限った話ではないが、草薙さんは「私のような人間を理解して下さる素敵な相手」を求めてはいるけれど、接していくうちに相手の無秩序が見えてしまって無意識に「残念だよ」って一線を画してしまうからなのではないだろうか。

''正しさ''による''判断''故の孤独感はあると思う。

草薙さん、人間臭いよね

でも草薙さん結構自己矛盾してるからその辺人間臭くて可愛いよね😆🫶🏻🤍でこのnoteを締めようと思う。

まとめ

「私が正しい」文法的見解
・伝えたい情報であること
・判断する前の状態であること
・排他的表現
・主語の強調

「私が正しい」の危険性
・他人の力を借りられない
・成長しない
・孤立

草薙さんは根本的な可愛げで許されている


⚖️ HAPPY BIRTHDAY KUSANAGI ⚖️
2023.02.11

From:@JustKeepOrder


参考文献

日本語教師キャリア『助詞「は」「が」の使い分け| 外国人に教える際の使い分けのルールを解説!

@JustKeepOrder 過去ツイート😅

チャック・スペザーノ『傷つくならば、それは「愛」ではない』1997年、VOICE

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