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伊藤ふみや 認識論的解釈
はじめに
伊藤ふみやのカリスマブレイク楽曲「When The Charisma Go Marching In」のMVに出てくる培養槽が気になった。
培養槽といえば、マトリックスでお馴染みの「水槽の脳」という哲学のトピックであろう。ざっくり説明すると「体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」という仮説だ。
今回はこの「水槽の脳」を出発点として正邪のカリスマ・伊藤ふみやの思考を覗けたらなと思う。
結論的なものを定めるつもりもなく、ぼやっと「伊藤ふみやっぽいな〜」と思った点を挙げるだけにする。
今回も例に漏れず自己満足の勝手な解釈を自分用にそれっぽくまとめたnoteとなる。引用元に平気でWikipediaを使用するし、多分めちゃくちゃ分かりづらい😅👍🏻
以下、オタク適当解釈メモ
水槽の脳 / パトナム
水槽の脳(brain in a vat)
「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」という仮説。
(ヒラリー・パトナム/1982年)
パトナム曰く、この仮説及び議論の真の標的は懐疑主義ではなく形而上学実在論。
形而上学実在論「人間が世界を了解する仕方と世界が実際に存在する仕方の間に相違があることを前提にしている」
↓
パトナム「人間は''神の眼''をもって現実理解をすることはできないから''人間の世界了解と世界が実際に存在する仕方とのあいだに相違がある''という考え方が自家撞着である」
◎ 「水槽の脳」は、懐疑主義を標的としていない
◎ 「水槽の脳」は、「悪しき霊」の現代版と言える
悪しき霊 / デカルト
方法的懐疑
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
ここで伊藤ふみやの「ダメ?なんで?」に繋がる。
デカルトの方法的懐疑の大きな特徴
懐疑を抱くことに本人が意識的・仮定的であること
少しでも疑わしければ、それを完全に排除すること
すなわち、方法的懐疑≒積極的懐疑である。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。
最終的に''神''も方法的懐疑によって裁く。
神を方法的懐疑で詰める考え方は以下のようになる。
真理の源泉である神が実は欺く神 (Dieu trompeur) で、自分が認める全てのものが悪い霊 (genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない
神までも真偽の天秤にかけられるまで方法的懐疑が進められると最終的に残るものは「純化された精神」だ。
我思う、故に我あり
方法的懐疑を経てデカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。
これが「我思う故に我あり」(羅:コギト・エルゴ・スム)に繋がる。
全てについて疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。
「我思う故に我あり」は、方法的懐疑を経て''考える''たびに成立する。
【WTCGMI】
無限大の感性
戸惑い、疑い、無駄じゃない
神の存在証明
欺く神・ 悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
カントによると神の存在証明は4種類ある。
中でも今回は、「存在する」という属性を最大限に持ったものが神ということを証明する本体論的証明に属されるものだ。
証明内容
「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。
なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。
しかし、存在するからといって方法的懐疑によって一旦退けられた感覚でその本質を理解することはできない。
純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、機械論的世界観が生まれる。
''悪い霊''という仮定は、神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。
誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。
自己の認識能力に対する信頼
↓
「ダメ?なんで?」→「choose wisely」
''choose wisely''のために
幻想・幻聴をかき消して、喧騒をシャットアウト
↓
選ぶ己の意思
機械論的世界観
関係無いと思われるところは全て省略するが、このデカルトの機械論的な部分は少々サイコパスとも取れる。
デカルトは動物が痛みを感じる能力を否定する動物機械論を信じており、意識のある動物(主に犬が使用された)を生体解剖(生きたまま解剖)し、動物がもがき悲鳴をあげても、見学者に心配しないように伝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないと主張した
番外編:神は我とともにある
インマヌエル
Immanu:われとともにいる
el:神
イザヤ書
おそれるべきは敵軍ではなく神であること
苦悩と闇から逃れるすべはないがその先に希望があること
(苦悩)ヘドロ混じりの世界に宥められるpain
(希望)答えは見つかる
まとめ
パトナム・デカルト・カントあたりを漁ればオタクも正邪のカリスマ的思考に近付けるのでは
【編集履歴】
記事公開 (2022/09/18 04:15)