カウンセリングの話②
前回までのお話。
初カウンセリングの日。せんえんを握りしめて渋谷へ(←うん。それはさすがに誇張表現だ)。
それなりに緊張し、それなりにドキドキ、ワクワクもし、なにかこう、魔法のような感じで、わたしの中の重圧、もやもや、自責、うまく行かないこと全部が、うわ〜〜〜〜〜〜っと晴れて、すっきりするような、そんな気持ちの良いことがこれから、起こるのかもしれないという期待。
クリニックはマンションの一室で、静か〜に、おごそか〜にわたしは部屋に案内された。今度の先生は、①で登場したスクールカウンセラーの先生にも似た、しかしもっとふわっと抽象的な柔らかい女性の先生だった。斜めに向かい合い、にこっと微笑まれ、
「それで。どうですか?」
と言った。あとはにこっとしたままでいる。
先生がちらっと時計を見て、
「…そうですか。それでは、来週も同じ時間に来れますか?」
と言った。わたしは先生がそう言ってわたしの話を切り上げるまで、えんえんと一人、何ごとかをしゃべりたおしていた。
クリニックのあるマンションを出て、わたしは、ぼんやりとおぼつかない足取りで、現実感のないまま渋谷の坂を駅に向かって歩いた。なんだろう。なんだこれ?取り憑かれたようにしゃべり、しかし何を話したか、ほとんど覚えていない。先生は何か言ったっけ?「妹さんが亡くなったのは、あなたのせいなんですか?」「いや、違います」。そう。違うんだよ。違うのは分かってたんだよ。ただあの日の快楽と死と性と生の罪悪と虚しさと混乱と解放と。感情の蓋が外されて一年。妹のために小さく何かを犠牲にしてきた数年間、わたしの腐った花様年華を、わたしは前向きに頑張った。がんばってずっと長女をしてた。解禁されたわたしの快楽と死と性と生の罪悪と虚しさと混乱、やっとそっくりそのまま全部、やっとわたしの手の元に、わたしが自分で味わっても良くなった。もう冷静に救急車を追いかける車を運転しなくていいし、もう冷静に妹を精神病院に連れて行く車を運転しなくていいし、もう冷静に「死亡を断定する権限がない」と言う救急隊員の説明を聞かなくていい。てんぱってもいい。支離滅裂でもいい。なんてむなしい。わたしは何でもできる。でも何も成してない。なんてむなしいんだろう。妹の大量の投薬。数々の家族の試み。長い通院。長い治療。ICU。足のボルト。頭蓋骨の手術。滅茶苦茶の軌跡。全てなんともむなしいな。わたしはわたしに、今後一生むなしさを感じ続けることを許可したので、わたしは蓋をしていた感情、「全てはキラキラと美しく、むなしいじゃねーかよ」という感情の、多分ドランク状態にいたんだろう。渋谷の坂を歩きながら。
…50ぷん、せんえん。
わたしはその後、この先生のところへ数年間通う。なんと!最初の初回と、カウンセリングはそれ以降もずーーーーーっと同じである。椅子に座ると先生がにこっと「それで。今日はどうですか?」と尋ね、「…そうですか。それでは、来週も同じ時間に来れますか?」と言われるまで、ただわたしがひとりでしゃべり続ける。時々沈黙も起こる。でも先生はにこっとしたまま、じっと待っている。カウンセリングに通い始めて数年経ったある日、先生があまりにもしゃべらないことに妙に対抗心を感じて、自分もしばらくしゃべらずにいたことがあった。結局根負けして何かを適当に話し始め、結局時間が来て先生がやんわりと切り上げるのだった。
わたしの受けていたものは、「カウンセリング」界のどこにあたるもんなんだろうか。何も診断されていない。「あなたは〇〇ですね」などと何かを診断されたことがない。質問されたこともない。「眠れますか?」「食欲はありますか?」「日常で何が問題ですか?」一切ない。投薬もない。ある時部屋の片隅に箱があり、聞くと先生は「箱庭です」と言った。わたしはぜひ、箱庭療法をしてもらって、ぱぱぱ〜〜〜〜っと何か自分の障害を解決してもらいたかったが、先生はふわっと箱庭に布をかけて、いつも通り「それで。今日はどうですか?」とにっこり言った。
転機は2度あった。1度目は父の定年退職だ。会社を退職するので、当然企業保険も切れる。家族が対象だったわたしのこのカウンセリングも、実費になる。
実は、実費だといくらだったのか、わたしは知らない。
事情を説明すると、「そうですか…。では、わたしの大学に来てもらって、カウンセリングの内容を授業のケーススタディとすることに協力してもらえるなら、これまで通り通ってもらえます。その場合は千円上がって、2千円になってしまうのですが」
に、にせんえん…
先生は、実は、ある大学の心理学部の教授だった。そしてわたしはそれ以降、今度は渋谷と真反対の田舎方面へ、こつこつ毎週通ったのであった。
50ぷん、しゃべりたおしてにせんえん。
2千円、お支払いし終わるといつも、「これって、なんか意味あるのかな?」と思う。なんか意味あること言ったっけ。ていうか先生意味あること言ったっけ。何か「良くなってますね」とか「精神の状態が向上していますよ」などという第三者的評価もない。目に見える自分の変化は、なにひとつない。ただただ、「1週間に50分、何を話しても全部聞いてくれる人がいる」というそれだけ。それだけの為に毎週往復2時間かけて通う。「これはいつ終わりが来るんだろう?」それも分からない。「すっかり良くなったので、もう来週で終わりにしましょう」もない。先が見えない。終わりが見えない。「この時間は自分にとって必要か?」。それでも通うのは全く億劫ではなかった。多分それが答えだった。
2度目の転機は、引越しである。
ついに、わたしは結婚し、出産し、移住が決まってもう物理的に通うのが無理、という段階になって、卒業は自然に訪れました。
カウンセリングの時間から離れてみると、わたしはその代用を、自分で文字を打つことで行おうとした。それはそれで意味がある。しかし、対人に向けて話す、時間をかけてそこへ赴き、伝わるように気を配る、と、自分の中のとりとめのない、誰も興味を持たない、誰にも話す価値のないようなことが、何か、それは文字で書くのと違って、同じ話を繰り返さないように気をつけるからか、話しながらどんどん気持ちが、すとんすとんと腑に落ちて行く、どんどん思考が前へ前へ進行する。文字化していると同じところで感情が足踏みするのが多い体感があるが、対人(しかも距離のある第三者)であると、理性的に論理的に話そうとする分、自分で自分が言ってることに対する理解が、一発で深いところまで行く。話し始める時は、自分で何を話したいのか分かっていない、ゴールが分からない状態でいるが、終わってみると何かが理解されている。自分が気になっていたのはこのことか、そしてそれはもう気にしなくていいんだな、などということが分かる。ふわふわと地に足着かない足取りで帰る。すっかり話しちゃったから、もう来週話すことは何もないな〜と思っている。それを繰り返す。
つまり、それが、聞き役のプロだ、ということだったのだろう。先生がたまに「それって〇〇ですね」と、のりのりで言ったりすると、いや、違うんだよ〜!と思うことがあった。そういう場合、同じ話を違う面から説明し直す。でもそれは全体の0.2%くらいだったので、つまりカウンセリング総時間量の0.2%くらいは足踏みがあったが、残りの全ての時間で、思考の整理や、自分に対する理解は積極的に進んでいた。先生のふんふんと聞いて、「そうなんですか」と言うだけの相槌は、劇的に優れたパフォーマンスだったのであります。つまりそれが、聞き役のプロだ、と。
先生が、わたしの話をすっかり理解してくれていたのかどうかは分からない。わたしは大抵話しているうちに、「…ってことは、わたしが最初この話をしたのは、こういう思いがあったから、なんですね〜…」と自己解決して、先生が「…そうなんですね」とにっこり言うのがパターンだったからだ。
…だから、カウンセリングとは、わたしが最初期待した、「なにかこう、魔法のような感じで、わたしの中の重圧、もやもや、自責、うまく行かないこと全部が、うわ〜〜〜〜〜〜っと晴れて、すっきりするような、そんな気持ちの良いことがこれから、起こる」ようなもんではない。まったくない。
あと、このカウンセリングの記録が、他の方のカウンセリングの、参考になるのかどうかも分からない。
ただ、ジャッジせず、わたしを何かの状態に治そうともせず、わたしの中で起きているとっても大切なことを、わたしが自分の言葉で解きほぐし続けるのを、毎週時間を空けて許可してくれる人は、他にはあんまりいないだろうなあ、という風に、思う。わたしの人生に一時存在してくれたありがたい天使。しかしみんながみんな、カウンセラーに対してそういう感情を持てるかと言ったら、決してそうでもないとも思う。
先生が、思いつきみたいな感じで言ったアドバイス、「私はよく知らないですけど、それなら…なんだっけ?フォーカシング?がいいかもしれませんね〜」
帰り道速攻買った。このフォーカシングの本は、わたしはとっっっっっても良かった。先生の、一番効いた(唯一の?←失礼)アドバイス。
と、言うわけで。わたしはnoteの記事を上下に分けない方がいいと思い込んでいたんですが、他の方の記事を見ているうちに分けたくなったので、やってみました。
今日見かけたツイートで、人には大きく三段階あると。そのどのステップにアドバイスするかで、内容が真逆になることもあると(こちらのツイート)。そうだよなあ。そうだった。わたしはぷわっと光が差すつもりで書いているが、「利他」「共生」とばかり書くと、読んでいてきつく感じる人はおられるよなあ、と思い当たったのでした。「利他」とか言うとすごく嫌悪、拒否、あるいは劣等感極まる人もいる。「どないせぇっちゅうねん!生まれ変われってか!?」と思われるのを知ってる…。
わたしは精神状態をツイートのように3つのステップに分けるなら、3つを行ったり来たりしているタイプだと思うんですよ。それで今回は、「利他」とか高尚なことをおっしゃるらしいパクチーさんの、別の場面の別のステップを歩んでいる部分をお見せしたいと思いました。高尚なこと書く割に、部屋もそんなに掃除しないし、洗濯物は吊るしっぱなしでその日のうちには決して畳まないですよ。ええ。深夜になんか食ったり飲んだりしてますよ。ええ。まあ。
牛の歩みだが、自分が変わったなあ〜これまでで変わってきたな〜と思うし、最近もずんずん変わり続けるな〜と思っている。わたしがこの世で最も多く対話したのはわたしだ。ある時点からずーーーっとずーーーーーっと頭の中を「である調」の文章が流れ続けているんである。←こんな。
でもすべての人がそうである訳じゃないらしい。自分の気持ちの裏の裏の裏まで探ったりしないらしい。あとそもそもそんなに裏もないらしい。自分で自分のことそうとは知らないうちに騙したりもしないらしい。あとそこまで自分の内面に興味が無かったりもするらしい。そ、そうなの。
わたしだって、もーいーや!もー嫌!もーいい加減手放したい、自分が何考えてるか自分で解きほぐし続けるの、もう飽きてきた、もう手放したい、どこまで行っても結局もうそんなに変わんねーーー
と、思っていたら、先日。鼻歌まじりでお店を片付けていました。大きな版重をいくつも水洗い。運んでいる途中で、おもいっきり棚の出っ張った角(ステンレス)に頬骨を打ちつけ、
いっ・・・・・
いって・・・・・・!!!!!!!
顔が、歪んで、空豆みたいになったはずです。
こういうことが起こる時、大抵自分の中で理由が分かります。あ、ネガティブなこと考えてたな、とか。でもその場合だってこんなに激しく厳しくはない。
理由が分からん。
心当たりもない。
その晩、わたしは大きな決断をしました。乗るはずだった新幹線もキャンセルしました。これは頬骨を打ちつけたのとは違う理由です。
翌日、流して見ていたツイートで、生霊の話がありました。突然の怪我。体調不良。
これ、もしかして霊障…?
心当たりがありました。
パクチー、新たなステージに入ったかもしれません!
(…この話は深掘りしません!こわい!)
それでは、また!!!