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BTS、それぞれのソロを振り返る

こんにちは!パクチーです。

BTSのドキュメンタリー、Disney+の、観てないんですよね………ううむDisney+は契約せんのだよな……ご試聴された皆様、いかがですか?気にはなってるんですが……。

と、いうことで、パクチーのnoteは、ドキュメンタリーで明らかになっているであろうことが、観ていないことで、わたくしが事実から離れた理解をしていると感じられることがあるかもしません。わたしのnoteは、彼らの史実、歴史、ファクトに基づいたものじゃなくて、ただ作品から受け取った世界について述べる、わたしが内側に広げた世界、の説明、です。自分の心の中に、「こういう世界を展開させた人がいるよ」という、一つの例として見てもらえたら幸いです。

実は、「プロフェッショナル仕事の流儀ージブリと宮崎駿の2399日」をオンデマンドで観たのよね。その中で、プロデューサーの鈴木敏夫さんが宮崎駿さんを説明するのに、「作品の中が現実、現実は虚構」と言っている。そうそう。そうなんだよなー。このnoteは、そういう思いで書いています。

宮崎駿氏の感じている体感をわたしが完璧に理解することなど出来ないが、「作品」の中にのみ描き表すことが出来る「現実」というのがあるということを、多分わたしは知っていると思う。自分が、ある体感を獲得したその「瞬間」を、どう丁寧に話したところで、それは過去の説明に過ぎない。自分の内側を広げて、相手が体験できる形に用意して、シェアする。そこに「再現」されているものは、ある時ある瞬間、紛れもなく存在した情感、情景、ある経験、つまり「現実」の破片なんだ。「宮さんにとってはね、映画の中が現実なのよ。現実の世の中は、虚構だよね」(動画より)。世界の見方には、そういう覗き穴もある。

ということで!

以前から書きたいと思っていた、BTSのソロ活動、それぞれのソロ作品からひとつをピックアップして、振り返りたいと思います。

そして、そこから拡大して見えてくる、ソロの期間、彼らが作品に投影したテーマ、課題、その解決、未来…というものを、パクチー個人の視点で展望してみたいと思います!

j-hope

ソロ活動のトップバッターであったj-hopeくん。彼から行ってみよう。

SNSで流れてきたj-hopeくんの軍服姿を見た時、彼が入隊する前に漠然とファンであるわたし達が持っていた心配、それは全く杞憂だったね…と、彼にとっては、自己を律して、訓練の場で模範的であることなど、そりゃあそうだ、朝飯前だったか…と、深く反省しましたの。の、j-hopeくん。

彼のソロのピックアップするとしたら、わたくしは【ARSON】に致しましましたわ。理由としましては、この曲が特に海外のHip-Hop愛好家に刺さる曲だったようであること、それから、この曲が楽曲として、すごく洗練されているなあと思うからです。そんでもって…これが…よよよ、、…BTSをソロでしか体験できない期間を味わってみると、彼の書いた歌詞って…リリース当時よりもずっとひりひりと、深くクリアに、ひしひしと、届くような気がするの…。

j-hopeくんとは、希望的で明るく、ステージ上で太陽のように、ひとつの指針をポジティブに指し示す存在。と、わたしにはそんな風に見える。公開されている情報群、そこからわたし達が受け取る印象で作り出す「j-hope像」は、前向きで、仲間とステージを、純粋に、深く、真剣に愛する青年だ。

そして…その青年の背面には、実はとても冷静に現状を分析し、客観的に自分のモチベーションの要素を分析する、高性能な頭脳が、ずっと立ち働いていた。「そう、だったのだなあ…」と知らしめさせるのが、ソロ曲【ARSON】の機能であった。

「BTS」というパッケージが、箱が開くように解放されて、中で構成員であったj-hopeくんが先頭切って飛び出して、そうして分かったのは、彼にはそもそも強い欲望、熱く、重い衝動、腹の底から吐かれる「fu** off」、そしてそれを制御する制御網を、びっちりと張り巡らすようにして持っている人だ、ということだった。その背面を合わせて「j-hope」の本来であるという。PCを開けて基盤を裏返すと色気のない配線が見える。デスクトップのやっている華やかさからは想像もつかない。3つ星レストランの厨房、水場、コンロ、材料置き場、ゴミ捨て場までを、「全部スケルトンにしたれ」というのがこの曲からわたしが感じた彼のフラストレーションだった。そこは誰も見ない。誰も愛を向けない。誰からも配慮されない。そこが自分を動かす基盤であるのに。

「名誉」「金」「人気」。ステージで、心のままに、ポジティビティを気体のように纏って自在に放って見せる彼から、音楽と心と体が完全一致した状態の彼から、ちらとも感じねーんだわ、「名誉」「金」「人気」、そういう個人的なエゴイズムを。

団体でいるj-hopeは、それを綺麗に濾過している。

3つ星レストランの厨房、その現実を、慌ただしく熱苦しく殺伐とした現実を客が見れば、客の料理への熱狂は冷め、これまでの印象をも変えてしまうかもしれない。…というような葛藤を、はるか遠くに置いて発表されたソロアルバムだった。彼はずいぶん早い段階からソロ作品を作っていた。「俺の裏側を見てくれ、知ってくれ」という思いは、彼の中で強く、ずっと熱く保たれ続けていたものだったのだろう。「希望的で前向きである」、それだけが「j-hope」を表現している要素なのじゃなくて、そういうあり方でいるために彼は、そうでない、ありとあらゆるものを動員し続けていた、ずっと背面に、強い感情、熱さと重さ、欲望、燃え尽きることの不安、他者の嫉妬、悪意に身を苛ませていたし、それを沈着冷静に、綺麗に濾過された表面だけを見せることに徹した10年だった。「このバックヤードは必要不可欠な半身だよ」。それが10年目の声明であった…のではないか。火力が強いために混沌とするいくつものエネルギー。それを、完璧にコントロールしきる強い精神。これが俺だよ。j-hopeだよ。

もしかしたら、軍隊での生活は、彼が背面に持っている、つまり生命力のような部分を、強化させる類のものなのかもしれないなあ、男っぽい、雄っぽい部分を、と、そんなことを思ったりした。彼に希望を、前向きで心優しい、女性的な、天使のような、柔らかい感性を与えたのは、「音楽」と「ダンス」、だったのかもしれないなあ…。

それを「舞台」と「ファン」が育てた。

舞台とファンが育てた稀有な「天使」。

時間を置いて改めて見ると、ソロのj-hopeくんのダンスは本当にもう精度が、BTSのレベルと明らかに違う…。彼の厨房はファクトリーです…。

彼はBTSのパフォーマンスの基盤、ダンスパフォーマンスの基盤を担保する存在だろう。


Jin

ジョングクくんのソロ活動が終わった後、ジンくんのソロを振り返った時、曲数で言えばジンくんは1曲。しかし、あんなに充実感があったのはなぜなんだろう?と考えた。それは、彼がプロモーションを、壮大なストーリーと共に、丁寧に作られた一つの世界を、わたしたちが体験できるようにしてくれたからだった。

ジンくんのソロ曲【The Astronaut】で歌われているテーマは、「あなた(ARMY)に出会って、僕の人生には目的が出来た」、ということだ。ジンくんはそのテーマで、彼が感じたものをより広く深くシェアするために、キャラクターを用意し、世界観を作り、ストーリーを用意し、それを楽曲、MV、彼自身、とマルチで連動するように設計した。

わたし達オーディエンスにとって、あるひとつの世界を体験するために必要な要素は何か。それが分かっていて、不足なく段取りを用意していく、その考え方のベースにあるのは、まるっきり…そう…、

さすが…ゲーマーだな……!!!と…。

彼が製作したものはそれぞれシンプルであって精度が高い。だからこそ、連動しても混線せず、観客に対してテーマをストレートに訴える。ゲーム好きなのが余す所なく生きているよね!ゲームを能動的に愛好することによって培われた思考プロセスが、随所に遺憾無く発揮されてるのが、【The Astronaut】のプロモーションだったよなあ、と思うわけです。

…とはいえ、それはパッケージのお話。肝心の中身は、というと、これ、…がっつり本格派のスピリチュアルだとわたしは思う。スピリチュアルで語弊があるなら、内容的に精神レベルが非常に高度。この内容で歌える人って、それほどおらんと思いますよ…。なのに完全にポップス!つまり高度なのにも関わらず、誰にもすっと通る、甘く、心地よい、そんな…そんなのって…最高じゃああああありませんかっっっ……………!!!

ということで、ジンくんはBTSの精神性です。いや、こんなにエゴが抜けてる作品って、世界遺産レベルでしょうよ、ねえ、人類の財産…。


RM

RMくんの【Wild Flower】が、やっぱり改めて泣けて泣けて…。これが涙なくして語れないのは、もう…しょうがない!!

彼自身が、「自分の内面の変化を実況する」という表現方法を持っていたから、BTSの作品には基本、それがベースにある。そしてそれは、社会がゆるやかに抱えるテーマと常に影響し合っている…と、そういう構造で、BTSは世間を席巻してきた、と、わたしは思っている。

「BTS」が活動をソロに切り替えた、それ以前に、団体の活動は中断されなければならなかった。BTSの活動が10年の間に精神に与えた歪み、その現れ方はメンバーによって違うだろうが、RMくんは、RMくんに生じた歪みを、全力で修復しようとして、短い期間で、全身全霊で、死に物狂いで、転換させようとした、彼だけが持てる特別なキャリアに。

「この欲をどうか取り除いてください」
「どんなことがあっても」
「僕が僕でいられるようにしてください」

この「欲」は、j-hopeくんの【ARSON】で描かれる欲、「名誉」「金」「人気」とは違っているらしい。RMくんの言う「欲」は、彼を、彼自身から遠ざける。つまり、彼の中には2種類の欲がある。「この欲」と、「僕が僕」である時に望むものは、それぞれ別のものを指しているらしい。

彼はそれを自覚して、2つを分離させようとした。

パクチーはアラフォーでして、お正月に帰省して、何年か振りに、何人かの友人に会ったりしました。そして…2つの欲求、2種類の「熱源」とも言える、その分離の結果が目に見えて出てくるのが、アラフォーあたりなんじゃないだろうか…という感情を持った。

2つの欲求。

一方は、「期待に応える自分」
もう一方は、「目的無く、内側から湧いて、時間を忘れて熱中するもの」

2つを分離して認識すること、これは非常に重要なことで、だけど必ずしも容易ではない。なぜかというと、人によって「期待に応える自分」が、「自己肯定感」と、非常に連動している場合があるからだ。

これはわたしが考える一般論ですが、承認欲求が満たされずに育った人には、親や、誰かの「期待に応える」という事自体が生存本能のようになっていて、「期待に応えられる自分」というのが、もはやアイデンティティになっている。だからそれを失うような選択、「期待通りにしなくてもいい」、「期待に応えられない自分」は、非常に、自分自身で肯定することが難しい。世間体や、大きな家、大きな車、大きなリング、地位、評価、収入、昇給も、期待に応えられたことの証明だから、執着するし、求めないではおれない。それは、つまり、「承認欲求」のリフレクションです。しかし、他者からの「期待に応える」という側面だけで自分を生きようとすると、精神面が安定することが出来ない。良い時と沈む時があり、仮に経済的に安定して満たされていても、幸福な基盤が安定して持てている感覚までは届かない。そして、徐々に生命の輝きが曇って行く。それは段々に、健康や精神に、目に見えるように反映されて行く。

「期待に応える」ことと、「目的無く、内側から湧いて、時間を忘れて熱中するもの」が、近いところで一致している場合は、あんまり葛藤が起きないかもしれません。j-hopeくんは上手く統合しているような感じがします。この2つが遠い、あるいは相反している場合、そしてさらにRMくんのように「期待」が重くて多大、かつ応えられる能力がある場合、「期待に応えなくてはならない」と強く感じる自分を意識的に遠ざけなくては、「周囲と関係なく、内側から湧いてくる情熱」を、自分で感じにくいようになってしまう。時間も重圧も忘れて、心から喜びを感じることが、人生の道行の中で、自分を幸福な状態の未来に辿り着かせる舟なのです。なのに、その舟から自分が遠ざかってしまう。

でも、「期待に応える自分」が、それはもはや自分にとって不自然なんだと分かっていても、親に認められたいと望むことから自由になれない人はいくらでもいます…その気持ちは…捨てなきゃいけないようなものじゃ、決して、ないんじゃないか。今回帰省して、「それって、そんなに悪いばかりのものじゃないよなあ」と、パクチーは思ったのでした。

例えば、土日の少ない時間を趣味に充ててバランスを取っている。それは単に「良いこと」以上に、むしろ「要」なんじゃないかと思って。「期待に応える自分」が、その過程で自分にもたらす財産はたくさんあって、技能、技術、交友関係や、経験や、資産や…。趣味を充実させてくれるだろうそれを、否定する必要は全くない。「期待に応える自分」が、自分を望まない形に支配しているとして、それを力づくで排除しようとすることの重要度より、共存してでも、「土日の趣味の時間」を自分のために確保し続ける、それは、それでその魂は、そのあり方は「美しい」、と、そういう気がしたのです。好きなことに没頭する自分を捨てないでいることの方こそ、心の底から揺らがない、安心な未来を自分に引き寄せるための、たった1本のロープじゃないか?

こうして見ると、j-hopeくんが「金」「名誉」「人気」が与えられてそれを受容するのに抵抗がないように見えるのは、彼はお金がかかるきちんとしたもの、ブランド、道具、に囲まれているのが好きそうだ、という嗜好、好みの違いなんかな〜という気がしてくる。職人的。対してRMくんは、「金」「名誉」「人気」によって精神が不自由になるのが、本当に本当に嫌なんだろうな〜〜〜と思える。ブランドの好みも、きちんと作られたものが嫌いというより、大衆がハイブランドに乗せているイメージを纏うことで生じる不自由さに、嫌悪感があるのかな〜〜〜。信頼し合う2人の違いが、非常に興味深い!

RMくんの体験は、世界で彼しか経験していないことではあるんだけど、彼の吐露は、一人の、この時代を生きる青年として、非常に真っ当で、普遍的ですらあるのですよ。「期待される自分」が望むことと、「内側から湧く情熱」は、同じ「欲」だとしても、分けて認識している必要がある。

…と、同じような内容をわたしが言ったとて、noteで文字数が増えるだけで何も起こらない。この楽曲は、聴くと、見ると…無茶苦茶ロマンチックです。そして実に情緒的で、美しい。そういうロマンチックで情緒的な青年が、彼だけの心に秘めていたって決して構わないようなことを、真っ当で、普遍的なことを、言葉にして、声にして、社会に開いて見せてくれている。世界に届く方法で。

それが自分の役割だと課している部分に、わたしはRMくんを「BTS」の社会性だと感じる。「必ずつながり続ける」という、彼の強い意志。あるいは情熱。


Jimin

ジミンくんの一曲を選ぶとしたら…ん悩ましい……んでも、【Like Crazy】に致します!

【Like Crazy】に関しては、一度こってり書いているので、良かったらこちらをどうぞ。

ジミンくんも、これまたトラウマの清算、すごくすごく頑張った、長い時間、苦しめた何か…それをソロ作品と共に手放せるように、ものすごい努力をした…というように見える。……ごめんなさい…ドキュメンタリーは観ていないの…。

ぶったり、殴ったり、暴力で傷つけられた結果は目に見えるけど、見えない暴力が、どれだけその人の中で傷を作っているか。それは傷を与えた側にとって、もしかしたら傷の存在すら、想像すら出来ないものかもしれなくて。

ジミンくんのソロアルバムは、長く事務所でBTSの活躍を支えてきたPdogg氏と二人三脚で作られた。個人的な解釈だが、ジミンくんは、このアルバムを身近な人と作ることで、彼は自分に与えられたトラウマの復讐を果たした、と言えるような気がする。ジミンくんは対人関係で、何か大きなものを失ったかもしれない。もしかしたらそれは、失われたままもう二度と、手に入らないものかもしれない。でも彼は、自分の身近にいてくれる人との間に自分が持っているもの、損なわれなかったもの、ちゃんと価値あるものを自分が既に持っていたことに気付いて、損なわれたと感じる必要はないことに気付いている。自分の、価値を認めた。だからこのアルバムが出来た。

アルバム発表以降のジミンくんは、その後の色々の活動の中で、身内と共に、そのクリエイションをしているような印象を持った。色々なものが吹っ切れて、けじめをつけて、自意識、セルフイメージから自由に離れて、自分の中に潜ることに躊躇がなくなってきた。そんな感じがする。

彼の豊かな感性の世界が、内側の、奥深くにあって、喧騒を離れて、静かにストイックに潜り続けてたどり着くところに、オリジナルの彼だけが持つ楽園がある。そこまでたどり着いたら、やがて、彼は、内側を外側にひっくり返すように、わたし達がいる世間に展開してくれる。

彼を覆っていた殻が、対人関係の中で、深く傷つけられた。傷ついた殻は、役目を果たして、砕け、ばらばらになって、消えた。

中にあったのは、繊細で、柔らかくて、豊かで、強い、彼だけが見つけることの出来る世界。強く硬い殻で、彼が充分自分自身を頼れるくらいに強くなるまで、守られる必要があったもの。

BTSの繊細さ。と、わたしはジミンくんをそんな風に思う。


AgustD(SUGA)

AgustD(SUGA)さんの楽曲を、一曲選ぶと…これまた難しいんだけど…これは、MVを見ながら、冷や〜…として、ぐっ…となって、再生を止めそうになった【AMYGDALA】に、してみました。MV中、ノーブランドっぽいヘルメットを被ったところで、冒頭、「…こりゃまずい!」と、一大事…こりゃ…おいおいまじか…見ちゃおれん……!!と、冷や汗、始終鉛が喉に詰まってるような気分でしたよ。

曲の構成はシンプルです。音色など細部は凝ってるんだけど、表立ってはいない。

彼の言葉は、裏とか表とか無く、「そのまま」な感じがします。分かりやすい言葉、分かりやすい表現。レトリックや比喩や曖昧な表現を極力排して、そのものを、そうっと、形を変えずに、取り出して、置く。名人が、よく切れるナイフで内臓を取り出したら、断面がきれいすぎて、細胞を断ち切らないので、腐らない、みたいに。少ない言葉で、難しくない表現でやってのける、それが実は非常に難しいことであるのに、そのやっていることの難しさ、無茶苦茶クールな冷静さに対して、音楽は非常にエモーショナルで、その温度差が、わたしにとって、彼の音楽の魅力の一つだ。

彼もまた、自分が負ってきた精神の暗黒面を、BTSのソロ活動期間で「キャリア」に変えた一人だ。でも、彼の、他のメンバーと違うところは、10年の過酷な活動が、プレーンな少年たちの心に負荷を与えて、そのトラウマを解決することをソロの課題にしていたのに対して、SUGAくんの抱えていた精神的な重圧は、むしろ10年のBTSの活動の中で、徐々に癒されて行ったのかもしれない、実は。と、そんな風に見える。

悩み、苦しんだアクシデント、重圧、それと対峙し続けた期間は、引いて見る段階までやって来れたなら、それは「その人だけが持てるキャリアじゃないか」…。最近そんな風に感じていて、…でも…いや…早すぎね?若いよね?精神年齢の成長が早すぎん?

SUGAくんのコンテンツ、シュチタのIUさんとの回で、「こういう人なのか〜…」と、SUGAくんの新たな面を見た感じがした。彼の音楽を、何か言葉で説明することは無理だと思うし、必要ないと思うし、すべきであると思わないんだけど…わたしは、彼の生活の整え方、あり方、日常の全て、頑張ること、手放すこと、一切が…ぐるっと、ふわっと、…なんとなく、「良心」で覆われている。その中に音楽がある、というような、そういう男性であるという印象を持っている。試行錯誤、取捨選択、後悔、懺悔、達成感、要望、どれも、とても果てしなく広い「良心」というお盆の上に乗っていて、彼のあり方は、どれだけアンバランスな時があろうと、はっきりと、楷書で、「健全だーーーー!!!」と書かれているみたいな感じがする。この曲が書ける彼は健全だ…。この曲も、あの曲も、どの曲も、彼が健全だからこそ書ける。健全な良心が、彼に怒りを感じさせ、苦しめ、不安にさせ、「自分の目が届くところに、愛を伝えなくては」、という使命を、与えるんじゃないか…。

彼の世界の広がり方、それは果てしく広い「良心」のお盆の上に展開しているので、彼がそのお盆の上で、どんな風に音楽を展開させていくのか、それはきっと、自由で多彩なものになるんなんじゃないか。お盆がどこまでも広い故。

そして「BTS」が、「世界」というお盆の上で、良心の結晶であるような、彼はそんな部分を、きっと取り出して見せると思う。


V

Vくん…Vくんのソロは凄かった…何がか…うーん、何が…何…。

…彼は、自身のアート性を開花させたよな…。

Vくんが、まっさらな子供だったVくんが、10年の間に蓄積してきたものって、そりゃあ色々あると思うんですけど、第一線の業界の現場で、演技、造形、ファッション、ジュエリー、空間美術、アート、写真、そして自ら聴いた膨大な量の音楽・音楽・音楽…。【Slow Dancing】の、ポップスにしては長すぎる後奏、ボーカルラインとユニゾンしていたフルートが、跳ね回るみたいなソロ、こ、こ、こ、これぇ…………これをやってのけたVくんは、もう音楽家として大成しておるばい………。見事よ。…見事じゃない?このフルートソロ、本当にこの楽曲のスピリットを素晴らしく転換しているとわたしは思ったし、楽しいし、見事にVくんの体現したかったものが、曲の長さの3分の1のフルートソロで、「釣り合ってる」と感じたVくんの感性は、もう…もう…完成されとる…。

そう、その完成度という意味で、これはもう驚きの完成度だったんですよ、正直Vくんのソロ作品およびソロ活動が。楽曲、声、ライブ、ダンス、パフォーマンス、どれをとっても、力みがないように見えて、かつ芸術性が非常に高く…………何がすごいって、Vくんの作品は、BTSの作品の延長線上にあるんじゃなく、「BTS」のための「V」が磨いてきたものじゃなくて、キム・テヒョンという一人の青年が、個人的な嗜好で蓄積してきた、栄養にしてきた世界の、収斂の結果だったんですよ。………高過ぎるっっ…審美眼がっ…高過ぎるのよっ……………!!

【Slow Dancing】は、彼の人生を生き抜くための大きな発見だったから、この曲を選びました。楽曲への有り余る気持ちはこちらで書いてます。

正直、彼が耐えてきた苦痛は、わたしには想像を絶するんだよ…。抱えきれない負荷を、美しくユニークな彼の、優しいメンタルの中に、いつもごとりと存在させたままでいた数年は、彼のQOLを実にすり減らしたんじゃないか…。でもそのごとりと重しを抱えたまま、一方で、彼が触れ得る業界の最先端の洗練された情報群、美しく豊かな、人の作ったものを、彼はちゃんと自分の奥深くに取り入れ続けてきたんだなあ。それが結晶化したものが、このソロ作品達だと思うと、だから…無茶苦茶ハイセンスだと思うの…彼の感性はアイドルの範囲じゃないんだよ全然…。

養老孟司さんが、アートの定義について書いていた。アートの定義は、「コピーじゃないこと」。

わたしはVくんを、BTSの「アート性」と考える。


Jung Kook

ジョングクくんのソロアルバムが公開されて、Weverse Liveを見て、彼にとって最もネックだったのは、「自分で書かない」ということを受け入れることだったかもしれないなあ、と、ぼんやり思った。もちろん、実際はどうか、分からない。

自分で曲を書く、自分で歌詞を書くことには、当然メリットとデメリットがある。BTSが自前の楽曲と自前の歌詞をアイデンティティの一つにしている場合、「書かない」という選択は、それなりに勇気がいるよなあ、と思うわけですが、ジョングクくんは、自分で書くことのデメリットを計算して、代わりに、ものすんげ〜〜〜〜でかいものと、引き換えるのである。でけ〜〜〜。でけ〜〜〜〜〜〜〜すぎる………。

その計算が出来るのが、チョン・ジョングクという男なんですか。そうなんですかね。

アートの定義は「コピーじゃない」ことにあると書いた。彼は自分自身のアート性を作品の中で発揮しない代わりに、現行の、トップの、可能な限り最先端の、「大衆性」に全振りすることを選んだ。その象徴がUsherさんとのコラボかなあ、と思い、ジョングクくんの1曲は、【Standing Next to You】のコラボバージョンにしました。個人的には【Seven】が、わたしの感じるジョングクくんを体現しているように感じられ、MVも含めて好きです。

大衆性って何なの、と聞かれたら、大衆性、音楽の、それに答える能力がわたしにあると思わないが……、わたしは彼のアルバムのいくつかが、「これは…教科書に載るやつだ…」という感想を持った。カーペンターズの【イエスタデイ・ワンス・モア】とか、ジョン・レノンの【イエスタデイ】とか、音楽の教科書に載るタイプのポップスがあるでしょ。ロックでも、フォークでも、関わりなく、「名曲」というやつ。あれだわ。

言わずもがな、BTSの楽曲って、ちょっとクセあるんだよ。いや、すごく抜いてる曲もある。ちなみに、クセがあるってのは、別に悪いことではない。「韓国語の歌詞」だって、ビルボードにとっちゃ「クセ」の一種かもしれない。「クセ」が、他の何とも似ていない、「発明」のレベルまで行っている場合、それは「アート性」になる。でもジョングクくんは、それを抜いて、抜いて、出来るだけ抜いて、「普遍的」なレベルまで抜いて行って、そこで勝負を持ちかけた。彼はそういうチャレンジがしたかったのだ、と、そういう風に見えた。結果は大勝だった訳だが。

世界に認められた彼の持つポテンシャルを、彼は安心して、存分に、「ツール」に出来る。引き換えにしたものはそれなりに大きかったし、腑に落とすのも時間がかかる類のことだろうと思うが、でも勝負に出て、彼は、得るべきものをしっかり得た…。ダンスクリップでディレクションに参加したみたいに(정국 (Jung Kook) ‘3D (feat. Jack Harlow)’ Promotions Sketch)、現場で磨かれる彼のセンスは、音楽だけじゃないし、ますます多角的に伸びていくんだろうな、と、彼を見ていると無限の余地があるのを感じる。すごいな。うーん。そんな人間がいると、おおよそ想像出来ないのに、実際にいるんだもんね…。

どういう音楽作品を作るか。メンバー達が苦労しながら、音を打ち込み、文字を連ね、それを見続けながら、彼は自分の創造性を一旦脇に全部置いた。そして、既に持っているアウトプットの手法をピックアップして、ますます磨きをかけた。それを選択した勇気が、この先の未来で、再結成したBTSをどんな場所に繋ぐか、彼は分かっていると思う。

BTSの大衆性。ジョングクくんの背負ってるもの。


終わりに

ということで。今回はちょっと形式にこだわってみましたが、あんまり意味はないです。ただ、今回のソロを通して、それぞれの特性、BTSで担う中心的な機能、それが、見事、上手いこと、ばらけているな!という、そのことに感動したのでありんす…。

団体のBTSがリアルタイムで見られなくなってから、長いようで短い、短いようで長い期間、この限られた時間で彼らが向き合ったものって、それぞれ本当に偉大で難題だったと思うのです。しかもリミットが兵役という、これまた何も、どこをとっても甘くない現実。その甘くない兵役で、彼らの青春時代、青年時代、がむしゃらに息を止めて走り続けるような、そういうひとつの時代が、自分の中で区切りを迎える。

自分で振り返って、折り合いをつける。

彼らの体験したものは想像しかできないし、それだって全く正しくはないが…。ソロ作品に込められた肉声は、公開された当時のわたしには、ひとつひとつが煌びやかで華やかで、ただただ輝いていて見えた(まあゲロ泣きしたんだけど)、

でも、こうして7つが出揃って見ると、

ばーーーん…

と、BTSが抱えてきた背後の景色が、ピースが合わさるみたいにして立ち現れてくるような気がして、

それは、公開当時には感じられなかったレベルの、なにか、胸に迫るものがあって…。

それをひとことで言えば、

「感動」

です。なんです。本当に、簡単な言葉だけど。ありがとう、とか、続けてくれてありがとう、とか、乗り越えてくれてありがとう、とか、どれもこれも「ありがとう」のためにやれるようなことじゃないんだけど、奇跡のようなものを見せてくれてありがとう、「転換」の瞬間まで、耐えて、耐えて、耐えきった、そういう奇跡を見せてくれてありがとう、苦しみが、苦痛が、苦痛でないものに転換するまでの軌跡。ステージで愛を媒介するものに昇華されるまでに尽くされた全ての努力。その痛みは、受け取って、光に変えられるんだ、わたしはそれを見ているんだ、という感動。すごいよ。あなたはひとりひとりが指針だよ。前もそうだったけど、今もなおそうだよ。


今年の年明けは、わたしは個人的に、今までと違ったことが色々起きました。これから全然違った雰囲気の自分になるのかな?と思っています。


それでは、また!




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