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新しい表現が生まれる産声が豊岡の町にこだましていた
「イノベーションは辺境からやってくる」という言葉を耳にする。ある分野の中心にいるエキスパートよりも、その分野の知見に加えて周辺領域とのつながりも持つ(=辺境にいる)人の方が、創造的なブレークスルーをもたらしやすいという意味だ。
平田オリザが演劇についても同じことを言っていた。
「新しい表現は、常に辺境からやってくる。文化の中枢にいる者は、その文化の本質が何であるかは、もはや分からない。」(『対話のレッスン』)
平田オリザ本人も、駒場のアゴラ劇場を離れて兵庫県の豊岡に移り住み、この町は世界的なアーティストが集まる町になりつつある。
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今年も豊岡演劇祭に行ってきた。人口7.5万人の豊岡市に毎年2万人近い来場者が訪れる世界的な演劇イベント。マームとジプシーも素晴らしかったし、元フィッシュマンズのHAKASE-SUNのライブに転がり込めたのも最高だった(佐藤伸治が死んだのは今の僕と同じ歳だ)。
なかでもお寺の境内で観たダンスパフォーマンスがとても良かった。舞踏の系譜をひき日本のコンテンポラリーダンスを牽引する伊藤キムが、山本裕の演出で出ると聞いて観に行った。
ヒグラシの鳴く夕方のお寺の境内。風のない夕方のねっとりと暑くて重い空気。妖怪をテーマにした、奇っ怪で滑稽なパフォーマンス。敷き詰められた砂利を踏む死者の足音。東京の劇場とは違う、どこか緩くリラックスした観客の雰囲気。
寺で骸骨を模して踊る伊藤キムは本当に良かった。生と死の境目に立って、宇宙と交接するかのように妖しく踊る彼の身体は、人間でも動物でもない存在になっていた。彼を人形のように動かす糸が空から垂れているのが見える。とてもしびれた。
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アフタートークで伊藤キムは妖怪について聞かれ、「薄暗いところにいるやつらで、そこはアーティストとも似ている」と応えていた。日が暮れて会場は薄暗く、汗と灰でどろどろになった演者たちにじっとりと照明が反射している。「僕たちアーティストもどこか日の目を見ない、社会の主流じゃないところにいる存在。僕たち自身が妖怪なんですよ」。
周縁にあるからこそ生み出せる新しい表現が、ダンスや演劇の世界にもあるのだろう。むしろ、固定化していくメインストリームに愛想を尽かしてクリエイティブであるために辺境に身を置いている人たちを、アーティストと呼ぶのかもしれない。
豊岡の町の、劇場ですらないお寺の境内で、新しい表現、新しい価値が生まれてくるのを目の当たりにして、豊岡演劇祭の真髄を見た気がした。この町は「イノベーションは辺境からやってくる」を町ぐるみで実践しようとしている。
世界が高速通信でフラットにつながったことで、地理的な中心と周辺の磁力の差が失われつつあるけど、伊藤キムが言うようなメインストリームと周縁との関係は依然として緊迫していて、エネルギーに満ちている。
そんな辺境を生きる創作者たちの力を借りて、豊岡ならではの表現が町中で立ち上がっていく様子はとてもエキサイティングだった。豊岡で出会うものすべてがどこか演劇作品のようで、辺境から新しい表現が生まれる産声が、豊岡の町にこだましていた。