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自己紹介の代わりに
須田英太郎と言います。都市開発・まちづくりのITスタートアップを共同創業者として経営しています。noteに書くのはもっぱら、アートとカルチャーと町と人の話。東京(駒込・本郷)が拠点ですが、月の半分は瀬戸内か北陸か九州にいます。
なぜ文化人類学をやっていた人間が都市開発×ITの会社をやっているのかと聞かれることが多いので、来歴を簡単にご紹介します。人間を形作るのは過去のその人の選択の積み重ねとも言うので、これまでしてきた選択のうち三つを、それが自分にもたらしたものに触れながら紹介させてください。
① 文化人類学
一つ目の選択は大学二年生のときに、進学予定だった法学部ではなく文化人類学を専攻したこと。明文化された制度よりも明文化されない人の生活の機微に興味があるということが、もっともらしく当時のブログには書いてあります。でも実際は大講堂の一方通行型マスプロ授業が肌に合わなかったのが理由。
隣接する表象文化論や国際関係論のゼミにも参加しながら駒場キャンパスで過ごした日々は、自分の世界の捉え方、モノの考え方の基礎を作ってくれました。長期休暇のたびにバックパックを背負って海外に出て、民主化が始まったばかりのミャンマーでドキュメンタリー『ビルマの背中』を撮ったりした。この動画の冒頭に出てくれたラッパーのピョーゼヤトーさんは、その後民主化が進むなかで下院議員になるも、2021年の軍のクーデター後に死刑が執行されます。
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ピョーゼヤトーさんにはもう会うことができない
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国際NGOから依頼を受けて調査と支援を行した
(ミャンマー・2012年)
文化人類学研究室の友達たちは全員何かしらアタマのネジが外れた行動派オタクで、真冬に突然盛り上がって山形の春日神社まで黒川能を見に行って、凍てつく二月の境内で震えながら演舞が奉納されるのを拝覧したりしました。すぐ隣に日本民藝館とアゴラ劇場がある駒場キャンパスという場所で、映画や演劇、アート、音楽、小説の話をしながら過ごした日々を思い返すと、今でも工芸や演劇の仕事をさせてもらえることに、どこか運命的なものを感じています。
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(ミャンマー・2012年)
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世界的なアドボカシーとファンドレイズの手法を知る機会になった
(BuzzFeed Japan)
② 二度の休学
休学を二度しました。大学三年のときには半年休学してミャンマーにいて、修士では二年休学してウェブと書籍の編集者をしていました。
大学院に入る頃にはミャンマーの民主化も進んでいて、反政府運動をしていた友人たちは私塾やネットカフェなど自分たちのビジネスを起こし、解禁されたFacebookでは政策への自由な批判や、民主化を祝うギター弾き語りがバズっていました。そういったミャンマーの様子を見ながら、僕の関心は制度とテクノロジーと文化の関係に移っていき、大学院では、科学技術社会論(STS)をかじりながら開発人類学を学びます。
研究のかたわらミャンマーのフォトジャーナルを日経BPで連載するなどしていたのですが、修士一年が終わった年に休学して文筆業と編集者としての活動に専念。テーマは変わらず「文化芸術」と「テクノロジー」のかけ合わせで、編集長を務めた「自動運転の論点」というウェブメディアでは、交通工学やAIはもちろん、科学哲学や建築、デザインなどの視点で自動運転を論じ、人間にとっての幸福や利便性について突き詰めていきました。その後、平凡社から書籍化しています。(日本で初めて自動運転の社会的側面を多角的に論じた書籍なのではなかろうか)
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避難民キャンプをフィールドにした人と仕事についての論考
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赤く燃える夕日がベンガル湾に沈む
(ミャンマー・2012年)
大学四年のときから関わっていた公益財団法人東京大学新聞社では、プロデューサーと広告営業も兼務し、東大の女子学生向けのハッカソンの企画などをしていました。東大の工学・情報系の学科の女性比率が少ない問題に対して、コーディング初心者の学生と、採用を見据えて東大生とコミュニケーションをとりたいIT企業とをマッチングすることで、三方良しのアプローチを試みた挑戦的な企画。自分が東大新聞を離れた後も数年続いたようです。
今思えば、やっていたことは老舗企業(東大新聞の創刊は1920年)のDXと経営多角化でした。関係者調整とシステム改善をゴリゴリやりつつ企画を出して実現させるというのは、今の仕事ととても似ています。一方で、アカデミー賞を取る前の濱口竜介監督のトークショーや、ダムタイプ『S/N』の上映会、ブラックラボの調査報道など、ユニークな友人たちのユニークな企画を手伝うことで、文化的にもとても刺激をもらいました。卒業後しばらくたってお声がけいただき、現在は理事として公益財団法人東京大学新聞社の経営に携わっています。(東大生や受験生にアプローチしたい企業・団体様、広告を募集しています)
③ 起業、瀬戸内へ
大学院を休学したばかりの頃、内閣府の自動運転の研究開発プロジェクトを手伝っていました。小豆島で開催した市民ダイアログで、ご高齢の女性が「自動運転で事故が起こることよりも、このまま人口減少が進んで島がなくなることのほうが怖い」とおっしゃっていたのを、今でもよく覚えています。
この自動運転のプロジェクトを一緒にやっていたメンバーと、2018年にアーバンテックのスタートアップを創業して、しばらく小豆島と東京の二拠点生活をしました。瀬戸内の海上タクシーのマッチング最適化から始め(実証実験のために船舶免許をとった)、現在では全国で、データドリブンな都市マネジメントのためのデジタルソリューションの提供と、自動運転や舟運などのスマートな都市サービスの企画運営をしています。
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主人公のことが好きな男子高校生の役を演じた
「トラと呼ばれたサル」(2019年)
今は東京都心の仕事も増えましたが、変わらず地方のまちづくりにもかかわらせていただいています。瀬戸内国際芸術祭、豊岡演劇祭、RENEW、ひろしま国際建築祭など、アートや工芸、建築にまつわる世界的にもユニークなプロジェクトに参加しながら、街の魅力を持続的に磨き伝えることでその個性をより輝かせる方法を試行錯誤しています。(末席に名を連ねている「瀬戸内デザイン会議」でもそういったお話をさせていただき、会議録が本になりました)
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(2024年・須田撮影)
noteでは経営やITの話よりは、アートとカルチャーと町と人の話を書いていきます。出張先でのできごとや魅力的な人との出会いをもとに、都市と文化、伝統とテクノロジーが交差する話を書いていくので、よろしければぜひお付き合いください。