朝起きたら谷川俊太郎がいない世界にいて、
すこしだけ泣いてしまった。
彼の詩は、やさしい童話のようなものからエキセントリックなシュルレアリスムを薫らせるものすらあった。クスリでもやってるんじゃないかしらん、と冗談めかして友人に送ったものもあった。
私淑する、偉大な、それでいて素朴な詩人だった。
死ではなくとも容易く人には別れが来てしまうのだと、最近とてもおもう。魂そのものが交わったような、癒着し、絶えず反発する感覚を共有した相手であっても。
今朝おきると、谷川俊太郎がいないせかいにいて
それでいて、此方から去ってしまった(去ったのは私の影かもしれなかった)君から絶縁を告げるメッセージが入っていた(通知を切っていて気づかなかった。)。
絶縁。むしろそれは、最後にもういちど袖を引くための言葉だったのかもしれなかった。わたしは、それを掴み損ねた。つかむことができなかった、こわくて。
しあわせにしてあげられたかもしれないのに。
いや、きっとそうだったのに。
僕が病気にならなければ、壊れなければ、しごとをやめなければ、きみと毎日あっていれば。君は、しあわせになれると確信して、僕といっしょに東京はきてくれて、就職をして、近くに家を借りて……。ごめんなさい。わたし、上手く生きられない。それは言い訳かも。いきたくない。いきたくない。生きれないのではなく。ごめんね、ごめんなさい。
僕はひとりの人間の幸福を跡形もなく焼け野原にしてしまって、そんな僕がこれから平気な顔をして、善く生きていくのなんて無理。つらく、くるしい、夜を、いかなくては。
もう、生きていたくはないの。もう生きてやらない。
ほんとうに出会った者に別れはこない。しづかに噛み締める。奥歯が軋むほどにかみしめる。いたみ、を感じる。
あの夏に、生きて、ぼくらは出会った。
体育館の嵌め殺しの窓の向こうに新緑がぎらぎら閉じ込められていて、蒸し暑い空気をすこしだけ風が連れ去って行った。バレーボールが打ち上げられる音を片耳で聞いていた。
フローリングに夏が反射して、すこしだけ、しにたくなった。あまりにうつくしかったから。君は「ひまだね」と言っていて、僕(の心臓)はいつもより忙しくて、それを淡く否定しかけた(君はあの16歳の夏から2年も待っててくれていた。)。
まだ、待っていてくれるの?
きっとそれはもう無理で、手を引いてくれる人はもういなくなっていて、僕は(既に)おとなで、まだ、あの淡い場所にいる(本当に記憶の中の映像は色をなくしていくらしい。)。16歳の僕を置いて、君は21歳になった。
「映画のLEONのときのナタリーポートマンみたいだ」って絞り出した褒め言葉はまだ2020年の8月に在りますか?きみのなかには?君は、LEONを観たことないから褒め言葉なのか分かんないって言ってたけど。
たしかにあの時間はほんとうだったのかもしれない。ほんとうに出会っていたのかもしれない。
たしかに、僕らは出会って、それで、どうなったんだっけ?