【伝えておきたいブルースのこと】⑤母なる大地ミシシッピ・デルタ
ブルース生誕の有力地
ミシシッピ・デルタ。そこはミシシッピ河の流域にある肥沃な大地だ。綿花畑が延々と広がり、多くの黒人たちが労働力として注ぎ込まれた地である。そこはブルース生誕の最有力地でもある。
いつ、どこで、誰の手によってブルースが生まれたのかは定めようがない。けれど、ブルースがある一定の形へと収束していった時期と場所、そして大きく貢献したと思われる人物は分かっている。
ミシシッピ・デルタのほぼ中央にあるドッケリー・プランテーション。黒人のシェアクロッパー(物納小作人)たちが多く働いた場で、そこには彼らを楽しませ稼ぎを得るためにミュージシャンも集まってきた。1891年生まれのチャーリー・パットンが家族とともにドッケリーに移り住んだのは20世紀に入った頃だった。まだ子どものパットンは音楽に夢中になっていたものの、ギターを手に入れるのは14才になってから。近隣に住む音楽一家チャットマン家の人々との交流や、年上のミュージシャン、ヘンリー・スローン、アール・ハリスといった名前だけが伝えられている人物から歌やギターを習得したという。農園が最も栄えていた1910年代後半には、今日レコードで伝えられるパットンのミシシッピ・デルタ・ブルースは完成しつつあったと推測される。「デルタ・ブルースの創始者」と言われるパットンの音楽もまた、多くの先人や周囲のミュージシャンたちとの交流の中で形作られたものだった。
パットンの初録音は1929年まで待たなければならなかったが、それ以前に彼の名はミシシッピ・デルタ一帯に広まっていた。稼ぎも多く、いつも立派なスーツを着て、靴はピカピカ、指にはダイヤモンドのリング、毎年のように車を買い替えていたという証言もある。そのパットンに憧れ、直接ギターの手ほどきを受けたのがチェスター・バーネット少年、後のハウリン・ウルフであった。1934年、心臓の病で40代前半で亡くなったパットン。そのミシシッピ・デルタ・ブルースは次の世代へと受け継がれている。
文:濱田廣也
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