【伝えておきたいブルースのこと】⑫ブルースは借り物でなく
米国南部の白黒音楽交流
「アメリカ黒人の心の叫び」といったブルースのイメージは現在でも一般的なのだろうか。ブルースは彼らアメリカ黒人の心情が色濃く出た音楽であるのは間違いないが、「黒人だけのもの」と考えるのは注意が必要だ。
法律に基づく人種分離が行なわれていたとはいえ、音楽においては黒人と白人の交流はかなり濃密に行なわれていた。そのひとつの例が、1920〜30年代にミシシッピで最も人気が高かったといわれるストリング・バンド、ミシシッピ・シークスに見られる。
ミシシッピ・シークスは、ギター/ヴォーカルのウォルター・ヴィンスン、ヴァイオリンのロニー・チャットマンを中心に、ギター/ヴォーカルのボー・カーター(チャットマン)など何人かが関わったユニットだ。彼らのレパートリーは、当時のポピュラー・ミュージック、ブルース、ラグタイム、バラッド、ワルツなどなど、実に幅広く、そこには白人(アングロ・アメリカン)の音楽をルーツとする曲も自然に含まれていた。彼らは白人のパーティにもよく呼ばれて演奏していたという。
シークスの最も知られた曲、1930年2月録音の〈シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド〉はまたたく間に肌の色を問わず親しまれ、同年12月には白人カントリー・シンガー、ウィリアム・ハンスンが吹込んでいる。
民衆の間に伝わる物語歌(伝承歌/バラッド)が黒人にも白人にも歌い継がれている例もある。〈スタック・オー・リー(スタッガリー)〉〈ジョン・ヘンリー〉〈フランキー(&ジョニー)〉はとくによく知られる曲だ。
演目を共有するだけでなく、唱法や演奏法でも黒人と白人は相互に影響を与えあっていた。カントリー・ミュージック初期の最も偉大なシンガー/ソングライターのひとり、ジミー・ロジャーズは黒人シンガーから大きな影響を受けていた。一方で、レコードを通して彼の特徴的なヨーデリングを真似しようとしたのが、若いハウリン・ウルフだった。結局、うまく真似できず、独自のハウリングを身につけたのだけれど。
「肌の白いブルースマン」といえるミュージシャンが何人も1920年代から録音を残しているが、特筆したい人物がフランク・ハッチスンだ。ウェスト・ヴァージニア州の炭坑の町で黒人たちと共に過ごしていたハッチスンの録音からは、ブルースは黒人からの借り物ではなく、共有していたものだと教えられる。それはブルースに限らず、南部で響いていた音楽の多くに当てはまるのかもしれない。
文:濱田廣也
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