[引用]ポルノグラフィの被害についての議論が、ひとたび起こると脅迫的 なまでに「検閲の是非」「法規制の是非」へと収斂していくことは
ポルノグラフィの被害についての議論が、ひとたび起こると脅迫的 なまでに「検閲の是非」「法規制の是非」へと収斂していくことは、 ちょうどそれと同じような意味で、女性が女性の経験を語る権利を奪ってしまうように思う。表現をおこなう「個人」が他の「個人」に与 える影響はどの程度有害なのか。このように問いを立てたとたん、 「女性であるがゆえに受ける被害」を語る空間は失われてしまうから である。本章が辿ってきたのは、その収斂が、「表現か行為か」とい う問いのもとで生じていく、論理的な過程である。
だが、この収斂は奇妙なことである。あきらかに、「表現の自由」 をめぐる議論は、ポルノグラフィをめぐる被害についての議論の一部 分でしかないからだ。にもかかわらず、「表現の自由」という議論空 間こそポルノグラフィについて「正しく」語るための空間だとされて しまうなら、そこで生じているのは、専門的な法的概念のもとでおこ なわれる世界記述によって、私たちの(とりわけ女性の)日常的な経 験の重みが上書きされ消されてしまうような、ひとつの「中傷効果」 だということができるだろう。それゆえ、マッキノンたちが「ポルノ グラフィ」という言葉を定義しなおそうとしたことは、多様な文脈に わたる性暴力被害の経験を、女性の身体に与えられる文化的く意味> のもとで生じる、「同じ」性差別的被害として理解しなおさせ、その 経験について語る権利を取り戻そうとする、「革命」の試みだったの である。
小宮友根『実践の中のジェンダー』p.284