〜 My History 〜
【第三話】親との別れ
さて、バー経営+生活は大変だと知ったお父さんは「どうしよう」と悩んでました…
よく覚えているのが、夜遅くまで働いた上に、飲み倒した酔っ払ったお客様を助けたりもしてました。
高速道路のような国道線を自転車で渡ろうとしていた客がいて、どう見ても「あの状態で渡ったら死ぬな」と思った…
ベロンベロン状態だったので、見ないふりはできなかったです。
自転車にすら乗れない状態だった…
僕はその自転車を持って、父さんはその人を担いで、渡るのを手伝いました。
ちゃんと家にたどり着いたのだろうか… (-_-)
「あそこのバーは後払いオッケーだぜ!」と広まっていたのか、どんどん後払い客が増えていて、ついに父は、閉店することにしました。
僕の予想だけど、結局払ってないお客が沢山居たんだろうなぁ〜
そこで親戚か誰かが言い出したのが、「日本へ行ったらどう? お母さんは日系人だし」
親は大分悩みました。
僕の感覚では、知らん間に日本へ旅立つ事が決ってました。
と言うか、「旅立つ」ではないね…当時はブラジル人の間では「出稼ぎ」と言う言葉が流行りました。
言い直すと、「出稼ぎに行く」事が決まりました。
あれは1991年2月頃だった…
親は、「ブラジルから出国したことがない」、「全く見知らぬ日本と言う国へ行くの?」などと、子供たちを一緒に連れて行くのは心配だ…従って、僕と兄弟2人を置いて、先に父と母は日本へ行きました。
お別れの時は寂しかったね…次いつ会えるのか全く分からない状態でしたし…
僕らはとりあえず仲の良い叔父さんの家に預けられました。僕のいとこでありながら1番の親友であるファビアーノの家でした。
凄く仲いいはずなのに、いざ一緒に住むようになるとめっちゃ喧嘩しました。
(-.-;)
いとこはなぜか毎日いじめてくる。
本人の自宅だし、叔父さんに文句言っても、自分の子供の味方するし…(そりゃそうだよね)
と、辛かった6ヶ月間だった。
僕の妹・弟も痛い目に会いました…
この辺のお話しは、読者が増えれば、いつか詳しくしますね!
d( ̄  ̄)
昔はもちろんパソコン、インターネット、スマホがなかったので親とのコミュニケーション手段は国際電話とお手紙でした。
お手紙を送ると1週間ほどでたどり着く。
父は「AIR MAIL」記載を忘れないでねといつも言ってました。
なぜなら何も書いてないと船で行く場合があったからです。
そうなると到着するのに2、3週間はかかったと思います。
長っ (-_-;)
国際電話で話する場合はほんのちょっとの時間しかできなかった。
あれは確か、1000円で5分か10分しか電話できなかったからです。
日本時間、午前0時以降が安かったので、いつもブラジルでは午後12時過ぎに電話がかかってきてました。
厄介だったのは、電話がかかってきても留守だったりすると、留守番電話に入ると、それだけで数百円とられました。
なので父は、僕らに電話する時は、常に「予約」をとってました。おじさんに電話をしたときに、「いついつ子供たちと話がしたいので準備よろしくねっ」て…
大変な時代だった…本当に…
今はいつでもどこでも動画で顔を見ながら無料で通話ができるもんね。
あぁ〜面白い話がたくさんあり過ぎて終わらない。これ以上書くと凄く長くなりますので一旦ここで終わります!
それではまた次回 (^o^)/
つづく…
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