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遊び感覚 7話~10話


第7話 四分三十三秒

四分三十三秒。ジョン・ケージが作曲したこの人を食ったような表題の音楽は、演奏者がピアノの前に座り蓋を開けてからは何もせず、しばし沈黙を守ってから、唖然とした聴衆のざわめきを後にすたすたと舞台の袖へと戻っていくというものである。もちろんレコードなど出ているわけはない。(*実際出ていました。CDも)ほかならぬ聴く側の人間の奏でる雑音こそ、作曲者の意図した音楽であったというわけだ。
 これは有名な話だが、五分五十六秒の方を知っている人はそう多くはあるまい。1955年にストーンというアメリカ人がルーヴル美術館の全展示物を観賞して回る時間の最短を記録したときの数字だ。もちろん、走ってはいけないし、主な作品については観た後にそれらしい評言を吐かねばならない。丹念に見れば一週間もかかろうかいう膨大な陳列すべてを、かかる短時間のうちに通り過ぎるのは大層なことかもしれないが、その反面、馬鹿馬鹿しくも感じられる。
 けれども、この二つの逸話は、陳腐で硬直化した昨今の音楽会や展覧会を、それなりに楽しく味わうための行動原則を示唆しているような気がする。一言でいうと、それは約束事の破壊である。音楽会とは、盛装して、息を吹きかけるとふらっとよろめきそうな婦人を伴ってコンサート会場に赴き、幕の内弁当など食べないで静かに我慢して、有難い音楽を神妙に聴き、「良かったね」などと頷きあい、帰路は赤提灯を避けて小奇麗なレストランで締め括る、そんな夕べの出来事を大抵は想像するし、展覧会となると、やはり浴衣に団扇というわけには行かず、それなりの格好をして、連れて行くのも在郷の婆さんではなく(私はよく祖母と行ったが)、薄紫色のワンピースにレール・デュ・タンを気がつかない程度に匂わせた妙齢の女性などが相応しく、矯めつ眇めつ細部を抉るような視線を全作品に送りながら、規定の順路を長時間かけて回ることをつい考えてしまう。
 このような通り一遍の芸術鑑賞には耐えられず、自分なりにその約束事を放棄して楽しんでいる人間を、私は何人か知っている。半ズボンのよく似合うMという男は、必ず最後列の端の席を予約する。指揮者が登場し万雷の拍手が起こると、それには構わず鞄から指揮棒を取り出し、あたかも自分が指揮者であるかの如く音楽に合わせて陶酔しきった様子で振り出す。ダンヒルしか吸わないS君は、全財産をはたいても買いたいと思わせてくれる絵を探しに展覧会に行く。これぞといった作品を見つけると、終日その絵の前に座ってしみじみと観賞するのだが、予算とは桁違いの名作の場合が多く、そういう時はこの厳重な警備体制をかいくぐって、如何にして盗もうかと知恵を絞って考えるのだが、いまだ実行に移したことはないそうだ。
 私はストーン氏ほどではないが、速足で全体を眺め去り、コーナーの椅子に蝋人形のように無表情をして座っている学芸員の女性の前で足をとめ、「これはリアルな作品だね。館員と見分けがつかない!」と呟き、職務に忠実で身じろぎもしない彼女を一瞥してから帰ることにしている。
 

[33年後の注釈]

1)   ジョン・ケージの「4分33秒」は1952年が初演。後で調べて分かったことだけど、この時間は当時のSPレコードの収録時間だったとか、色々な説が飛び交った。ケージ本人の言葉だと「カードに時間を書き入れてシャッフルし、カードに書かれた沈黙の長さを足して各楽章の長さを決定した。結果的に第1楽章30秒、第2楽章2分23秒、第3楽章1分40秒で合計4分33秒になり、初演の楽譜が完成した」とのこと。秒に換算すると273だから、きっと絶対零度-273℃のことかと思っていたが、そうは書いていない。これはもの凄い偶然だ。本文のように蓋を開けて音楽が始まるのではなく、蓋を「閉めて」音楽が始まり、蓋を「開けて」終曲を迎える。後にCDになってから作品集のなかに録音が収められた。(もちろん演奏をなされず、ざわつく観衆の音が入っている)。
2)   このエッセイの語調は今から思うと、アート・バックウォルドの影響を受けていることが分かる。「だれがコロンブスを発見したか」(文藝春秋社)の著者。
3)   文中のM君は本野英一君。青山高校の時の友人。毎回音楽会に楽譜をもってきていた。東洋史が専門で今は早大で教えている。ピアノはそこそこ弾く。ベートーヴェンの第三番ソナタをとてもつまらなく弾くなあ、と文句を言ったら、彼は彼で「井山、お前、どうしてそんなに下手なの」と応酬していた。互いに東大ピアノの会の初期のメンバー。S君は詩人。名前を書くと嫌だろうから、大学以来の友人で私に展覧会の歩き方を教えてくれた恩人。
4)   今でも音楽会の後に赤提灯で一杯引っかける奴とうまが合う。
5)   祖母とは大学院時代に同居していた。明治39年丙午の女。母とは折り合いが悪かったけど、初孫だったこともあり、大事にしてくれた。
 

第8話 不意の訪問

ピンポーン。また来客らしい。新潟に来て六年目だが、それにしても色んな人がやってくる。一番困るときは、外では到底できない格好をしている時だ。十年前に五百円で買ったTシャツ。所々穴やら裂け目やらあるのは、まだ我慢できるにしても、脱水機のなかで菌類を培養してしまうことが多く、赤に青に黄色はないけれども、図鑑で調べたくなるほど沢山の黴びが曼陀羅模様を作っている。それに、やはりかなり前に七百円で購入したバミューダ。これは誇るほどの図柄ではないのだが、とうの昔にウエストがきつくなっていて、上のボタンを外してチャックを五センチほど下げてやっと収まっている始末。こんな姿で着替えようか思案する間もなく、ガラス戸を開けて入ってきている。今更仕方あるまいと覚悟して面と向かうと、女人だ。「奥様はいらっしゃいますか?」などと唐突に言われたこともある。不意をつかれて判断力を失い、もしかするとどこかに奥様なる人がいるのではないかと一瞬疑ってしまう。「僕の方が知りたいくらいなんですが、お心あたりありますか?」と問い返すと、何か聞いてはいけない家庭のプライバシーに立ち入ってしまったという表情で「それなら、旦那様でも結構です」と例のごとく勧誘の茶番劇が始まる。
 化粧品に自動車、金貨、印鑑、ビタミン剤、英会話のテープ、ありとあらゆる品目がわが家の玄関で大層な宣伝文句とともに紹介された。平生、自信をもつことは余りないが、セールスの餌食にならないという点についてだけは絶対の自信をもっている。などと威勢が良さそうに聞こえるが、要は、金が無い。そう正直に告白しても、簡単には引き下がらない。「一日百円くらい何とかなりませんか?」。縮小の法則を巧みに使う。それには拡大の法則で答え「十年で三十万円を超えちゃうじゃないですか!」と驚いてみせ、その手には乗らない。
 もっとも、宗教となると話は違う。なにしろ、目が合ったかと思うと、「あなたは悔いのない生活をしていますか?」と切り出してくる。そりゃ悔いについて語るとなると、まあ、上がってお茶でも飲みながら、ということになるのだけれど、有難い教えを広めようとする人に共通して言えるのは、相手の話はほとんど聞かずにのべつ幕なしに語り続け、けだるい空間を一層けだるく言葉で埋め尽くしてしまう習性だ。これでは、私の悔いを聞いてもらえない。両手を大きく前に押し出し、ストップをかけて一呼吸してお願いする。あなたが五分しゃべるなら、私にも五分しゃべらせて頂けますか?神の前に人は平等であるはずです。この提案は大概無視される。だから体よく無言で、ご苦労様とお辞儀をして戸を閉めるのが得策なのかもしれない。
 言い忘れたが、迷惑でない訪問もあるにはある。前の晩から仕事していてちょうど一杯引っ掛けて寝ようかという折に「兄さん、枝豆はどうだね」と来る。これだけは感謝している。
 

[33年後の注釈]

1)   訪問販売や勧誘は確かに多かった。大学から歩いて十分の貸家(一階和六畳、洋六畳、キッチン、バス、トイレ、二階和六畳で月額3万8千円。好条件に思えるがひどいぼろ家。東京で暮らした都営住宅も似たようなものだったので余り気にしなかった。訪問客が多いことの最も大きな理由は、平日昼に家に居たからで(助手で授業がなく、ただ勉強していればいい、と言われた4年間。5年目に講師になると、さすがに大学に行く日が増えた。それでも週三日)、保険の勧誘も結構あった。明治生命のおばさんが来た時に、猫が連続で子を生んで七匹になって困っていたので、貰ってくれたら入ってもいいとこちらからお願いしたら、二匹貰ってくれた。ソルとモンという猫で、名前をつけかえてもいいのに、そのまま踏襲してくれた。「ソルとモンって何か教えて」と後で聞いてきたので、カンパネルラの「太陽の都」に出てくる神の名前だと答えた。(もう一匹のポンも)。
2)   服は頓着しなかったなあ。今も同じで、言われないとずっと同じ服を来ている。ただ色には好みがあって濃紺が多い。部屋が多いので学生が居候していて、当時、買ったばかりのファミコンを彼らに奪われていた。ゲーム好きは今も続いている。とくにドラクエは1、2以外の3~11までそれぞれ複数回やった。この時間を読書に当てていればもっと本を読めたのに、とは思わない。読みながらだってできるし。
3)   宗教の勧誘では、モルモン教とエホバが多かった。一時期「ものみの塔」をとっていた。教会に行ったことはないが、心情的にはキリスト教、とくにフレンド教会にシンパシーがある。もっとも信仰の核はバッハのマタイ受難曲にあって、谷川俊太郎が「宙空に建てた偉大なる伽藍」と評したこの神がかりな傑作を、心のよりどころにしている。

第9話 朝日連峰縦走と嵐

私はときたま登山に出かける。地図でコースを調べ、天気図を眺め、あらゆる可能性を考慮しながら装備を整えるところから、山旅の楽しさは始まる。もっとも出発前になって急に億劫になって何も汗水垂らして苦労するより、平地を十分ほど車で走って角田山麓の「湯の腰温泉」に浸かるくらいでもいいじゃないか、と弱音を吐くこともあって、計画倒れが意外と多い。それでも、年に十回は行く予定を組むから、数打ちゃ当たるで、数回はリュックを背負うことになる。
三年前の夏に、山形から宮宿経由で朝日ナチュラリストの家に入って、念願の朝日連峰縦走を果たした。というと聞こえはいいが、惨憺たる目に遭ったのだ。大朝日岳から以東岳に至る延々十数キロに及ぶ縦走コースは、封建時代に上杉藩の軍用道路として開拓されたという話だ。甲冑で身を鎧った強者(つわもの)たちが、ポカリスウェットもまだ発売されていない昔だからキュウリか何かを齧りながら、粛々と行軍してゆく姿が目に浮かんでくる。雨も降ったろうに、ゴアテックスの雨具も当然あるはずはないし、登山靴も無論履いていなかったであろう。
とはいえ、私の体重は80kgで新潟に赴任する以前と比して15 kgほど太っていたのだから、その重さ分の鎧ならぬ脂肪質を身につけて登ったことになる。彼らと荷重の差はそれほど大きくないわけだ。案の定、鳥原山にたどり着くまでに完全にオーバーヒートしてしまった。もう登るのは嫌だ、私は帰ると言い出したが、同行二人に宥めすかされ、とにかく日が落ちるまでに大朝日岳のキャンプ場に到着した。米沢で買った牛肉の粕漬けがメーンディッシュだ。腹が減っていたから箱を開ける瞬間をかれこれ半日の間楽しみにしていた。ところが、中身はほとんどが酒粕で申し訳程度にしか牛肉は入っていない。しかも私の分は三分の一だ。この事件で心身ともに打ちのめされてしまった。かてて加えて、天候も良からぬ雰囲気を漂わせ始めていた。悪いことは重なるものだ。翌日、日本海を展望しながら快適な尾根歩きとなるべき一日は、嵐と濃霧との戦いに終始した。私たちは、誰を恨むわけでもなくでも天を呪いながら無言で歩いた。
 二泊目は以東小屋の予定だったが、遠藤氏が地図を見間違えたたため、下山コースを進んでしまった。時計の針はすでに七時を回っている。私は、もう歩けない。先に行ってヘリコプターを呼んで来てくれ、と駄々をこね始めた。「井山君の大好きな下りだからもう少し我慢してよ」と説得され、仕方ない、腰や背を泥まみれにしながら滑り降りて、大鳥小屋に着いたときは、夜の九時を過ぎていた。
 三日目は嘘のように晴れた。帰りのバスを待っていると、岩魚の炭焼きを売っている。「すぐに焼ける?」と聞くと、何しろ生きている状態から焼き始めますから随分と時間がかかるという。当たり前だ。結局、バスの時間のためこれにありつくことはできず、鶴岡に向い羽越本線経由で帰った。最後までついていなかった。 

[33年後の注釈]

1)   同行の二人は東京から遠藤彰さんと、同僚の児玉憲明さん。遠藤さんは、当時、東大の物性研究所でレーザー研究をしていた。6年上の遠藤氏は三鷹の進学塾「志学塾」のバイトで知り合った。山登りと観劇で何度もご一緒して頂いた。南方熊楠を教えてくれたのは遠藤さん。辻邦生が好きで「春の戴冠」は読めとか、臼井吉見の「安曇野」は必読だ、などと思い出に残る本をたくさん紹介してくれた良き先輩。児玉さんは中国古代音楽の研究者だが、スキー友達でもあった。互いに助手として1984年に採用された同期。
2)   朝日連峰縦走はこれが最初で最後。お花畑を見に行ったのに台風に遭遇して大変な目にあった。以東岳で迷って大鳥池に下山したとき、遠くおぼろげに大鳥小屋のランプが見えて心強かった。近づくと「五百円」の文字が確認され、これはビール五百円だ!と色めき立ったが、たどりついてみると、「タキタロウを爺さんが目撃したときの話が五百円で聞けます」という意味だった。そうそう。大鳥池は「釣りキチ三平」で話題になった幻の巨大イワナ、タキタロウが本当に生息していた名所だった。岩魚焼きを売っている店でタキタロウTシャツも売っていた。

第10話 偶然の出会い

 人との出会いは人生の数ある楽しみの中でも、格別の慰藉と感激とを与えてくれる。といっても、ロマン・ロランの「ピエールとリュース」に描かれているような運命的な邂逅はそうざらにあるわけではない。何人(なんぴと)にも平等に恋愛の女神の霊感を受ける機会があったのなら、晩夏の深夜に減肥茶を啜りながら侘しくひとりワープロを打っている私の横では、ピカソの絵のエプロンが似合う若い女房が夫を励ます優しい視線を送っていたことだろう。
 うむ、話を戻そう。私は随分多くの人間と偶然知りあった。東京に居た頃のこと、ヨーゼフ・ホフマンの弟子でただ一人生きているチェルカスキーというピアニストの演奏会を上野まで聴きに行ったことがある。最初の翻訳の仕事を抱えていた時で、電車の中でも原稿用紙を広げねばならぬほど切迫していて、コンサートの始まる前の数十分さえ惜しんで、喫茶室の机で横のものを縦にしていた。やたらと関係代名詞が出てくる難解な箇所に行き当たり、ふと視線を前に向けると熱心に私を見つめる男性の顔があった。忙しいけれど、やっぱり聴きたいから来てしまう、その気持ち分かります。彼は自然に語りかけてきた。その言葉を潮に私はペンを置いた。話をして驚いた。大ホールでカラヤンが指揮棒を振ることになっているのは知っていたが、白髪まじりの戸田氏は秋田県の横手市から、この日車を八時間飛ばして駆けつけたのだと言う。しかも、翌日の仕事に間に合うように帰るらしい。私も物好きだが、もっと上手がいたのだ。以来、私は横手を何度か訪れることになる。
 新潟でも随分面白い人と知り合いになった。入広瀬村の浅井氏とは塩沢で春スキーの集まりがあったとき以来交誼を重ねており、マタギの家系にあることもあって、よく熊がとれると誘ってくれる。絶妙のユーモアの持主でもある彼は、この前会った時、私のお腹を見て、「何とかしないといけませんね」と言っていたのは伏線で、数日後に突然痩せるための減肥茶なるものを送ってきてくれた。
 今は大学付近に移転した「味みつ」(※その後マスターは学生の愛人をつくって更に別の店に移り、残った奥さんが「楽久」の名で名物ラーチャンを守っていた。昨年、惜しまれながら閉店したが、常連だった学生が今年2022年に「なみ福」として復活するというニュースが)というラーメン屋に炒飯を食べに行くと、銘酒「越の関」の塩川社長が座っていた。何だか昔から知っているような和やかな雰囲気のある方で、しまいには奥さんを紹介してくれると言う。すぐに拝顔の栄を受けることになった。二人とも付き合いがよく、夫人には私が属している講座の学生コンパにも来ていただいた。
 生涯稀にしかない出会いというのもある。大阪梅田駅の地下街のトイレで、端正な口髭と筆で描いたような眉毛をもった中年のサラリーマンと隣り合った。所要時間がぴったり同じでちょうど視線が合ったので覚えていたのだが、なんとその同じ男と翌日、今度は上野駅のやはり地下広場のトイレで左右逆ながら肩を並べたのだ! 向こうも分かったらしいのだが、ほんの短い沈黙の後、考えてみると挨拶するのもおかしいので、結局、無言で分かれてしまった。今度はどこのトイレで会うのだろうか。 

[33年後の注釈]

1)   「ピエール・リュース」を読んだのは中学生の時。「また逢う日まで」の原作。地下鉄で目が合っただけで恋に落ちる。リュースは画学生だったか。大学までは翻訳ものをよく読んだが、その後は日本の近代小説ばかり読む日が続いた。マルタン・デュ・ガールなんて中学時代じゃなきゃ読まなかっただろう。「チボー家の人びと」とか。
2)   独身時代はこのエッセイの連載から6年は続いた。猫がたくさん居たこともあって、なかなか同居の条件が厳しかったこともある。
3)   チェルカスキーを薦めてくれたのは友人で作曲家の雁部一浩。青山高校時代の友人で新潟にくるまではよく将棋をしたり、ピアノを弾きあったりしていた。後年、同僚の松本彰先生の紹介でチェルカスキーのコンサートのパンフの紹介記事を書かせて頂いた。その記事を読んだN響のクラリネット奏者の田中君が連絡をくれて、そんな知り合いはいたっけとあやしんだ。彼は僕のことを知っていて話しかけてくるのだけど、お祝いにアルゲリッチのショパンの前奏曲のレコードを貰いましたと聞いてやっと分かった。院生時代に嫌々引き受けた家庭教師をした相手だった。
4)   戸田功さんが湯沢にいる従兄を紹介するといって連れていってくれた先が、小野沢医師のところで、何と彼は雑司ヶ谷中学校で私の母に英語を習ったそうで、その奇遇にびっくりした。角館の「わらび座」を案内して貰った。これもよい体験。
5)   浅井さんは二十年ほど前に亡くなられた。成城大学時代に山下達郎とその彼女と三人で同居していた、という不思議な縁のある人。葬儀のときに山下達郎からメッセージが届いていて、あの話は本当だったんだと感慨深かった。
6)   味みつが移転した後、同じ場所に中国人夫妻の「老広東」が店を構え、夫妻が後輩にゆずって第二代「老広東」になって現在にいたる。

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