遊び感覚 51~55話
51話 集めるのが好き
いかなるものであれ、私にとってものを集めることは、いつに変わらぬ楽しみの一つとなっている。今は味気のない紙パックが主流を占めているものの、昔は牛乳と言えば、どれも個性的な意匠を凝らしたふたがついていて、自由な旅行を夢見たとてかなうわけではない子供の当時、見知らぬ土地の牛乳の蓋を人づてにもらってはスクラップに貼りつける作業に短期間ながら没頭したことがある。収集家としての第一歩を、私はこうして踏み出した。切手を集める人間が周囲に多かったせいでもあり、父の反骨精神も多かれ少なかれ影響を与えていたようだ。
喫茶店に出入りするようになると、マッチを集めるという楽しみがさらに加わった。銀座の「第一楼」の黒軸に金色をまとった気品の高いマッチ(炎は桃色)、レストラン「紅花」の憂鬱な灰色地のや、神田神保町の「さぼうる」(知識を表わすフランス語に由来しているが、いつのまにか講義をサボってくる学生のたまり場と化した)のトーテムポールを図柄にした箱。千を数える戦利品が段ボールに投げ込まれ、今でも押し入れの一隅に眠っている。単にポケットに入れて持ち帰るだけでなく、日付と一緒に居た人間の名前、話の概略などが書き込まれ、備忘録の断片をなしてもいる。
旅の土産を収集に結びつけることによって、その旅がいっそう充実したものとなることもあるように思う。妹の玲子は、一時、鈴を土産に買ってくると大層喜んでくれ、光映はどこに行ってもカレーばかり注文する執着を見せ(収集ではないが)、弟の正彦は使い古した鉄道切符を膨大に集めていたものだから、兄貴としても、何かこだわりをもって物産品を探す必要に迫られた。
最初に手がけたのは湯飲みであった。九谷焼のような高級品はなるべく避け、実用に耐えうる手作りのものを随分集め、弘前で買った厚手の茶碗や会津本郷焼の佐藤幹氏の作品などは、やたら使いとはいえ愛用している。その後、お面に凝ったこともあったが、限られた土地にしか売っていないため立ち消えになってしまった。温泉手拭いは、安くて手ごろな記念品だが、今の壁一面を埋めつくした成就の日のことを考えると、何か重大な事業に関わっているような気分になる。特に、渋温泉のように、効能の違う八種の湯に入る度にスタンプを押すような段取りになっている湯の手拭いは、一種勲章のような輝きをもっている。もっとも、すべてまともに湯に浸かっていたら健康になるどころか、風邪を引くことは避けられないけれども。
禁断の収集というのもある。友人の一人に喫茶店から灰皿を失敬してきては、いささかの罪意識も感じずに自宅に陳列している奴がいて、私が長年世話になったハチ公前の音楽喫茶らんぶるが、彼の貪欲な野望の犠牲になったことを知るにいたり、腹を立てたことがある。最近仕入れたばかりの横浜桜木町の「ルポ」のガラス皿にセブンスターの灰を落としながら、彼は私の抗議をさらりと聞き流し、同志を見つめるときの人懐っこい目を向けて言った。「お前だって、昔やってたじゃないか」。
[33年後の注釈]
1)牛乳のふたのスクラップは長らく大学の研究室にあったが、退官後は山荘にある。今は懐かしい意匠が貼りつけられ、一枚一枚所在地が記されている。小学生の時の字だから下手くそ。成城学園は習字の時間がなく、母は嘆いていた。
2)マッチ箱集めは煙草をやめる25年前まで続いた。学生時代は喫茶店の灰皿にマッチを井桁に組んでミニキャンプファイヤーを楽しんだものだ。銀座の資生堂パーラーでは叱られた。もっとも多いのは中野富士見町のポエムのマッチ。1975-76年の二年間で百回は入った。理由は内緒。出会いと別れと。神田神保町のさぼうる、今は二号店が隣接してあるが、一号店は壁に自由に落書きができて私の落書きは暫く残っていた。ここのナポリタンが好きだ。
3)湯飲みの収集は現在珈琲カップに移っているが、単品で買うと何年経ってもどんな状況で買ったのかを覚えている。本郷焼の佐藤幹氏の作品はまだ知られていない時代で手頃な価格で購入した。会津東山温泉の庄助の宿からの帰路。
4)渋温泉の湯めぐりは八湯でなく九湯。入口にスタンプが置いてあって手拭いに直接押していく。温泉街の奥を歩いていくと地獄谷温泉があり猿が湯に浸かっている。子供の頃は祖母が近くの上林温泉に居て、一緒にちまきを食べた。
5)禁断の灰皿集めは高校時代のこと。さすがに大人になってからは代金を払って譲って貰ったりした。信州松本の女鳥羽川沿いの旅館まるもの灰皿はユニークで、骨壺のような形の本体の蓋をひくり返すと煙草が置けるようになっている。これは譲って貰えず同席した陶芸作家の矢野国夫さんに複製を焼いて貰った。これは御代田の山荘にある。
52話 沙羅と出会う
沙羅と出会ってから、かれこれ数ヶ月になろうとしている。慎ましやかな足運び、ときおり見せる妖艶な流し目、気品に満ちた口元、華奢で可愛らしい腰の振り方。初めて会ったその日から、私は沙羅の魅力の虜になってしまった。いやいや、沙羅などと呼び捨てにしてしまって、いいものやら。今日の日まで、ただの一言も交わしたことはないのだ。言ってみれば、私の片思い、一目惚れ。沙羅という名前からして、私が勝手に、こんな名前だといいなあ、と思ってつけたにすぎない。本名は虎子なんて勇ましいやつかもしれないのだ。恋のはじまりは名づけから、と誰も言ってやしないけれど、思いの募る当の相手に、かりそめのものであれ名前をつけることは、大事なことだと思う。毎晩、寝る間際に「じゃ沙羅、おやすみね」と、少々照れながらもつぶやくことができるからだ。
彼女とは決まった日、決まった時間にすれ違う。徹夜で講義の準備をしたあくる朝、慌てて剃った顎をなでながら大学へと急ぐ途次、洋菓子屋ショコラティーヌの裏の小道で、必ず出会うのである。どうやら、近辺のアパート暮らしらしい。私の方をまともに見てくれたことはなく、どぶに落ちるのではないかと心配するほど、道端を小走りに過ぎてゆく。正直に告白するが、勇を鼓して声をかけたこともある。「いやー、いつも会っちゃいますね」と語りかけ近寄ってはみたのだが、いつもに倍する速さで逃げていってしまった。相変わらず俺はもてない、袖にされてしまった、と暗鬱な気分に襲われたものだが、そうではなかったことが分かる日がやってきた。
大胆な行動に出てみたら、彼女の気持ちは、どうやら、満更でもないことが分かったのである。その日は少し早めに起きて、朝食を用意した。二人して食べるためだ。シシャモを焼いただけの侘しい食卓だったが、彼女は私の招待に応じてくれた。もっとも、この決定的瞬間においても、蜜のように甘い愛の交歓をなすことはなかった。というのも、玄関の戸を開け放し、五歩ばかりの間隔をあけて家まで案内すると、私は彼女のことを気遣って書斎に引っ込んでしまったからだ。とにかく私を信頼して付いてきてくれた沙羅は、台所に上がって朝食をたいらげ、私の知らぬ間に再び外へ出ていったらしい。なんだ、大したことないではないか、と責めないでもらいたい。恋愛には一歩一歩踏みしめてゆくべき段階というものがある。私の家に慣れることが先決なのだ。そうして、私の存在が恐怖を与えないようになってから、初めて恋の告白をする時がやってくる。その後、夕食にも気軽にやってきてくれるようになり、私と彼女の間には、親密な空気が流れるようになっていった。
ところが、まさか、そこに悲劇的結末が待っていようとは、思いもよらなかった。奮発してこさえた銀ダラの煮物を余さず食べ終わった彼女に、今日こそは思いを打ち明けようと、書斎から飛び出すと、ちょうど門のわきを通り抜けるところであり、彼女の後ろ足の間から紛れもないオスの象徴が、波間に漂う椰子の実のごとくたゆたっているのを見てしまったのである。かくして恋は終わった。
[33年後の注釈]
1)最初の段落でネタバレしたぞ、と数人の読者から言われた。それに山口広海君のイラストのキャプションが「ああ幻滅!オスの象徴チラリ」とでかく出ているので、バレバレではあった。
2)ちょうどこの頃逃亡したり貰われていったりして、家猫がいない時期だった。猫の匂いがするのか、野良も飼猫もよくやってきた。メス猫が続いてしかも避妊手術をする知恵がなかったためにやたらと増えて困った経験から、オスはむしろ歓迎ではあった。
3)洋菓子店ショコラティーヌは開店してからすぐに潰れた。たぶん入口の階段の幅が狭く入りにくいことも原因ではなかったか。その後美容院に変わった。
4)銀ダラは脂の乗った旨味たっぷりの魚で、新潟に来て良かったと思っていたら、店で売られているものはどれも釧路産だった。新潟の地魚は「ふなべた」くらいだ。他には東京で甘エビと言っているものが新潟では南蛮エビ。
53話 舞台裏の世界
われわれの住むこの世界は、実を言うと、目も綾(あや)に塗り飾った仮構の屋根を堅牢な真実の梁が支える二重造りになっているのだと、哲学者たちは額にしわを寄せてつぶやく。地上の楽園を思わせる高山植物の群舞も、その内奥には過酷な生存競争の現実を蔵しており、ローマ皇帝を血迷わせたクレオパトラの美貌とて、所詮は酒杯に溶かして飲み干したと言われる真珠と変わらぬカルシウム元素の骨組みの上の気まぐれな起伏にすぎないのだ、と。この学説がいかほどの説得力と効能をもちうるのか、私は語ることができない。けれども、この世界は、本当は、互いに相容れない二つの異なる世界からできているのだ、という思想には多くの共鳴するところがある。
芝居がはねた後、楽屋へ行くと、そこでは役者たちが胸をはだけて化粧を落としながら、その晩の演技の出来不出来を語る姿が見られる。その一方で大道具をばらしたり、照明器材を手際よく下ろす裏方たちのリズミカルな足取りを眺めることができる。そう、舞台裏の世界は、板の上の世界とは全く異なる別個の世界を形成しているのだ。開演前の袖は、異様な緊張感に包まれている。俳優のみならず効果や小道具のスタッフも、誰もかも同じ一つの脈動に揺すぶられている。今晩の客は笑ってくれるだろうか、忘れ得ぬ思い出を残してくれるだろうか、あの台詞で泣いてくれたらなあ、いやいや途中で席を蹴って背中を見せて帰るんじゃないか。成就への願いと失敗の懸念をないまぜた覚束ない数分間を、固唾をのんで過ごすと、やがて、幕が上がり表の世界が繰り広げられる。
舞台裏と表という二つの世界の対立は、なにも芝居に限った話ではない。学生が夜陰に乗じて忍び足で捨てたゴミは、彼らの知らぬ間に回収されて無くなっているが、そこには厳かで無言の汗まみれの作業が展開しているし、自動販売機にコインを入れ、それと引き換えに手に取る缶ビールとは違って、料理店には必ずや厨房でいそいそと働く人びとがおり、テーブルの上の枯れた花を交換するウェイトレスがいる。走って当たり前だと思っている鉄道レールには、時には夜を徹してつるはしを握る保線の仕事が待っていることがある。奉仕について語ろうというのではない。ただ、こうした裏の世界の生き生きとした現実にひとたび触れると、それまで世界を見ていたのと同じ視角では、もう二度とこの世界を見ることができなくなってしまうのである。
酔った勢いでコップを割り、手を血まみれにした学生が深夜の病院にかつぎ込まれた。当直の看護婦さんはどうやら身重で、夜勤は決して楽しかろうはずはない。引率した先生が相手を気遣い何度も不意の訪れを詫びているのとは好対照に、その学生はいつ糸が抜けるのか、オートバイに乗れるのかどうかを、横柄な口調で聞いていた。彼は、生身の人間がうごめいている裏の世界を知らない人間だ。病院と自動販売機とを取り違えているのかもしれない。
何か説教じみた話になってしまったが、いかなる職業とて舞台裏の世界には、固有の労苦と感激があり、えもいわれぬ魅力があり、その世界を知ることによって、人は想像力を得るのだ、と思う。
[33年後の注釈]
1)クレオパトラの鼻。もしもそれがもっと低かったら、大地の全表面が変わっていただろう。これはパスカルの『パンセ』に出てくる。私はむしろプレハーノフの『歴史における個人の役割』の引用を覚えていて、そこでは低かったらではなく、短かったらという意味だった記憶がある。どちらにしてもどうでもいい話で、シーザーと出会った時はもう年増でケバいくらいに化粧をしていたことが予想される。ところで世界三大美女のことを、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町にするのはどうかと思う。前二者はともかくとして、小野小町でいいのか😂
2)この連載の期間、劇団民藝の鈴木智さんと久保まづるかさんの芝居「上手な嘘のつき方」の伴奏ピアニストとして出演させて貰い、和歌山、尼崎、横浜の公演があった。これが十年ほど続いた演劇体験の最後となる。台詞の多い役についたのはシングの「西の国の人気者」のショーン役くらいで、後は端役かピアノ伴奏が多かった。ピアノは弾けるが芝居は下手な人と思われていたが、楽屋の生活が楽しかった。楽屋ユートピア論を書こうと思ったくらい。
3)コップを割って怪我をした学生の名前が思い出せない。静岡県出身で少年ジャンプに漫画を投稿して採用されたことのある、余り勉強の好きではない学生だったけれど、ほぼ毎日行なわれる飲み会にはかかさず出ていた。
54話 笑いについて
退屈しのぎに夏空に浮かぶ雲をぼんやり眺めていれば、ラクダやクジラの格好をした雲を見つけることもあるだろうが、国王の太鼓持ちポローニアスに向かって、ハムレットは自分の見ている雲の真の形ついて語る気持ちなど全くなかっただろう。きまじめに心情を吐露したところで理解する相手ではない。意思の疎通を得ようともがけばもがくほど、滑稽な道化芝居を演じるのは自分の方になってしまう。だから阿諛や追従しか知らぬ人間から逃れられぬ絶望を、ユーモアにすりかえたのだ。ジャン・パウルも、ユーモアとは絶望した人間の示す礼儀正しさの表現だと言っている。
珈琲の味については一家言あるこの私が、間違って外食チェーン店で珈琲を頼んでしまったことがある。いかにも不味そうな湯気を立てた茶碗を運んできたウェイトレスは「これでご注文の品は全部おそろいでしょうか」と、おそらくマニュアル通りなのであろう、よどみなくさらりと言った。そりゃ誰もが食事をする昼どきに飲み物だけで済ますことは、少々気が引けないわけではなかったが、何も厭味を言わなくたってよいではないか。一応カップを点検し、匙を確認した上で、ええ全部確かにありますと答えておいたが、どうも無駄な会話をしているようでならなかった。それに店に入ったときも、一人客であることは一目瞭然なのに「お客様は何名様でいらっしゃいますか」なんて聞かれた。日ごろから自分の多重人格性に悩んでいるところに、こんな難解な哲学的問題をつきつけられては、たまったものではない。「お連れはいらっしゃいますか」って言えばいいものを。
相手との心の交流が絶望的に不可能な事態が、ユーモアを生み出す下地をなしているのなら、笑いもまた絶望の申し子である。バックウォルドの書いた「そして誰も笑わなくなった」という、今世紀のアメリカで最後に笑った人間の逸話は、笑いのない社会のもつ硬直した側面を諷刺したものだが、だからといって、笑う集団が健全だとは言えないだろう。信頼と理解が真に成立する仲間内では、顔面筋肉の痙攣にすぎない笑いではなく、むしろ穏やかで温かい呼気に包まれた柔和な笑みが座を支配することだろう。
ふと口にしたことで人が笑うとき、私は深い罪意識に苛まれる。笑いが息詰まる緊張を忘れさせ、孤独を等閑の扉に封じこめるものであることは、誰もがそれを歓迎することからも察せられようが、そこには必ず無理解と誤解が潜んでいるからだ。とうとうある日、私は今日こそは笑わないぞ、火付け役にはなるまいと決意して大学へ向かった。いつになく憮然とした態度で、仏頂面を崩さずに研究室に入ってカバンを置き,敵地に突撃する将校の決意をもって、学生がたむろする資料室に足を踏み入れた。ただならぬ気配を察したのか、彼らは異様な眼で私を眺め出した。どうかしたんですか、と一人が尋ねたので、私は待ってましたとばかり心の真実を伝えようとしたのだ。「今日から笑わないことにしたんだ」。すると彼らは堰を切ったように、腹を抱えて爆笑した。どうやらまた罪つくりなことをしてしまったようだ。
[33年後の注釈]
1)ハムレットとポローニアスとの会話は以下に。「あの雲が見えるかポローニアス、ラクダのような形をしている」
「なるほどハムレット様、ラクダのようですな確かに」
「俺にはイタチのように見えるがな」
「背中の所がイタチのようで」
「というよりクジラのようではないか」
「まさにクジラのようですなぁ」。・・・この後にあの有名な台詞が。
2)ジャン・パウルのユーモアの定義は美学論集のどこかにある。たぶんマルセル・パニョル「ユーモア」(岩波新書)で読んだのだと思う。
3)ウェイトレスとのここでのやりとりは、その後芸人さんがよくネタにしていた。フットボールアワーはM1決勝で披露した。現実に使うと余りウケることはない、としみじみ感じた。
4)バックウォルドのコラム集はこの頃5巻でていて、「そして誰も笑わなくなった」は第2巻。もちろんアガサ・クリスティーの推理小説のタイトルをもじったもの。
5)このエッセイの連載から7年くらい経ってから笑いをテーマにした本を三冊ほど書いたけれど、笑いの研究をしているからと言って、人を笑わせる技術に長けているわけではない、と身に沁みるほど理解した。
6)最後のネタはマーク・トウェインの講演のパロディー。トウェインは「今日は一度も面白いことを言わないからな」と宣言して、いつになく真面目に講演を最後までやり通したが、観衆はずっと笑い転げていた、というエピソードが下敷きになっている。でも学生が笑ってくれたのは本当です。
55話 ルネサンス風小噺
さて、何からお話しして良いのやら。初めてお目にかかるのですから、自分のことから始めましょう。私は今から四百年ほど昔に、トスカナ地方の小さな村で生まれた女で、マリアと申します。
聖母さまのようにもの静かで慈悲深い人間に育ってほしい、という願いをこめてつけられた名らしいのですが、えてして名は実を表わさぬもの。少女時代の私は、家の手伝いをすることはおろか、言いつけすら守れず、隣家のブドウ畑を荒らしたり、手飼いのキツネに鶏小屋を襲わせたり、かのオイレンシュピーゲルも顔負けといった悪事の数々を重ねては、涼しい顔をしているおてんば娘でした。
親も呆れ果てて、しまいには村を追われるように奉公に出されました。パドヴァという車馬の往来の喧(かまびす)しい都会の、学者肌の医師の家に下女として働くようになったのです。そこで私は変わりました。炊事や掃除だけでなく、診療の手伝いをするうちに、医学という学問の尊さが身に沁みて分かるようになったからです。もし、自分に男の子ができたら、きっと医者にしようと誓いました。
決して器量の良い方ではなかったのですが、やがて出入りの若い薬種商に気に入られるようになり、十八の年で商家の女房になりました。思いもよらぬ僥倖に心を和ませているうちに、待望の男の子が生まれ、ピエトロと名づけました。どうやら父親似だったようで、地味で口数は少ないが賢い子でした。親の希望もかなって、ピエトロは長い勉学の末、パドヴァ大学の医学部に進み、その将来が嘱望されていたのですが、まるで突然魔がさしたように仕事をしなくなってしまったのです。
きっと私の遊び好きの血も引いていたのでしょう、賭博に大枚をはたいたり、ジプシーに交じって乞食芝居に熱を入れたり、芸人にリュートを習っては作曲に精を出したり、不意に旅に出たり、とにもまあ大事な勉強をすっかり忘れてしまったのです。そればかりでなく、地元の新聞に、遊びの何とか、というふしだらな文を連載するようになり、そのことが話題になる度に、私は顔から火が出るように恥ずかしい思いをしました。
そして、とうとう決心したのです。安息日の夕方、ふだんから昵懇にしている魔法使いのアンナの部屋に行き、息子をたぶらかしている悪魔を追い出してくれるよう、呪(まじな)いを頼んだのです。三日三晩の怪しげな祈祷の末、アンナは、確かに息子さんに乗り移った悪魔はもういなくなった、と汗だくの額をふきふき言いました。そうして、ピエトロはかつての勤勉な日々を取り戻し、今は、ケルススの再来と褒めそやされる立派な医師になっています。
随分とおしゃべりしてしまいましたが、ここまでの話は前置きなのです。実は、アンナが妙なことを教えてくれました。ピエトロから出ていった悪魔は、今度は四百年後の世界の人間に乗り移って、また同じ悪さをするんだ、とう。だから、どうぞお気をつけになって下さい。悪魔の虜(とりこ)となった人間の書く文章には、Sで始まってNで終わるという特徴があるそうです。くれぐれも警戒してくださいまし。それでは、ご機嫌よう、皆さん。
[33年後の注釈]
1)珍しく小説仕立て。この数年前、友人で作家の高楼方子さんの結婚を祝して小説風の手紙を書いた。ルネサンス時代の女性に成り代わって語る形式が気に入って、この連載でも試みた。時代設定はガリレオの青年時代でニュートンが生まれる少し前。ケルススというローマの名医の名前を出したのは、あわよくば息子がパラケルススということにしようかと考えたからであったが、調べるのが面倒でそのままにした。
2)ピエトロはピエトロ・ジェルミが好きだという単純な理由から。アンナはアンナ・マグダレーナ・バッハのイメージが強いがジプシーの魔法使いにしてしまい後悔した。
3)オチは余り面白くない。アナグラムを使おうか、とか、折句にしようかと考えあぐねたけれど、一番安易な結末になってしまった。車馬の往来の喧(かまびす)しい、という表現をいつか使いたいと思っていて、やっと使えた、という満足感がある。まだ使っていないが、いつか使いたい表現に、たとえば「笑いさざめく」、「朽ちた葉を踏みしだく」などがある。どちらも三島由紀夫に「花ざかりの森」で高校時代に出会った言葉。