ティールブルージャケット 【#109】 たんけんちかのまち(後編)
目を開けているのに真っ暗な視界の隅でちらちらと白文字が瞬き、暗かった眼前に、モノクロだがぼんやりと夜明け寸前の明るさが戻ってきた。
何度か鼻で深呼吸するが、息が上手く入ってこない。口で何度も深呼吸を繰り返す。
頭痛と不快感は再起動時の常だ。しばらく待てば程々に元に戻る。で、どうしたんだっけ、左脚が膝下から取れたという警告があって、急にシャットダウンが始まって、犬に振り回されたまま気絶した――
薬師は、左脚を腿から上げてみた。膝が曲がらず、だいぶ力をこめて振り上げないと上がってこない。かなり頑張って太めの棒のイメージで振り上がった。膝下がある。
そりゃそうだ。彼女の身体は「人間に造作の近い人工物」、生体部品中心の戦闘外殻だ。昨今の全身型義肢外殻は、メーカー団体で外殻(アシスト外皮)という呼称を外すかどうか揉めている位人体に近い造作をしている。生体部分が少ない者に使用するため大部分が人工物でできていて、そこが生体部品か機械部品かの違いで性能差が出る。
薬師の今の身体は生体部品型で、機械型に比べきわめて繊細だがきちんと強力な代物だ。いかに顎が強かろうが、生物(ナマ)の犬の咬み合わせ程度で膝関節から足が取れるわけがない。
薬師は、ひとつ低く唸り、深呼吸して目を閉じた。頭痛がまだする。
でた、不具合。しんどい。
動くのがしんどいので、じっとしたまま体動と痛覚周りのログを漁ると、犬に噛まれて振り回された時に、普段なら犬に噛まれたという痛みを感じるはずが、脚が膝下から機械に巻き込まれて毟れた程の痛みを感じており、ショック防止の機能停止と同時に再起動がかかって、約二時間この状態だったようだ。
よくできたことに、通常の戦闘外殻では再起動状態だと最低限の生命維持しかしないので、小水位は漏れているはずだが一切そこら辺がない。
多分、再起動がしょっちゅうかかることが正常動作の想定範囲内で、いちいち漏らしてたらきりがないので漏れないようにしているはずだ。
開発者(久能朝顔医師)の、本音と建前がせめぎ合う『この女今すぐスクラップでもいいが、勿体ないからもっと弄るべき』と顔に書いてある営業スマイルが思い出される。
周辺部品が干渉し合った偶然の産物か、些細な尊厳を気にしたのか、その辺は何かの折りに訊いてみよう。ありがたいが複雑な気分だ。
痛覚周りの挙動は不具合だ。この事態が解決して家に戻ったら、メモにまとめてメンテナンスに持って行かなければならない。
薬師は、何度も深呼吸を繰り返し漸く平静に戻ってきた呼吸を数度して、そっと目をあけた。
先程までモノクロだった周囲が、かなり暗いがシャッター等の隙間からさす光で色を持っている。鼠の鳴く音と足音がする。頭痛もだいぶ治まってきた。外が人工の照明で煌々と光っており、シャッター前に誰かいる。
ふたり。
会社のバイタルチェッカーを含め、体内の通信回線全てが接続先を求めている。外に巣箱があったはずの昆虫型多機能ドローン・目々連の中継電波もきていない。
おそらくこのでかいイナバ物置を出ないと電波が復活しない。
オフライン作業ついでに課内通話ログをチェックすると、ベータとヨシムラが各々勝手に応援要請を飛ばし、不在の渋川課長に代わって秘書室の誰だかが落ち着けと特急受理スタンプを送ってきたところで途切れていた。相当慌てたとみえる。
どこかの私兵や軍隊が出てこなければほっといて平気だろう。
この集落? 不法占拠集団? が何の目的があって集まっているのかわからないが、不法占拠をして救護をせず怪我人を物置に放り込んでおく程度の違法性はある。
薬師は、物置のシャッターにそっと近づいた。ふたり分の物音と話し声がする。
書き物用の簡易テーブルとパイプ椅子を使って、薬師の銃――いつも上腰に括り付けているM500・小比類巻プリント4インチを撃てるかどうか、どう処理しようか悩んでいるようだ。ごちゃごちゃ悩んでないで、いいから返せ。
会話の内容から、ふたりは戦闘外殻は持っていない。何かが理由で生身の身体を手放し生活外殻を装着した、そこら辺の普通の人なのが容易に察せられた。
互いを撃ったら、当たりが悪ければ身体に大穴があいて、腕が関節から取れて銃ごと吹っ飛んでいくという警告が身体の方から出ているからと、撃つのを躊躇して押しつけ合っている。
全部止めて銃を早く置け、弄くり回すな危ないから。
薬師は着衣のあちこちをまさぐり、海に落ちても平気なように一番深いポケットに入れた、最低限の身分証とカードを入れ会社用の端末に装着した財布と、いつも持っている人体外殻用の緊急停止スティック四本、リップケースに押し込んだ通信電波中継用蝿型目々連(五匹入り)の在処を確認し、スティックを各一本ずつ両手に握り込んだ。
さすがに服を脱がせて没収はしなかったとみえ、運営はこの手の事に不慣れで詰めが甘いと思われた。
治安が悪いだけの、そこら辺の普通の人が相手なら負けることはない。
机と椅子がシャッターに多分近い。ひとりは立って、ひとりは座っているはず。
シャッター左寄り最下部に両手の中指をかけ、えいやと持ち上げると、ほぼ目の前で突然の事にぽかんと動きを止めた若めの男がふたり、小さな野外用テーブルを挟んで座っていた。
監視カメラの類は無い。
こころもち手前の男の首に逆手に持ったスティックを叩き込み、その首筋に手をかけ地面をふみきり、もうひとりに取り付いて首を刺す。
ふたりは小さく呻いてほぼ同時にくずおれた。
薬師は可及的速やかに、ひとりををひょいと担ぎ上げてパイプ椅子に座らせ、もうひとりはシャッター横に見張り風に置き直したパイプ椅子まで運び、座らせた後なるべく音を立てないようにシャッターを閉めた。それでもだいぶ音はたったが、開いているよりは少し時間を稼いだつもりだ。
銃を回収して物置から離れると、回線が切れ切れに復活し、バイタルデータが会社に送信され始めた。ポケットからリップケースを出して通信用蝿三匹を放出し、回線が安定して少しすると、案の定、別シフトで海上へ出ておりよく状況を把握していない渋川から、起きたら手短に報告しろとテキストが投げられている。
「設備部の調査前偵察にきたんですが、不法占拠者の飼ってる犬に噛まれました。痛覚が不具合起こして、ショック防止の再起動かかって、二時間位がらくた風に物置に入れられてまして。とりあえず今ここ」と自分の現在位置を送信する。設備部の調査対象空間のいちばん奥まった場所だった。
多少ヒマだったようで、体内回線の耳元で渋川の声がする。
『お、生きてるな。そこに何があった』
『契約上空洞の筈の区画で、不法占拠があって村ごっこしてますね。ちょっと治安が悪そうな普通の人かチンピラの集団です。予防接種してない生身の犬を飼ってます。何の集団だかまだわかんないです。拝む儀式とか無さそうなのと皆若めなんで、家出人かな? 中心人物が不明なので何とも』
『ベータ達には、増援が到着してお前が暴れはじめたら制圧しろとは指示出した。もう少しで増援が到着する。どうだ、何かやれそうか』
『無茶言わないでください。今起きたばかりです。この空洞割と広いんですが、破損面が上の方にあって、設備部が言うには光が多少入るはずなんですよね……なんか暗くてね。人工照明ついてるんです。今時間帯って、破損面に日光あたってますよね?』
『当たってるはず……だな』
薬師は、無言で話しながら物陰に身を隠し、人の多く居る方をうかがった。
『何か売ってますね。フリーマーケット風です。まさかと思いますがイベント開催中じゃないですかねアレ』
『えー不法占拠した空間で何のイベントするんだよ……イヤダワア……』
潜んでいてもしょうがないので、薬師は人混みを避け、物陰を伝って、できる限り壁際の隅を移動した。壁面の破損箇所から外に出られるだろう。設備部の作業用ラダーが破損箇所近くに設置されているから、そこに取り付けば登っていける――自分が状況を把握していないからとりあえず暴れてこいとか、上司のくせになかなか酷い事を言う。
だいぶ広い放置区域の壁際を進んでいくと、今度はそろそろ身を隠す場所の無い隅のほうまでたどり着いた。生活の喧噪も遠くなり、無機質なコンテナハウスが整然と並んでいる。窓と出入口がある無人のひとつを試しに覗くと、細長い1K平屋(六畳)といった感じだ。いくつか組み合わさり、二段重ねになっているものもある。
人影が見えた気がして外れのひと棟を覗きこむと、見覚えのあるスーツ姿の男が、簡易キッチンの前でお茶の支度をしている。南洋署の刑事・井筒だ。ここ数日行方不明になっていたそうだがこんな所に居たとは。
何の用でここに居るかはわからない。すごい普通に紅茶を淹れている。
何やってんだ。
こつこつと窓を叩いてみるも無視され、ちょきだの変顔をしてみてもこちらを振り向く気配もないので、薬師は早々に諦め、課内通話に所在の報告だけしてその場を立ち去ろうとした。
と、話し声やら足音やら、数人が連れ立ってこちらに近づく気配がする。とっさに隠れる場所もなく、彼女は慌ててコンテナの屋根によじ登った。
数匹の、生体らしき大型犬に散歩用リードを付けて引き連れた、割と思い詰めた顔をした男を筆頭に、数人の男女が連れ立って歩いている。巡回と犬の散歩を兼ねているようだ。
特に口を開いて話をしているわけではない。今は指向通信の内容を割る事はできないので、彼らの思惑が細かく判ることは無かった。
薬師には、割と思い詰めた顔をした男に見覚えがあった。
どこかで遭って会話を交わしたとかではなく、写りの悪い写真と、生存捕縛が条件で提示された、割と多めの賞金――スーパーの掲示板に貼ってある、この顔を見たら110番のビラ。古すぎて賞金稼ぎの使っているデータベースに載っていない。
本土でどこぞの議員の選挙演説中に、見物人の中でどこからか連れてきた孤児を爆発させた、死去済み外国人女性のガワをした男性。外国のヤミ医者で戦闘外殻を装着しているという噂もある。余程気に入った外見なのか、カネがないのかずっとそのままのようだ。
会社の仕事中でなければ、犬も人も今度こそ全部殴り倒して賞金をいただこうかなと思った位見覚えがある。地中に潜んでいればそうそう見つかることもないのか。
薬師は、先程放出した目々連・電波中継蝿五体のうち、あまり性能が良くないがカメラとマイクを搭載した個体を呼び戻した。指名手配犯が、警官を入れたコンテナに近づいてくるとなると、ちょっと話が別だからだ。
良いタイミングで蝿が一匹帰還した。複数人のうち一人の服の裾にくっついて同行させる。このまま二十三時間程度は拷問シーンの中継録画でも自動でしてくれる。録画保存先は会社。用途が無くても自前で保存すると、色んな意味で後がよろしくない。
さてどうしようかなと、屋根上で仰向けになってごろりと寝転がったとき、当たりが悪くて少し身体の下がきしんだ。
コンテナ出入口の金具につながれた犬が、屋根の上に向けて吠え始める。
怪しいきしみと思ったか。じっとしてたら飽きてくれないかと、薬師は息まで殺してじっとしてみたが、犬はほえやむ気配も無い。
臭いとかだと嫌だと思いながら、反対側から飛び降りて逃げようと思いとりあえず様子を伺うと、見張り兼犬の世話係の、慣れた感じの男が出てきてこちらを見上げた。犬に渾身の飛び蹴りを入れて走って逃げる計画はおじゃんだ。
何を言っているのかは犬が煩くて聞き取れないが、割とおだやかな談笑の声が、薬師の真下の換気扇あたりからする。犬が連れて行かれるのを待ち、時間を見計らって裏手から降りれば問題ないはずだ、ったのだが、先程自分が来た方向から数人が息せき切って走ってくるのが遠目に見えた。
脱走がバレたか。ええいもう、のんびりやれねえな!
吠えやむ気配もない犬を尻目に、人に聞こえる音を立てないよう少し転がってコンテナ裏手に飛び降りた薬師は、姿勢を低くして犬の世話係が背中を見せた隙にその場をそっと離れ、船体壁面の崩壊地点まで小走りに走った。
そのうちアナクロにも肉声で脱走を告げる騒ぎがコンテナ付近で起こるのが聞こえ、その辺の人が野次馬になるまで、積んであったパレットに被せたブルーシートの下に身を隠す。
すっと周囲に人の気配が無くなったのでブルーシートから這いだした彼女は、目視で自分に迫る危機を認識した。
犬だ。まだリードに繋がってはいるが、正確にお世話係をこちらに誘導してきている。あれを放されたらちょっとかなわない。
パレット上に姿を現し、登る手がかりも少ない壁面に指の力だけでとりつき登り始めると、放たれてぎりぎり真下で吠え始めた犬がパレットに登り、大ジャンプで噛みつこうとしてくるが、薬師の登攀速度が速かった。
この集団が性能の良い飛び道具のひとつも持っていなければ、このまま崩壊面のキャットウォーク跡まで登り切って薬師の勝ちだ。
ぱらぱらと数度発砲音がしたが、あまり上手ではないらしく、離れた所に穴を開ける程度の当たり具合だった。目指すキャットウォーク跡まであと少し、到達すれば通路の残骸を伝って、点検用側溝まで上がれるはずだったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
斜め上に伸ばした手を、背後から迫った風圧がぶち抜く。慌てて引っ込めた手の甲は、中指と薬指の間が割れていた。
痛覚周りを感覚遮断しているから痛くもかゆくもないが、これではこれ以上登ることはできず、落ちても怪我以上は免れない。
左の指だけでぶら下がっているのも次弾でやられる。薬師は、何が通過していったかよくわからない、鋼板に大穴の穿たれたささくれに身を振って近づけ、尖ったささくれに思い切り右手首を刺して身体を支える時間を稼ごうとした。
くたっとした手応えがし、右手首は何にも刺さらず外に出、ずぶずぶと壁を滑った。紙の切り取り線を破く感じの手応えがする。
握れない右手で何とか割けていく部分を掴み、ほどけていく壁に左手で飛びつくと、身体が少し落ちて、本来の壁面部分にびたんと手が当たって止まった。
ドッと衝撃音がして、左ふくらはぎから僅かに離れたところに、矢というか銛が構造物に突き立つ。ここには船体の構造物がある。
船体の外壁崩壊部にシートか何かかけていたのか。そう察するのに時間はかからなかったが、ブルーシートの仲間ではない、このシートは何でできているのか。
薬師は、左足首を刺さった銛に器用にひっかけ一挙動でのびあがり、本来の壁面が剥き出しの部分に右足を踏みだし姿勢を直した。
ほぼ動かない右手と無事な左手で布地を握りしめ、プチプチ梱包材が細かく手の中で潰れるのに似た感触を覚えながら、勝手にほどけていくそれを服のポケットにねじこみ、ジッパーを閉めながら銃を探って腰に右手を回す。壊れた右手を回してふと気がつく。
あ撃てないわこれ――
斜め下から前頭部にかけて擦るように銛が射出され、放物線を描いて、だいぶ離れた隣の船に刺さっていく。その光景を最後の記憶に、彼女はわざとバランスを崩して、海に落ちていった。
『ハローハロー。おねえさん、生きてるかニャ?』
誰にも通話を接続していない筈の耳元で、猫を被った合成音声がする。
邪魔だ。これからその海面に出なければ息が出来ないのに、今相手をしている余裕がない。
『ニャ――んおいババア止まれ、顔出すと怪我すっぞ』
猫の合成音声が、かなり苛立った低い男の声に変わって、直後目指す光の真上に円いものがぼんと覆い被さってきた。
海上で人を捕まらせておくインスタントブイだ。
薬師は直撃を避けながらブイに捕まり、海面に肩から上を出し、耳の奥の音声に向かって毒づいた。
『おうどの猫だ、ババアとは何だババアとはご挨拶じゃねえか、このくそヒラ機材ぁ? 社長にチクんぞ、ねこちゃんごっこしたオッサンがすごい失礼だって』
すぐ側で【スズキのツナ缶】とレタリングしてある小さな漁船が旋回し減速を続けている。貸し船屋鈴木の時間貸し釣り船だ。
『何だ元気そうだな。ヒラ機材ってな新しいな。俺より長生きしてる癖によく言うぜ。お得意さんが無事でよかったよ、今引き上げてやっから。それまでにサメにかじられない保証まではしねえニャア』
『梯子上がるには手がちょっと。捕まるものくれ』
『ただの釣り船だからニャア。まあ、お宅の非番の社員ちゃん乗せてるから引き上げて貰って』
釣り船が正確にブイと薬師の脇につける。機材として搭載されている猫配膳ロボットは今日も絶好調らしい。前の社長が生活外殻代わりに入っていると噂のワーカホリック徹夜くんというのが乗っている。
「えっあ……あらどうも……ありがとう」
たまに社屋で見かける、特警一課海上警備の社員が船上から身を乗り出した。彼が伸ばした大きな右手から腕にかけて左手で掴み、薬師は割れた右手を船縁にかけた。
「その手じゃ上がれないね。ちょっと失礼」
抱きかかえる様に濡れた服を掴んで船に引き上げ転がされ、薬師は言葉にならない呻き声を上げて転がった。起き上がって向き直り、お互いどうもと会釈する。
「すみません、休みの日に。助かりました」
「近くで釣りしてたから。特三って大変そうだね。手大丈夫?」
「ええ大丈夫、ばい菌入るとかそういうことはないんで。付け替えたら直ります」
地方都市が一個丸ごと搭載されている【☆あぐらいあ☆】に設置された係留池を目指して、そろそろレンタル時間が終わろうとしている釣り船が向きを変えた。
『ニャーン。おしらせいたしますニャ。ただいまより当船は、貸し船屋鈴木店舗前係留池に帰港いたします。どなた様もお忘れ物無きよう、お気をつけくニャさーい』
鴨羽色のジャケットを脱いで袖を絞っていた薬師は、かわいらしい合成音のおかえりアナウンスに被さるように、耳の奥で男性が喋る私用通信の内容を、把握しかねて首を傾げた。無言で指向通信に応える。
『私から何が出てるって?』
『違法電波。何だこれ、見覚えのある周波数なんだよな。俺扱ったことはないんだけど……俺の記憶が確かなら、動く物を何でも遠隔起爆装置に仕立てる奴だ』
怖いからお前居残りね、と猫配膳ロボットに首があったら何度も傾げている口調で言い放ち、彼はお客を帰港させるシーケンスに入った。
しばらく後、下船する同僚を見送り、薬師は、猫配膳ロボットに呼びつけられて漁船の船室に入った。
標準マニピュレーションアームをわきわきさせながら猫面の円筒が言うには、もっと細いアームで掴み出したいものがあるという。
拒絶した場合、違法電波の発信源として、あけぼの会警備部に渡した後、あけぼの会病院にある警察病院棟へ直通の社内便モノレール用コンテナの特殊な奴に詰め込んで発送しなければならない。
――今までお前の会社は、閉塞遮断コンテナに人間を載せて発送したことがない。XLサイズスーツケース大のコンテナに生きてる人間を突っ込んで三時間、トラブルがあれば五時間以上待機させるような真似はしたがらないはずだ。帰ったらサンプルを取らせろ。武士の情けで店の会議室使うから。
「病院部が何の関係があるんだ」
「掴み出すもの見りゃわかる。出てこなきゃ在所をマーキングするから、その足でメンテナンスに入ってほしい。あけぼの会病院、予約に融通きくか?」
「まだだいぶ日数がある。大きな病院だから、空きがなけりゃごねても無理だよ。隣の船の久能医院に明日朝イチが一番ものがわかって早い」
「夕顔先生か。俺つきあいないんだよな」
「久能医院に一番近い係留池まで連れてけ。時間外の交渉するから。渋ちん直帰ヨシって言うかなあ……」
「うんじゃあおまかせ~」
久能医院に時間外の交渉を成功させ、渋川宛てに直帰直行のおうかがいを出して即答OKスタンプを確認した薬師は、その足で貸し船屋鈴木の店舗に入った。
防火防爆シャッターが要所に下ろされたテナント通路を誘導され、会議室に留め置かれる。
濡れたツナギと上着を脱いでエアコン直下にぶらさげ、借りたバスタオルを被って会議室の隅のパイプ椅子に座り、長机の端に出された水と、どっから持ってくるのか二リットルパウチ入り内臓洗浄剤(パーツクリーナー)を見てげんなり顔をし、ついでに課内通話にひとつログを残した。
『皆げんきっすか。貸し船屋鈴木の前の社長が入ってる猫配膳ロボットに水揚げされました。なんか違法電波の発信源が体内にあって、自走遠隔起爆装置を仕立てる奴だってあんまり脅すので、取りに行きます。あけぼの会病院だと予約の融通きかないのと、手の破損の件もあって久能医院開けてくれたんでそっちに行きますね。明日はシフトどおり出社できると思います。お手数かけます』
生体部品型の外殻体は、内臓部分を機械部品体とある程度共用するので、画像診断時にまずい下剤は飲まなくても良いのだが、内臓の取り外しが切開沙汰になるので、それを避けると結局専用のパーツクリーナーを飲まされる。これが下剤より余程まずい――薬師は味覚を遮断してしかるのち巨大パウチを両手で無造作に掴み、二リットルを一気飲みした。
半端についた風味の変な香水臭が鼻の奥でする。このパウチ超きらい。
会議室に合成音声が入ってくる。
『豪快だニャー』
「こうでもしないと嫌いなもの飲めないんだわ」
『くそくらえだって噂の薬師サンも、食えないものあったんにゃ』
「今すぐ脳味噌ぶっ潰していいか……」
まだ無事な左手で抜く手も見せず机上のM500を取り、複数の光ファイバーツリー様の細いマニピュレーションアームをウミユリよろしくさわさわさせて近づいて来た猫配膳ロボットにつきつける。つらっとした笑顔で猫顔円柱は応えた。
『脳味噌ここに入ってると思うンにゃ! すっげ☆アナクロ☆おばあちゃん☆』
無言でハンドキャノンの撃鉄を起こした薬師の能面顔と、ぴくりとも狙いのぶれない左手を見比べて、冷や汗顔のグラフィックを点滅させた猫配膳ロボットは、すんませんすんません撃たないで脳味噌はいってますヤメレと男声で繰り返した。薬師はつまらなさそうに銃を机に置き、まずいものを食べた後にする顔をした。
「ババアババアってうるせーわガラクタ。で、何したらいいの」
『生身の飲用内視鏡と一緒だよ。とりあえず何遍かトイレ行きたくなるからよろしくね』
しばらく後、言われた通りの事態になり、病院でもないところで何をしているのだろうと顔を覆って溜息をついて歩く薬師を、別の猫配膳ロボットが先に行くよう促した。進路の邪魔をするなという。
照明のついた会議室目指して非常灯がぽつぽつとついた廊下を急かされながら歩く。直帰直行伺いも久能医院の時間外予約もまあまあ上手く運んで、あとは……
『お待ちしておりましたニャー』
わざとプレゼン用のモック(径四センチ・長十五センチ)を持ってきて食えという猫顔円柱の脳天にげんこつを張ったり、「カメラ壊れた」とうそぶかれ飲用内視鏡を複数飲むのかと面倒がったりしながら、撮影だけは終わった。
撮影だけ。胴体、内臓の中に目当ての電波発信源は無く、しかし電波は胃のあたりから出続けているので、これ以上は病院の仕事になる。おそらく胃のどこかに沿う形で潜伏している、というのが猫ちゃんの見立てだ。
『胃に穴でもあいてりゃ侵入経路も面倒がなかったんだが。久能医院と御社には俺から送っておくよ。どんな形してたか後で教えて貰わないとな。遠隔自走起爆人間、相手にしてホントに困ったのは機材が発見できなかったことだから』
「どうやって電波が出てるってわかったのさ」
『小金持ちのカワイイ飼い犬(ピジョン・フリーゼ)の尻から出たんだよ、気の早い機材が』
ものすごく嫌なビジュアルが脳裏をかすめたが、薬師はあえて何も言わなかった。
「じゃあこの、布の中にそれがいるのかい」
『なに、布?』
生乾きのツナギのポケットから、入れたときはバンダナ大だったのに最早掌に収まる程度になってしまった、壁面のふりをしていた布を掴み出し、薬師はそれを猫配膳ロボットに差し出した。
『早く言え。お前の触った物全部洗浄かよしょうがねえな。この布は何だ。手から離すなよ』
「崩壊箇所を覆ってたんだけど、壁にしか見えなくてね、掴んだら自分でほどけていった。それで海に落ちざるを得なくて」
『じゃあそれも久能医院にもってけ。入れ物は……持ってこさせる。帰り支度しろ。十分後に【おさかなパラダイス】が社屋係留池につけるから、それで行ってくれ。俺の無理を押したから、今件往路の運賃は発生しない。復路は自己負担。乗って帰らないなら待機せず戻るから、中の機材にそう伝えること。おつかれさま、おだいじに』
猫配膳ロボットは、布を受け取ることはしなかった。シャーレを持ってきた別個体も、『ご自身で入れてくださいニャ♪』とそれを机の上に置く。薬師は布を容器に収めて、ポケットに入れ、乾いたツナギと上着を着直した。
「今日は色々お世話になりました」
『またご縁がありましたら、是非ご利用くださいニャ♪』
翌朝、隣の船と【☆あぐらいあ☆】の間に渡された通路の上にある入国事務所の順番待ちの列で、薬師は、視界の隅にテキスト入力画面を開いて、設備部と上司、秘書室の春日井室長宛に今件のレポートをまとめながらヒマそうな顔をしていた。
しかし、壁面を偽装した布地の素材に、頭部と尾部のついたティラチェーン状のロボットが使われているまではきちんと書けたが、それがバラバラに体内に侵入して、胃の際で合体し条虫然として潜伏しながら、かつて生物・機械を問わず無差別に自走起爆装置となす違法電波を放ち続ける段になって、本当にこの文章で大丈夫だろうかと首を傾げ、軽く唸って途中保存した直後に名を呼ばれた。
レポートは書き上げ提出したが、案の定設備部から秒で『与太ですか?』と塩対応された。
【了】