ティールブルージャケット無印 【砂男 (2/4 あるいはそのまま完)】
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☆――【宣伝ここまで、本編をどうぞ】――☆
巨大発電設備をしつらえた小さな島を取り囲むようにして、地方都市程度の街を背負った巨大な艦船がいくつも浮かぶ、遙か南洋の某島近海。
艦船のひとつ『☆あぐらいあ☆』上の市街地は、かつての治安維持の紆余曲折を経て、まだ癒えぬ多少の損傷と共に今日も一応平和であった。
船上には、かつてあった大規模テロの被害が残り、応急処置以来ぶっちゃけ金が無いため修繕が完了していない地域がある。
船主であり、船の背負っている地方都市を実質維持管理する地方企業グループあけぼの会は、可及的速やかに修繕と再開発を行っていたが、何事にも限界というものはあった。
斯様な理由でそれら地域は、資材置き場や倉庫街と化していた。船体構造物が剥き出しの部分も残る場所であり、隣接する住宅街の家賃相場はおそろしく低く、治安もよくない。
その住宅街に居を構える同僚ADDの姉REDから、ストーカー対策として私的依頼をされた薬師ルリコは、ADDがこの対策に取られて数週間という長期間夜勤が出来なかったこともあり、可能な限り彼を身内の私用から解放すべく、私物の昆虫型ボット【目々連】各種、機械犬、何なら自身の旧友兼同居人兼私用戦闘システムオペレーター兼会社の遙か上役・不動桜ハナ教授端末体まで投入して対策を講じた。
やれることは全部やった。後は放っておけば動きがあるし、南洋署外注係で賞金をかけてくれて小遣い銭になるなら一気呵成にやっつける。
多少気になること――姉弟の出身国に本拠を持つ宗教団体絡みのおそれはあったが、昔のように暗殺者がすぐさま来るわけではない。
この船は、警察署もあるのだが慢性的な人員不足で、あけぼの会グループ系列警備会社・あけぼの会警備部が下部組織として仕事をしているため、それなりの治安維持が可能になっている。
暗殺者対応とて例外ではない。そこに繋ぐだけの下準備はした。
偏執的な対応だと教授から指摘があったが、ここまでやってとりあえずは、ストーカーと思しき男のSNSアカウントがペーパーカンパニー所有だった為凍結され、本人の出没も一旦止まった。
薬師の所属する警備部特警三課は、ADDの夜勤が可能になって漸く日常を取り戻した、はずだった。
夜勤帰りに、早朝開いている銭湯に立ち寄った薬師は、湯船で数分過ごすうちに半分眠ってしまっていた。
と、耳の奥で呼出し音が鳴り、体内に設置された回線が自動で開く。通信相手は教授。
定時報告をお互い出したもののチェックし忘れており、薬師のバイタルが仕事中ではなく、湯船で寝ているそれになったので改めて連絡してきた。
レンズコーティングの剥げた風呂用の古い眼鏡に、ディスプレイ光が点る。
『おはよう。溺れるわよ』
『ぶくぶく。何かあった?』
特に変わった事は何もないが、小比類巻銃砲から発注に関しての問合せがあったという。
『あ、それ在庫不足で注文書戻ってきてませんか。今度装備補充品点検リスト出すんで、菓子折持って行きますけど』
『無情の差し戻し。犬の交換部品これだけ頼むなら本体を頼めって』
『えっ――そんな頼み方したっけか。いくら何でも在庫ねえだろうなって思った記憶ならあるんですけど』
えっ、という薬師の呟きに、教授はでかい疑問符をスタンプで送ってきた。薬師は、頭に乗せたタオルを取り眼鏡をふきふき答える。
『本体頼むなら回収後の使用用途つくんないともったいないし、収容充電ケージも必要です。ケチったならわからなくもない。でも幾ら私がドケチで寝ぼけてても部品だけ頼みますかね?』
『自分のしたことでしょ。記憶がないなら異常行動よ』
拭いた眼鏡をかけ直し、薬師は首を傾げて、頭からずり落ちて湯船に落ちてきたタオルを慌ててキャッチした。
『あ――やっちまったなあ。連日連夜の夢のせいか。途中覚醒と疲労が酷くて、朝のバイタルチェックで会社から苦情出るんですわ。毎晩どんちゃん騒ぎしてんじゃねえって』
『しばらく見なかったのにね。社長それ知ってる?』
『命に関わるってんで社長は知ってる筈です、思い出すかは別ですが。
内容はあけぼの会病院が知ってますが、見せて貰えないんで、朝顔先生に聞いてください』
内容にはさして興味がない相槌が聞こえる。
『今日は帰ってくるかしら?』
『この調子だと朝8時には家に着きます。そのまま寝ますね』
『予定表に昨日まで無かった女子会がねじ込まれてるわよ。まがりん、誰』
『入れた覚え無い。そいつはおかしいな』
『記憶に齟齬が出てるとかおかしいわ。次のメンテまで待てないわね。朝顔先生予約ねじ込めなさそうだし、夕顔先生に頼んでおこうか?』
薬師はまがりんって誰と必死で思い出す努力をしていた。
『思い出した。前に会社の使いで行った時、暇がなかったらコメント入りで消せって、あの受付の人が共有したがったから、生返事でオープンしたんだった……』
薬師はえーだのうーだの言いながら湯船から出て、隣の水風呂を覗き込んだ。冷たそう。
『教授ぅ、夕顔先生の予約お願いします。頭の調子がおかしい』
『じゃあ今日これから、家に帰る前に隣の船ね。予約しておくわ』
水風呂に爪先をつけ、ぴゃっと上げた声が通話に乗る。
『何してるのあなた』
『水風呂』
薬師は夢を見ない。正確には、夢とされるものを見はするが表示しないように、脳の隅に安眠機材を仕込んである。過去に結構強烈な人生を送ったがために、ストレスが嵩じると連日連夜悪夢を見るのだ。
病院側で完全に夢を抹殺したくないらしく、機材は最強から三番目位の結構なものを使っている。しかし、途中覚醒と疲労感は未だ避けられてはいない。
ログを取り込んだ母機を経由して、久能医院の久能夕顔院長は夢の内容をうんざり顔で軽くチェックした。
「うーん……内容は前に朝顔先生に貰ったやつそのもので、変化はないかな……あんまり直視したくないね」
薬師は喉の奥で呻きながら困ってみせた。
「特にストレスも感じてないのに見ますかねぇ……会社のバイタルには途中覚醒の睡眠不足しか乗ってないんですよね。ストレスの数値も普通だし、変わったことがあるでなし、不運な現象だけが起こっているって感じで」
「変わったことか」
夕顔院長はふと口にして、そこら辺の電子紙ディスプレイを取り上げた。
「キャラクター増えてる」
「キャラクターってアニメじゃねえんだ」
「人類かどうかもわからん奴が増えてるんだ。キャラクターとしか言いようが無え」
夕顔院長は電子紙に絵を描き始めた。顔と思しき楕円、顔から直接生える胴体と思われる大きな赤い起き上がりこぼし、胴にひかれた縦の二本線――
胴体に目玉をモチーフにした絵柄を書き加え始めたのを見て、薬師は、えっと息を呑んだ。絵柄に見覚えがあった。
「これ玩具ですかね? くまのプーさんの豚?」
「何だろう。ぼやけてよくわからない。形からしたら起き上がりこぼしじゃないか。ただ、でかいんだ。人間位のサイズがある。雑に加筆するにしても雑すぎだと思うんだ」
2Dモニタの表面に出てしまった小さな動画ウィンドウを隠しながら、夕顔は、家に飾り物は無いかと聞いてきた。
薬師には、家のどこかにこんなものが居たりあったりした記憶はない。
「朝顔にはおれが見たままと内容をそのまま教えといた方がいいな。書類書くから受け取って帰って」
夕顔は画面をしまった。薬師も喉の奥に違和感を感じたが、不服は述べなかった。
帰りしなに古式ゆかしき書類の封書を受け取り、女子会の日付を変更し、惜しむ受付嬢に軽く詫びて、薬師は何事も無く帰途に就いた。
あまりお出かけという気分ではないし、何より夜勤明けだ。
体内回線が音を立てる。発信者は教授。テキストのみで、眼鏡の中で何か良いことがあったかと聞いてくる。
いいことは特にないが、このような下手くそな絵で描かれる闖入者が夢にあったのだと起き上がりこぼしの画像を送ると、下手ねと間髪入れず返してきた。
『……ここんとこ夜中に、居間の真ん中に人間大の質量があるんだけど、アウトラインがそれに似てるわね』
『ええ……ヤサ割れてんじゃねえか……今日もあったら家に火をつけるぞ。火は全てを浄化する』
『寝ぼけて自分ちに放火する話してんじゃないわよ』
『発生したら起こして場所教えてください。そこぶん殴って一切の手応え無かったらお化けの話をしましょう』
そんな与太話をしながら帰途半ば、艦船間の出入国手続きを待っている間に、あけぼの会系列に最近加わった地場の不動産会社から直接、体内回線(音声/映像)に入電した。
用の無い部署だが、さて。
話を聞くと、倉庫地域に隣接する住宅街の治安情報の提供をしようとの事だった。上司の渋川が頭上で交渉したのだろう、通話グループに彼の名が入っている。確かに作業が8割方無くなる。残るは倉庫街・崩落地域。不動産会社の営業だけで行かせられない場所だけになった。
薬師は、会社の書類フォルダの中から系列間相互情報提供覚書の叩き台を取り出し、こちらの必要事項はそこに全部書いてあるので、そちらでイヤだと思う所を直して返信してほしいとメッセージを付けてテキストで別に送った。
受信を相手方で確認した音がする。まだ相手が通話を繋ぎっぱなしにしているので、薬師は「まだ何か」と水を向けた。
『あの、薬師さんね、……そちらのね、総務の人に話聞いたことあります? ウチで社宅用物件選定したら連日悪夢見て病欠してる社員さんの話』
『いや、全然。あの、……誰ですか』
今行った先と用事が用事だったので、薬師は思わず誰何した。
よくよく聞くと、社宅用物件の選定を行うと必ずそこが事故物件になり、後から物件を指定して入ってくる店子に共通する信教があるのだという。
祈祷がうるさく、臭うと苦情が出る。その上、業務関係者が寝込む。
『これ。この系列の宗教団体の信者が全部の物件に入ってるんですけどね。雑にお前だって決めつけられる証拠がないもんですからね』
見せられた画像は目をモチーフにした、あまり見たくないものだった。
『ご祈祷して悪夢みせたところで物証にはならないでしょう。私のとこにも別件で出てますけどね。おばけ』
耳の奥で誰かと出た出たと言い合っている。薬師の家は持ち家なのだが、余程切羽詰まっているのか。
『賃料上げたら出て行くんじゃないですか』
『上げたら上げただけずっと払われてて、さすがに常識的にこちらが限界なんです……』
『金持ちだなあその店子』
常識的な賃料上昇に耐えられないようなら、種々雑多のリスクをねじ伏せて敬虔な関係者を送り込んだりはしないし、それが無法かつ派手な暴れ方をする狂人ということもない。結構な金がかかるし、割に合わなくなった時点で行為を止めるだろうが、雌伏の末数年後また来たような奴らだ。
どうかなあ。
『あけぼの会の社員が来て欲しくなかったと仮定して。どこの課の借り上げ社宅ですか』
『ひとつは特三、これは別の所があったんでそこにしました』
『あーわかる。ADDんとこね。だいぶ前でしょう』
『内勤より外勤ですね。内勤は秘書課がダメ』
『……で、お宅の紹介する物件に住みやがると』
『そうなんですよ、紹介と前後して普通に借りるんですが、蓋を開けたら』
『ひとつずつ暗殺して回るわけにもいきませんねえ。本当に呪われたとして、不確定現象なんで……警察巻き込んで討ち取らせるか滅ぼす的な話ですよね。今の話、解決できるか不明ですが箇条にして私に送っておいてください。課長の渋川も宛先につけてくれると助かります。何だこれはって言われたら、薬師が送れって言ったって』
悪夢絡みの状況は、今まさに薬師のもとで進行中だが、今日の段階で手がかりも無く、今すぐ解決できない。
焦るなを言外に匂わせ、薬師は通話を世間体を保ちながら終了した。
無茶苦茶言うな、と言うのも簡単だが敗北だ――どうしよう。
自分が言ったとおり下手人と首魁を両方お上に討ち取らせるのがベター、全てに於いて滅ぼすのがベストだと思う。
市街地の治安情報の提供はするすると話がつき、薬師が入管を通り抜けて買物をしてる最中には、会社の使用している地図上への仮反映が終わっていた。
なんでも、偶々渋川が暇で、総務課で油を売っていたら薬師と不動産会社の書類のやりとりが発生し、薬師から「課的にこれでよろしいか」と覚書の内容伺いがあり、目の前に総務課長がいたので、今すぐ稟議を通せとじゃんじゃんせっついて通させたという。そこから先は早いもので、不動産会社側の正誤確認が終わったら使える事になった。
『そういうわけで地図はあっちの正誤表待ちな。送られてきたファイルそのまま使ってるから、そうも間違ってないと思う』
たこ焼き屋でイイダコのたこ焼きを買っていると、会社の端末がヂッと震え、上司の渋川から突如おじさんスタンプとテキストが送られてきた。
『早いな。暇だったんですか?』
『暇はないよ。人事と一緒に総務の課長に説教してた。悪夢見て眠れないで休むのが脆いって言うから、お前が仕事振りすぎなんじゃねえかって』
『……その総務の人の悪夢の件なんですがね、こういう奴が出るエグくて汚い夢でしょう』
送りつけられた下手くそな起き上がりこぼしの絵を見たのか、ビックリ顔のスタンプがポップする。
『おう何だお前。紅いシャツ着た豚みたいなでかい人形が出るって何で知ってんだ』
『豚なんですか。先程帰りに本院の予約ぎっちぎちだったから、夕顔先生んとこ行ったんです。安眠機材の中身を見て貰いました。機材の限界でぼんやりしてて何だかわからないから、朝顔先生に回しておくって。私の夢だから皆の比じゃないキツさなんで、アレですが。
で、総務の話なら、実は今さっき不動産屋に与太話的に聞いたんですよ。治安情報の中のコメントとかに『借主の素姓が悪くて困る物件』みたいなのなかったですか。出来れば今日家に帰ったらで確認したいんで、閲覧許可出してください。今買物中で……』
『いいけど……会社が絡んでお前が入れ込むような話か?』
『ADDの姉ちゃんとこに出たストーカーがその目玉柄と信教一緒の所までは前に報告書出してます。以来私もどうも悪夢を見てて始業前のバイタルに食らい続けて連日怒られてるんですよ。色んな記憶に齟齬も出てるんで、夕顔先生のとこへ。今日は早く寝ろって』
『そうかお前、夢の表示殺してるから、途中覚醒で済んでるのか』
そりゃ急ぐな、との発言に、急げ急げとスタンプを送りつけ、薬師は端末の画面表示を切って鞄の奥にしまった。後は帰宅してからやる。
REDのストーカーから治安情報マップに広がり始めた話は、当初の2割程度に収まりつつあった。ストーカーの件自体は解決していない。
ひとりで目々連を大量投入して仕事の合間にやるよりは、先程(残業時間帯に)不動産会社から依頼された巡回が入れられればだいぶ楽になる。割と運がいいほうに転がった。
後は崩落部分と倉庫街の仕事が残った。それらは月末のシフト組みや、設備部とのすりあわせを経て、超特急なら来月頭から、もう少し遅くても夏頃に対応開始となる。
今できるのは、可及的速やかに、REDの件を解決する位だ。
さりとて良き知恵もなし。薬師と教授は、めいめいの分のイイダコ入りたこやきをつつき回しながら、時間限定厳守で閲覧許可の出たマップの表示された会社のタブレット端末を指先でつつき回していた。
「ざ・たこふらわー」
「ちょっと。薬師。その顔面白すぎるからやめなさい」
数挙動でイイダコの頭部分をたこ焼きにして焼いている物体を口に収めた薬師は、うっかり実が反芻して出てきそうな口元を軽く手で押さえながらもぐもぐと動かした。
「物件を虱潰しに当たるのも芸が無いわね……」
「……うーん、ここまで個人情報の山になると、虱潰しの必要がないですね。捜査情報もビックリの門外不出案件だ。これに従うとそもそもの目々連の送付先が限られてきますね。場合によっては限ったら気取られるかも」
「考えすぎじゃないかしら。目々連の動作状況なんて使用者以外にわからないわ」
「家の中に夜な夜な質量があるんでしょ。ここでえいやっと決めちゃったら」
「あ、ああ……そういう想定。じゃここで広げてたら」
「アクセスログ取り随時で頼んでるから。そこがシロなら、我々の背後から盗撮、盗聴で覗いてでもいない限り見えませんね」
「わあ怖い」
「さてそろそろ寝てもいいですか、また会社に怒られるの面倒だ」
地下に降りたふたりはそのまま、教授はミニラボへ、薬師は仮眠スペースへそれぞれ分かれた。ミニラボの収められた隔壁の隅から伸びるケーブルが繋がった、三十センチメートル四方のFRP製箱の上に置かれた小さな部品を手に取り、薬師はそれを頬骨と下瞼の間に貼り付けた。
体内回線(音声)が呼出し音をたてる。
『貼ったかしら』
『ちょっと待って、今完璧にする』
枕の下からちびたダクトテープの一巻きを引っ張り出し、ちょいちょいと切ってそれらを固定し、薬師は突如生えた眼鏡視界の隅に完璧!とスタンプをポップアップさせた。
『それはよかった。試作だから頼り切らないで』
『これに例の豚の起き上がりこぼし、映してくれるんですよね』
『警備用の目々連と犬が感知したままのものをね。起こされたらちゃんと起きるように』
それではおやすみなさい、と横になって目を閉じると、強制的に全てが無になった気がした。睡眠に介入するとか聞いていない――
――顔の表面に痛みが走り、目が飛び出すかと思って飛び起きた薬師は、自分がいつものベッドではなく、地下の仮眠スペースに居るのに気づくのにしばらくかかった。痛いのは途中覚醒ではない。教授の目覚ましだ。
『豚のお世話の時間よ』
『……出ましたか』
『よく眠れてるものを起こすのはしのびないけど、残念ながら出たわ』
靴下、部屋着の上にいつもの熊撃ちリボルバーと予備のナイフを装着して、地下倉庫の壁から天井(家の床)に伸びる細い梯子を上がり、そっとハッチを開けて家の床から這い出す。薬師はそのまま少し匍匐前進し、人の気配がしないのを確かめ起き上がり、低い姿勢のまま開けっぱなしの居間のドアから中を覗った。
レンズ無しゴーグル【貼り付け眼鏡】のホログラム表示が少し瞬く。その少しで全てを察しろと言いたいらしい。
『表示時間が短い』
『点かない。夕方テストしたときには点いたんだけど』
『細切れの断続表示でいい。コマ送り状態になるようにして』
『それなら』
明滅する眼鏡の視界に、確かに起き上がりこぼしのような形で、鼻先の突き出たものが映っていた。掃き出し窓の前に置いた金属の衝立の前にいる。
形がはっきりすると起き上がりこぼしではないし、頭も豚ではない。
教授の手元のモニタでこの視界は共有されている。彼女も同じ物をみているはずだ。
『ばかでかい人の握り拳と、首が見えるんだが』
教授の、吐く息と一緒に低く唸る声がした。そんなばかな、木の色と赤い色のツートンカラーで子豚の顔がついた起き上がりこぼしではないのか。
茶色く、握り拳が上手く立つように組み合わされ、手首を赤い糸でぐるぐる縛られているその上に、飾り気のない干し首が乗っている。例の宗教団体のシンボルマーク柄の布が糸に引っかかっている。
頭が成人男性のそれで、手の大きさがおかしい。
だいぶ頭のおかしい作りをしたものが部屋の中にあるというのは、教授には刺激が強かったようだ。
『……そんな』
『夕顔先生の絵が下手すぎて逆にかわいかったけど。どうします、対応しても?』
『や、やってみて』
薬師の冷静さに引き加減なのか、返答が少しだけ遅れた教授は、それでもゴーサインを出した。
と同時に三発の火花と轟音が屋内を揺るがし、人の身体が異物のある筈の場所へ突っ込み、続いて弾丸の食い込んだ衝立にナイフが金切り音を立てて突き当たり、人間が激突した。
薬師はしばらく倒れた衝立の下敷きになっていたが、やがてのろくさと起き上がり、三つ折りの角がぶつかった頭頂付近をさすりながら呟いた。
「……無です。何もなかった。教授、お化けの話しましょう」
規定の睡眠時間に足りないので二度寝をした薬師は、久しぶりにすっきり目を醒ました。
会社の回線から何か来ているらしく、未読バッジがレンズ無しゴーグルの視界の隅で点滅した。ダクトテープごとゴーグルを剥がし、いつものツル無し眼鏡に貼り替える。
来ていた連絡は、「システム小谷野でーす。依頼されていたマップへハッキング等の痕跡無し。俺、あなた、渋川課長、不動桜教授しか知らないのに攻撃を気にするとか後で何考えたのか教えて」「るりっち、明日から設備部のほうで倉庫街と崩落地域の点検するって。随行班決めジャンケンするから出社な」「市街地のほう、車輌課と物流が空いてるっていうから車道だけ巡回始めました(渋)」の三本立てだ。
同僚のベータから来たと思しき班決めジャンケン出社のために、薬師はいつも通り出社の準備を始めた。そのうち教授が朝のルーチンを終わり地下から上がってくる。
昨日壊した衝立の残骸を部屋の隅に追いやり、薬師はカタカタと教授専用自走踏み台が動く音を背中で聞いていたが、その動作がぐるぐると一箇所を回り始めたように聞こえてきて、思わず振り向いた。
教授は確かに一箇所(横一直線上)を移動して、自分の朝食の支度をしている。ついでに淹れられるコーヒーの香りが漂ってきた。
「どうしたの怖い顔して。コーヒーならもう少しでできるわよ」
「何でもないです、すみません……」
やはり昨日のあれの話をするならお化けの話になるか。薬師は首と肩の付け根を動かし回すようにして、神経質な振舞いを誤魔化した。
「よく眠れはしたみたいね。バイタルもあまりおかしくない」
「今日からしばらく寝床変えようかな」
「それがいいわ。……コーヒーできたわよ。好きに飲んで」
コーヒーを飲みながら、教授は、以前薬師が艦船上に放っていた目々連のうち、惰性で巡航している偵察用蜂セットを呼び戻して再編すると言った。特に異論も無かったので、薬師はOKを出し、時折コーヒーを飲みながらぼちぼち着替えを終えた。
「RED対応で放った奴だけ残しておけば、こっちでやっていいのよね」
「そうですね、RED用だけ残してください。他は昨日のマップで用が足りちゃったんで」
「他に、夜中にあなたが見たお化けと同じ形の首を探させるわね」
「お願いします。船じゅうの家一軒ずつ家捜しできない」
目々連の再編をお任せコースにして、薬師はいつもの時間に家を出た。
会社に着くと、早速「随行班決めジャンケン」に付き合わされた。何のことはない、勝った人から都合のいい日にシフトを入れるという行為に色をつけただけだ。
それが終わると今度は、設備部と不動産会社で昨晩生やしたらしい仕事、崩落箇所の視察の護衛に組み込まれたようで、上司の渋川とドローン担当の安浦に急かされ、設備部にくっついて現地へ向かうことになった。
生身の人間では比較的危険だというので、誰が書いてもいい書類をADDに押しつけ、薬師とベータは渋川に連れて行かれた。
薬師は頑丈だが見た目生身に近い事もあり、設備部の新入社員達がふたりを見て顔を見合わせ、「あれ大丈夫か、生身では?」とどこかへ確認を取り始めた。
その様子を見て、少し気分を害したらしく、ベータはそっと薬師をつついてきた。
「いいって。生身かと言われればそうかもしれない位なんだ、鮫に食われれば生きたまま食われた挙げ句に死ぬ」
「そりゃそうだけど、あれ露骨すぎね?」
「まだ上に確認とるだけマシだよ。最初の頃は街二のトミやんとか尻触ってきたからね。蹴飛ばしたらトミやん腕外れたから二度はやらんかった。当時は出力の絞り加減がこっちもちょっとね」
そんな生身があるかと笑うふたりに、渋川がこっちだと声をかけた。
行くと彼は、崩落していない柵に凭れて下――海面を眺めており、そこに時折光が入って、青魚や鮫などの魚影がぐるぐると、水族館の大水槽よろしく回っているのが見える。
「完全にぶっ壊れてますね。このまま出航したら沈みますな」
「だいぶ放置したからな。でも底抜けてるって報告は無かったから」
少し階下に降りて穴を覗いた薬師は、ぞっとしない顔で鮫を目で追った。だいぶでかい。
ベータがそこら辺の破片をすくい上げ、水に力一杯投げこむと、青魚が一匹浮いてきた。
「報告ないって担当辞めちゃったの?」
「分譲も賃貸も出航も一切する予定なかったから引継ぎされなかったんだ」
「死体なげ放題だ」
「やーくし」
上司と同僚が異口同音に苦笑するのを尻目に、薬師はふと見つけた、水面の建材に括られた結び目を指さした。腕が海の上に出――
――ベータの方から、透明な射出ブレードが一枚飛来した。それは薬師の腕の真下で鮫の鼻先を突き刺し、勢いで魚肉の塊を崩落階に叩きつける。
鮫が飛び上がり、自分の腕を食おうとしたと合点がいくのにワンテンポ遅れ、腕を引っ込めた薬師は脇に冷たい汗が流れるのを感じた。
「るりっち大丈夫?」
頷くしかできなかった薬師は、ここのところの悪夢お化け騒ぎで自分がだいぶ参っているのをそれなりに察した。
いつもなら返す刀で鮫を撃つなりして本当の魚肉にしている所なのに、もうだめだしか頭にない。
巨体がびたびた暴れる音が向こうでし、神経締めってどうやるのと言いながら渋川がそれを撃った銃声が続く。
「大丈夫……鮫ってこんなに飛ぶ?」
「わかんないけど初めて見たね……」
ベータのひんやりとした戦闘機械の手を借りて、薬師は立ち上がった。その様子を見た渋川は、階上に揃い始めた設備部の作業を手伝いに行こうとふたりを促す。
「薬師、まだ本調子じゃないみたいだな」
「昨日漸くまともに眠れましてね……」
「その件で夕顔先生と不動桜教授から両方報告書が入ってたんだが、まだ見てなかったんだ。見て何ならさっさとメンテナンス送りにしようと思ったらお前早々と出社しててな。悪ぃ」
「いや、私とベータでなかったら誰か食われてたと思うんで……」
その後、設備部の周辺確認作業ついでに、薬師の見つけた結び目を引き上げてみたところ、先には大きな袋がぶら下がっており、中から身元不明の首無し水死体と、切り落とされた両拳を括ったものと、水死体のものと思しき首が発見されて騒ぎになった。警察が来たので、おそらく数日中にあの人肉起き上がりこぼしを警察も探すことになる。
いまいちすっきりしない流れだが、個人が警察と競り合って首魁や下手人を抹殺しに走るよりは、監視を続けて、下手人が再び現れるか賞金がかかった時点で行動した方がよさそうだ。
そう都合良く行くかどうかはさておき。
南洋署外注係が首を突っ込んでくるのを待っては時間だけが経つ。
薬師は、警察――南洋署外注(賞金業務)係・井筒刑事宛のテキストを視界の隅で組み立てながら、誰にも差し支えない説明をするために多少腐心した。一生懸命腐心するのは帰ってからでいいし、隠し事の幾分はばれるだろう。だがREDとADDが故郷を捨てた理由だけは、地獄の底まで持って行く必要がある。とにかくそこだけ隠し通せば、それで。
結局、終業間際まであまり気の利いた文言は書けず、薬師は「すみません、時間あったらこういうお化けの話聞いて貰っていいですか」という、小学生の文章に、夕顔先生謹製の下手くそな絵を添付して、井筒にテキストを送りつけた。
翌朝。二度寝もせずにすっきりした目覚めを本当に久々に経験した薬師は、朝食中に警察の訪問を受けた。
表通りの交番巡査と一緒に現れたのは外注係のふたりだ。交番巡査が玄関前の園芸用ボットに植生の講義をされているのを横目に、居間の掃き出し窓まで来て軽くノックしておはようございますときた。
「お久しぶりです。すみません、こっちに姿が見えたもんですから」
薬師が食事を中断して窓を開けると、彼らは靴を脱いで入ってきた。この家はそういう来客もあり、慣れたものだ。
「おはようございます。朝食ったら出社しようと思ってたんですが」
「昨日のメッセージの件でね、あの様子だときわめて変な話がほんの少しって感じですし、早々に聞いていこうと思いまして」
味噌汁を啜り終わった教授が助け船を出した。
「私が対応しましょうか? その件はほぼほぼ同じ経験をして記録が残っています」
井筒は少し不服げな目をしたが、すぐにいつもの人当たりの良さを取り戻した。
「ではお二方から順にお話を伺ってもよろしいですか? 薬師さんが先なら差し支えもないでしょう」
「今日出社するんで、飲み食いしながらでよければ。お茶か味噌汁位しかお出しできませんが」
「お構いなく、この後朝食をよそでとります」
薬師は、今日に至るまでの話を、「REDに原因不明のストーカーがついた。自分は探偵や弁護士ではないので、迎撃を考えたが原因を追及していない」と根源の話を避けて始めた。
そもそも大昔の発端の話をすると藪蛇になるし、そこは地獄の底まで持って行く話だ。知らぬ存ぜぬで何年も押し通しているのだから押し通す。
そこさえ避ければ後は被害者の味方なので、特に隠し立てもせず出来事を話せばよかった。
そのストーカーだか不明な人が薬師まで呪ったり祟ったりするのはおかしくないか、と井筒は訊いたが、カネで請け負いをしてるんならどっか別の所から依頼位はありでは、それなりに恨みを買いながら長生きしている、という彼女に反論はしてこなかった。
どうやら連中、実際に金銭で呪術を引き受ける仕事もしていたようだ。殺人も請け負っておいてくれると、強制送還なり逮捕なり賞金なりが捗るのだが、さて。
話はその程度で終わり、思った以上にあっさりと解放された。
こういう時の井筒は必ず誰か尾行につけているので、教授と井筒の似たような話を背中で聞きながら、薬師は大人しく家を出て、寄り道せずに出社した。
ここしばらくREDの店や身辺にストーカー本人は出ず、警察も噛み始めたしそろそろ宗教団体も店じまいかなと思いもしたが、団体だから大所帯で、個人だと家内制手工業より小規模でやれるだろうと思い直し、薬師は今日もREDに定期の様子伺いをした。
警察が噛み始めたので、そちらに誰か警官が行くかもと送ろうとしたが、何となく薬師自身が行かねばならない気がして、「今日行くよ」と、時刻を記し、店の予約がてらメッセージを送ったところ、しばらくしてOKのスタンプが動画と共に返ってきた。店の新メニューのご案内を直接撮って送ってきたものだ。
と、画面の隅に妙なものがうつり、何度か再生した薬師の口元も嫌なものを見たときのそれ的にひん曲がった。
窓の写りこみの中に、見覚えのない男の顔と、首のすぐ下に拳――
嫌な予感がするので人手を頼ろうとシフト表をみると、幸いADDが街警二課と市街巡回・ベータが大学番でどちらも夕方直帰になっている。薬師も昼の病院番で、こちらは午後7時交代なので、ラストオーダーよりだいぶ前には到着するのではと思われた。
ベータとADDに、窓の写りこみを拡大した動画のスクリーンショット(男)と一緒に「今日土井中宝飾のカレー屋集合」とだけテキストを送ると「カフェと言わねば怒られる」とADDから即答があり、映り込みの件も、ストーカー本人ではないと確認した旨返信があった。
一方のベータは昼近くに返信があり、「何これきめえ! るりっちラストオーダー間に合う? 迎えにいくよ!」と自動車の絵文字つきだったので、多分社用車でそのまま帰るつもりだろうが、足を確保した感じになった。
後は警察に言うか、言わないか。言った所で何も無ければ無駄足というものだ。言う義務があるかというと、特にない。向こうから何か嗅ぎつけでもしない限りあまり助けにはならないのでは?
薬師は夕方近くまで逡巡していたが、突如吹っ切れ顔で、思い悩むようなことか、と、画像を添付し「無駄足になる可能性もあるんで、お時間あれば知らん顔して偶然食事に行ってください。警察で使ってる戦闘外殻用の緊急停止棒持ってきてくれると助かります。警察に言ったとかREDに言ってないんで」と井筒に送りつけた。
退勤後、社用車で直帰したベータに拾われ、そのまま土井中宝飾側の駐車場に車を停めると、ひとつ置いて隣に井筒の運転する軽がつけた。
ひとりだ。仁藤は居ない。食事に来た顔ならそういうこともある。
「おや薬師さん、ベータさんも。こんばんは」
「あれえどうもー。ひとりで晩ご飯ですか」
ベータが本当に偶然だねという感じで話している陰で軽く挨拶をする。薬師は井筒に会釈して、言葉少なにそのままベータにくっついてカフェ側に向かった。
店に入ると、店番をさせられているADDの声が「ッシェー」とコンビニのテンプレよろしく聞こえてくる。地声がでかいので元気はいい。
薬師は厨房にREDを探し、ベータは客席を見た。
ちょうど客が切れたタイミングらしく、店に男以外の客はいない。
客席から見えない位置にいたREDは、奥からちょこっと顔を出し、薬師の顔を見てちょいちょいと客席を指さして、口だけ動かした。
いる。
それまでうなだれ気味だった薬師は、すっと素に戻って顔を起こした。
ほぼ同時に機械犬の稼働情報が眼鏡に表示される。奥の席の男性客の前でずっとお座りして、席を立つのを阻止しているかの如き、機械製の大きな犬。攻撃指令はREDか薬師が出すまで通らない。
どうしていいかわからないといった様子の男が、撫でるところのない犬を眺めていた。
男のすぐそばの二人がけの席がほぼ全部空いている。薬師は勝手ひとつに座った。男を挟んで反対側にベータが座る。井筒は離れた所に勝手に座っていた。
この男の素姓は結局わからず仕舞いで、どのような手段に訴えてくるものか知れない。表面上は8割方戦闘外殻体。暴れれば店と、両隣位は壊れよう。
井筒からは取り押さえるという注文が出ている。彼の保持する緊急停止スティックを使用するというが、突っ込む場所が業界基準通りに作ってあるかどうか、まずその確認が必要だ。
首の後ろにつくりつけられた端子のどれか。そこに端子を作っていない事もままある。薬師の前の身体もそうだった。
ぶん殴って気絶してから探せばいいのだが、頑丈が服を着て歩いている代物だ。薬師が手を出したとして、ステゴロなら負傷も考えられる。
『井筒さん、五体満足じゃないといけませんか』
薬師は、体内回線を開いて井筒を見ずに話しかけた。少し離れた席に人待ち顔でかけた井筒は、こちらを見ずに答えた。
『暴れ出したらその限りではありませんが、先に手を出した人は署までご同行くださいね』
『……めんどくさいなあ。賞金にしてくれればよかったのに』
『今回は、ほぼ全壊を生きてると称して持ってこられても困るので』
国家権力の都合で何かあるようだ。薬師は注文を取りに来たADDに課内グループ通話で平然を指示して飲み物だけ注文し、「あとトレーください」と頼んで、隣の男の目の前の、機械犬の操作に介入した。
眼鏡の端に、下から見上げた男の顔が映る。首の後ろはわからないが、見た感じ標準品の戦闘外殻をそのまま使っているようだ。
操作ログから、REDが犬をこの配置に置いたのまではわかった。男は苛ついている。気持ちはわかる。後おそらく、こいつはRED以外に危害を加えるつもりがない。
標準品の戦闘外殻が、雑に暴れて危害を加えるなら、先程まで幾らでも機会があったからだ。婦女暴行以外にやる気がない。
少し過剰な対応だったか。いや三者三様の都合でこうなった。薬師は考えるのをやめた。
どのみち最終的にはどうにかするし、場合によってはぼろぼろにして海に投げこむ事まで考えていた。それよりは逮捕されていた方がマシだろう。
男と犬は睨み合って少し経つ。
男の脚が少し貧乏揺すりをし始めた。ADDがそちらを睨んでいる。井筒の注文を取ったら一度厨房に引っ込んでもらおう。REDを厨房から出す必要はないが、奥から出てきて見えるところに来る必要はある。
『ええっ、怖いよ。やだ』
案の定、REDは拒否した。
『厨房の出入口に見えるだけでいい。この男を下心つきで席から動かさないことには、やれないんだ』
『ひえー。口ききたくないのにぃ』
『終わったらDセットお願いしまーす』
しょうがないなとぶちぶち言う声が耳の奥でする。薬師は、犬の警戒度を大幅に緩めた。即ち、飽きて向こうへいってしまう馬鹿犬にした。
ADDが馬鹿を見るときの顔をこちらに向け、厨房へ引っ込んだ。
男が周囲を伺い、めいめいひとりで小さな端末を弄くっている新たな客達を認めて、厨房の方へ動き出すのを確認し、薬師は犬をいつでもひと飛びで背後から噛みつける位置に置いた。
犬の次は自分とベータが飛びかかって取り押さえる。まあ多少薬師は怪我をするだろうが――
『るりっち最後にあいつ撃ったらよくね。怪我したら面倒臭いし』
『それもそうか。悪いね、任せたわ』
ベータのお言葉に甘えることにした。いつでも撃てます。
厨房の出入口で男とREDが揉め始めた。ADDは奥から出られないわけでなく、多分手が離せない用をしているふりをしており、誰何の声が何度かする。
仕事の邪魔してまで口説きにかかる男の背後、首筋を犬の目から確認し、薬師は先程ついでで渡されたトレーを縦に構えた。男の戦闘外殻は標準品だ。
男が興奮してきたら、これをぶつけてREDから少し離し、犬とベータをけしかけて首の後ろを確保して、井筒がスティックを突っ込む。警察仕様の特別製だ。
取り押さえても暴れたら、死なない程度に薬師が撃つ。不安要素は、男がいきなり爆発するか外から何か雪崩れ込んで来る事だが、気配は無い。
男の口説きが口論になり始めた。もう少しREDには頑張って煽って貰う。その手が身体の腕あたりにかかれば――
――男の手がREDの腕を掴んだ。薬師は構えたトレーを男に投げつけ、プラスチックが頭にぶつかる間抜けな音がした。
間髪入れず犬が大ジャンプする。視界の端に映る、女の腕を掴む手を撮影しながら男に噛みついて押し倒そうとするが、少し勢いが足りなかったようで、よろめいてREDから離れただけで終わった。
「はーい、そこまで」
ベータの腕が男を捉えた。背後からチョーキングで引き倒す。諦めてくれればよかったが、男は諦めなかった。
もがいてベータを振りほどこうとし始めたのだ。
「こいつ、出力でか!」
腕からブレードを少し出して脅そうとしたベータがそれを諦め、厨房出入口から引きずり離す。なかなか男も耐えたもので、床の材質が少し引きずった硬い靴でえぐれ、脚をばたつかせて暴れ出す。
薬師は、その脚を撃って外そうとしたが、耳の奥で井筒の制止が聞こえた。やむを得ず膝関節部にナイフを叩き込む。隙間に刃が入り配線が傷つき、脚が動かなくなる場所が1か所だけある。
男の脚が片方停止する。薬師はもう片脚を押さえこみ、もったいぶる井筒を雑に急かした。
取り押さえた男に、無事緊急停止スティックが突っ込まれた。
と、体内回線にひとつ着信がある。教授だ。
『薬師ごめんなさい、今仁藤君がうちに来て、集めようとしたあの首の所在、目々連の設定ごと、判明分を持って行ってしまったわ……』
『ああごめんなさい教授、言っとく機会が無かったね。REDのストーカーの件、今警察案件になってます。つながり的に多分首の件もなる。後は帰ったら説明する。個人でやることはなくなりました』
教授は珍しく、耳の奥でひとつ残念そうな声をあげた。
『コピーも駄目だった。警察じゃないってのも、アレだわね』
『我々個人だもの、仕方ない。その位にしときましょ。腹が減りました』
『私もよ。冷蔵庫の中のお菓子、いただいてもいいかしら』
『ひとつ残しといてください。あとはどうぞ』
『みっつは食べ過ぎでは? REDの店に居るんでしょう。何かお土産は無いの』
そういえばそうだったな、と、停止した男とその襟元を引きずり掴んだベータにハイタッチした薬師は、厨房に首を突っ込んで、テイクアウトができるか声をかけた。奥の方で注文取り用の端末を持ったADDが、余裕があるなと苦笑する。
「あと五分でラストオーダーです。はやく決めてくださいね」
週末。自分のメンテナンス入院前に小比類巻銃砲の工房まで菓子折を持って出かけた薬師は、手元の作業から目も離さずずっと他の客(主にあけぼの会警備部装備課からの依頼)の銃を掃除し続ける社長の隣に座って、結局作っていなかった装備補充品点検リストを作り続けていた。
「へえ。結局色んな物忘れとあの酷い注文は睡眠……体力不足でしたと」
「そうです。すんません」
「いいよ別に。昔から愚かな注文したら止める事になってるし」
うん、と言葉少なにチェックを入れ続ける薬師に、社長はふと顔を上げて隣の薬師の顔を見やった。
「なんかいい夢見ることないの」
「ないっすね。夢占いとかそういう質でもないんで」
「彼氏の夢とかみないの」
「……そもそも夢見ないようにしたのが、悪夢で寝ぼけて男ぶん殴ったからなんで」
「ごめん」
「戦闘外殻の顔面ぶん殴ったんで、治療中で生活外殻にしてた自分の腕が吹っ飛んだんですよ。不幸中の幸いでした」
笑いを噛み殺して作業に戻る社長を横目に、薬師は大きな菓子折の包みをあけた。
「コーヒーいれてもいいっすかね。呼ばれちゃう」
「私もほしい。一緒にお願い」
【了】