ティールブルージャケット【#107】 教授、置き引きに遭う
先日の侵入者の件で、地下の工事が止まってしまった。
南洋の小さな島に作られた発電所と、そこにサブシステムとして接続されたいくつかの巨大な船で構成される島に住む薬師ルリコの家は、島嶼部発電所に一番近い船『☆あぐらいあ☆』の上にある。
『☆あぐらいあ☆』船上の、民間人が所有権を持つ土地(法律上土地とされている、地上ソイルパネル・地下船体の空間)で、発電所に最も近い荒野がそれだ。荒野すぎて素人園芸がはかどりすぎ、人が世話した小さな花畑ができてしばらく経つ。
薬師の家の地下を経由して、発電所に近い島嶼部民生区域にラボが作られ、ラボの主である不動桜ハナ教授の端末体(世間体が繕える、用途のあるロボット)が、地下に設置された端末体安置管理ケースを使用して生活し、ラボの管理をする事になっていた。
このラボと国有地の間に隔離ゲートを設置し、端末体安置管理ケース【カンオケ】を薬師宅地下に設置する工事の最中に、工事にあたっているあけぼの会設備部を自己都合退職した社員、西岡哲治のアカウントを使って、正体不明の不審者が四名、薬師宅に侵入した。
この正体不明の不審者集団は、薬師宅に侵入する数日前、隣の船『ミルフィオリ』上にある、久能医院(久能夕顔院長/形成・移植・リハビリ)に押し込み強盗に入っており、夕顔医師は全治一ヶ月の負傷をした。義肢である左腕が、「ものすごく硬い戦闘外殻の男」を相手にしたおかげで壊れたのだ。その補修に、直近の腕の納品期間を含め一ヶ月かかる。久能医院は、その間休業だ。
久能医院の受付嬢、金子マガリ(中身は男性で、モルガン・コティヤールという人物だが、諸般の事情と都合で女性の生活外殻を使用して暮らしている)がそれらを追跡し、薬師宅でその全てを殲滅し、強盗が持ち去った物品を回収して『ミルフィオリ』に帰った。
薬師当人は、不審者二名を負傷させ、一名を戦闘不能にしたものの、死亡した一名を殺害はしていない。これら不審者には三つ隣の船で、生死不問の賞金がかかっており、賞金稼ぎの登録をしていた薬師とマガリ(モルガン)は賞金額2:8の頭割りでお咎め無しとされた。
賞金以外の他国船籍の船の住人の事は、その船でやる。他に、西岡哲治氏のことは警察案件となり、深入りするといけないので、今件は社内では以降手出し無用になった。
『ついでにお前、工事が再開するまで、在宅勤務でいいから端末体とカンオケの護衛についとけ。まあ予定通りっちゃ、予定通りだな。若干災難でした』
軽い感じで上司の渋川が連絡を寄越してきて、薬師は月初から在宅勤務に切り替わった。今件が発生したのは今月上旬で、メンテナンス終了直後だったのでまだ出勤自体が発生していなかったのが好都合だったという。好都合といっても事務処理上の話ではなくて、警察から来る井筒・仁藤刑事のふたりを会社と薬師宅どっちに向かわせるかという、上役の取り扱いの話である。
「はぁーい。しょうがないですねえ。どれの工事が止まるんでしたっけ」
『お前そのこう、鼻にかかった、はぁーいってのやめてくれる? なんかすごく聞いてて悪い感じだから。
えーとね、主に隔離ゲートだな。損害算定したらすぐ始めるって。あとカンオケの位置。ラボはもう自動搬入止められないし、教授の端末もラボの付属品みたいなもんだからそんなには止まらない。ただ現場保全があるから、コンテナ自体を動かせない。本来の位置に動くのは来月くらいかな――』
「あれ、教授の端末どうやって出てくるんですか」
『コンテナの側壁動かすってよ。まあそれで対応して』
「教授の端末と家の地下壊れなければ何でも良いですよ。事務処理と久能医院のほうはよろしくしていいですかね」
『了解、いつも通りです。じゃ、解散』
はぁーいって、いつもと何も変わらないが、と渋川の反応に首を傾げながら、薬師は視界の隅の課内通話のチャンネルを閉じた。
「またお家かよ。まあいいけど……」
『ごめんなさいね、手も足も出なくて』
教授の直通チャンネルから声がする。薬師は、二度寝から起きたベッドの上で大欠伸をして床に降り、床の養生の上をぺたぺたすりっぱでアイランドキッチンまで移動した。
「お構いなく。農業がはかどります」
二度寝前に収穫してきたいちごを洗って冷蔵庫に入れていた。味の自信はないが、普段はあまりありつけない生のいちごだ。薬師はにたあっと笑って、ボウルの中からひとつつまんだ。「へへ、いただきまーす」
『あっいいな! 私もほしい』
「起動終わったらね。明日にはまた赤くなりますよ、慌てない。素人栽培だからきっと酸っぱいよ」
ひとつ口に放り込むと、やっぱり酸っぱかったが、いちごの味がした。
『起動は予定通り、午前中には完了します。さっきのいちごと、軽くていいからご飯を食べたいわ。摂食機能が働いてるか見たいから』
「晩飯家で買ってきていいすか? なんか今日他人の作った飯が食べたい」
『ご随意に。じゃ作業に戻るわね』
会話終了際に、教授がストレスメーターを提示してきた。
それを見たら甘い物が食べたくなった。ここ数日だいぶストレス値が高い。
いちごは教授と分けるのでこれ以上手は付けない。薬師は棚からボウルとアイスクリームスプーンを取り、冷蔵庫からドライフルーツの袋を、釣り用冷凍庫から業務用アイスクリームをひと箱取り出して、今からこれを朝食とする、いただきまーすとひとりででかい声を上げ、硬いアイスを掘り始めた。
☆★☆
都合三人分ほど掘ったアイスクリームを食べ終わった頃に、まだ未交換の破損したドアの外で人の気配がし、チャイムが鳴った。警備犬ボットの黒犬のほうが迎えに出る。玄関チャイムなど鳴らなくても訪問者の素姓は丸わかりだが、形式というものがある。
外にいるのは、井筒刑事と仁藤刑事だ。外注管理係というものすごい閑職に居るはずだが、立場や存在が面倒臭い奴を相手にすると当事者が何者だろうが必ずやってくる。今回は、「相手の集団が言うほど無造作に銃を撃つでなく、カンオケのコンテナに爆発物と思しきカートリッジを仕掛けていた。あれは強盗ではない。もっとよく殺しておくべきかどうかは多少憚られる、依頼主が若干面倒だ」という薬師と、おそらく金子マガリ(モルガン・コティヤール)の関与が問題無かったかの確認と、カートリッジを回収した警備部から鑑識に何か行ったと思われる。
警備犬ボットと玄関先応対CGの居留守接客を止めながら、薬師は、はいはいと応対に出た。
「おはようございます。薬師さん、お元気そうですね」
「おはようございまーす。ドアひどいっすねこれ。両側から養生……」
「おはようございます。朝からお疲れさまです。いや普通に在宅勤務になりましてね。のんびりさしてもらってますわ」
アイスクリーム食べるか、という薬師の言葉にうんうんと頷く仁藤を「後で」と制し、井筒は地下を見たがった。
「いいですよ。隔離ゲートの被害算定終わったら工事再開するんだそうで。大して撃ったり当たったりしなかったと思うんで、すぐまた始まります」
「大体どのような流れで複数の西岡氏に相対したかの説明もしていただければと思います」
「いいですよ。モルガンの奴、何か変な説明でもしましたか」
「いえ特には。すりあわせるだけです。あと今、彼は久能医院の受付の金子マガリさんなのでね、合わせてあげてください」
「了解了解。しょうがないですねえ」
仁藤が、設備部から預かってきたという紙袋を差し出す。どうやら西岡の件で詫び代わりらしく、すごくお高くておいしいケーキ屋さんの焼き菓子が、大きな箱で入っていた。
「ヒャア! すげぇ。これ出社したら文句言えねえな」
「言わないであげてください。今件、西岡さんも設備部も実は被害者なので」
「あれえ。それは気の毒に……じゃ、いつも通りだな」
「いいなあ。俺らも呼ばれていいッすか」
「お茶して帰る時間があればね。まあ、無ければ三つ四つ持って帰りなよ」
ふたりに当時の説明をしつつ案内しながら、薬師は地下に入った。もう少しでカンオケのコンテナの側壁が開いて、教授の端末体が出てくる時刻だ。
教授本人との打ち合わせで、ほっといて勝手に地上に上がらせても問題無いと言う事になってはいたが、気は心というやつだ。せっかく三人地下にいるから、お出迎えをしようということになった。
説明が終わった頃に、コンテナの側壁がゴキッと音を立ててきしみ始め、モーター音と共に一部が開き、せり上がった。
野次馬三人は、コンテナの奥の暗がりから出てきたそれを見て目を疑った。
三人は、白衣にスーツの、インタビュー記事等で出てくるよそ行きの不動桜教授を模した大人の女性が出てくると勝手に思っていたが、出てきたのは、ボンネット帽子に高価そうなふりふりのドレスを着て、きれいなソックスとかわいい靴を履いた五歳児大のかわいらしい人形のような幼女だった。
薬師だけがその理由に気づいた。教授が随分長いこと使っているアイコン画像の人形だ。仰天して声もない公僕ふたりをさておいて、彼女はいつもの感じで声を上げた。
「おつかれさんでーす。床に下ろす手伝いいります?」
「おはようございます。お願いするわ」
体温を感じない両脇の下に手を添えて、薬師は教授を床に下ろした。
「ありがとう。カンオケと端末の予算が子供サイズしか取れなかったから、いっそこの外見でと思ってそうしたけど……驚かせてしまいましたかしら?」
目を丸くしている井筒と仁藤は、その声を聞いて我に返ったらしく、秒で居住まいを正して挨拶を始めた。
声は不動桜ハナ教授本人のそれだった。慣れるのにしばらくかかりそうだと仁藤が呟く。どうも彼らはアイコン画像の件を知らないらしい。
そんなにやりとる用もなければ見る機会も無く、そうなるだろう。
薬師は、地下から出たらお茶にしようと三人を促した。
「教授、いちごいつ食べる?」
「晩ご飯の時と思ってたけど、摂食機能の試験、今でいいわ。晩ご飯は問題無ければいただきます」
教授は、ちょっと隔離ゲートの工事現場を覗いて、大した被害が無いのを把握したらしく軽く頷き、すたすたと簡易エレベーターに向かって歩き始めた。慌てた薬師が彼女を止める。
「ちょっと教授、複数人の出入りはガレージからです」
「あ、そうだったわね。ごめんなさい」
あの簡易エレベーターは建前上貨物と犬用で、人間は乗れない事になっている。乗れても、大の男ふたりと薬師、それに幼女ひとりが一度に移動できるサイズではない。乗って教授ひとりでせいぜいだ。
実際には薬師と機関銃と弾薬くらいは乗れるが、それは今警察のおじさん達に知られてはいけない話である。
☆★☆
忙しさを口実にお茶の時間を固辞した公僕ふたりにお菓子のお裾分けを押しつけて送り出し、薬師は教授の摂食機能試験につきあった。
教授曰く、問題無いように組立てはしたが、実際に問題が無いかどうかは話が別だという。
渡された引っ越しそうめん(事前に届いていた宅配便に入っていた、すごくいいやつ)をアイランドキッチンの隅に置き、薬師はアイスクリームといちごと焼き菓子の用意をした。
「ドキドキするわね」
「上手くいくといいですね」
いただきます、と小声で呟き、教授はアイスクリームをひと口、口にした。
無言のサムズアップがあった。
続いて口にしたいちごはやはり酸っぱかったらしい。
「素人栽培だしそんなもんです」
「何なら私が頑張ってもいいわよ」
そりゃ助かりますな、と薬師は、先程のいただき物の焼き菓子を3つ、個包装の風を切らずに出した。
「あら、開けてくれないのかしら」
「ついでに指先の確認もどうですか」
多少無神経なのを指摘され、内心ちょっと冷や汗をかきながら、薬師はそれをごまかした。
「それもそうね。いただきます」
焼き菓子を口にした教授は、ガッツポーズをしてにやりと笑った。
「ここのお家はいいお菓子食べてるわね!」
「詫び羊羹以外のものが設備から寄越されるとか滅多にないから、レアケースだな!」
高笑いするこの人形、中身は完全に教授だ。
薬師はもう何年もひとり暮らしをしていたので、仮にも人工物相手でも同居人が発生したらやっていく自信が無かったが、どうにかできそうだった。
☆★☆
めいめい勝手に自分の用事をして暮らし、夕方。
飯行きますかという薬師に、ふたつ返事で教授はついてきたが、五歳児大の端末体の歩く速度が自分より遅いことを気にした薬師は、玄関先で教授を両脇の下からひょいと持ち上げ、でかいダッフルバッグに入れようとした。
「ちょっと何をする気かしら」
「えっ。持って歩くの。置き引きされたら困るから」
「私が、このばかでかい布袋に入って、首だけ出してあなたに背負われたとして、どういう絵面になるかしら?」
薬師は、少し首を傾げて考え、すぐ思い至って言った。
「お人形背負った変な人」
「街警の職質案件とか思わないのかしら?」
「顔見知りかつ外面的に人間を運んでる訳じゃないから、『薬師さぁん、そのおしゃべり人形頭からしまっといて』って言われて終了では」
それもそうね、と一瞬納得の言葉を吐いて、教授は慌ててそれを否定した。
「私はこの袋には入りたくないわ。あなたは私にちゃんと歩く速度を合わせるの。手を引くともっといいわね」
今まで大の大人として相手をしてきたものが、現実には五歳児サイズしかないせいもあり、釈然としない表情で納得だけしてみせて、薬師も首を傾げながらブーツを履いて、教授の手を引いて外に出た。
家の中からサモエドと、外で黒犬がふたりを見送る。
お出かけ、いってらっしゃい。
顔には出さないが、実は若干気持ちの余裕無く出てきた薬師は、出がけにコート代わりに着たシャツワンピースのクソダサぶりが気になって落ち着かなかった。以前、商業施設のテナントに入っていた手芸屋の、安い売れ残り生地を買って作ってみたやつで、あまりの生地のダサさと縫製の下手くそ加減に呆れ、成果物は庭仕事用に回したはずだったのに、どうしてこれを着てしまったのか。メンテナンスから帰ってきてからあまり調子がよくないが、そのせいだろうか……。
いわゆるばあさん世代の古臭い柄のシャツワンピースをひっかけて脇に拳銃を吊ったTシャツ・チノパン姿の女と、白磁に青い目、ボンネット帽子、くるぶし丈ドレスにおしゃれ靴の幼女サイズの大きな人形が連れ立って歩いているとさすがに目立つらしく、時々通行人が露骨に顔を向けてくる。
対向から警備用中型ポメラニアンを連れて歩いてくる街警二課の顔見知りふたりをいち早く見つけた薬師は、少し俯き加減で歩いてすれ違ったが、そんな事で誤魔化されるほど甘い巡回警備ではないのは、自分が一番よく知っている。あけぼの会関連法人に勤務している限り、彼らの視界に入った時点で、教授も自分も所属と氏名位は表示されてしまうのだ。
「お疲れ様でーす。薬師さんお出かけ? 設備の件聞いたよぉ」
にこやかに挨拶して、教授の方を確認して少し改まった挨拶をしたふたりは、巡回警備の習慣で、薬師の行く手を阻むように立った。この時点で、彼らの連れているポメラニアンを補助に、検知判断機能が全方位索敵に切り替わっているので、彼らには隙があるようで無い。
「やーバレたか。お疲れ様です。設備の件は警察に丸投げだぁ。会社だけでどうにかできる話超えそうだから」
「在宅いつ頃終わるの? 大きなトラブルがなければ特三だけで回すって渋川さん言ってたけど、トラブったらウチから出さないとならないからさ」
「カンオケの工事終了した時点で家の留守番この人になるから、当初の予定から二ヶ月みてってとこじゃないですかねえ。警察がどんだけ事務処理できるかだな」
「この人、……不動桜教授……ですよね? 寄生虫講座の」
薬師は、教授との長い付き合いや今回の契約書の内容を一から全部喋るのかなと少し身構えたが、そうだと答えてふーんと言われ、拍子抜けした。大学番は街警が主導してするから、その絡みで本体と顔見知りだという。面倒がなくて良いことだ。
「あのね、不動桜先生、その見た目だと置き引きに遭うかもしれんから、ほんと気をつけてくださいね」
「……わかりました。お気遣いありがとう」
置き引きってのも酷いわね、と体内回線でちょっと愚痴られ、薬師は(まあまあ)とスタンプを飛ばし、代わりに口を開いた。
「置き引きは酷くない?」
「いやだって、剥き出しの高価そうな端末体とか、いくら薬師さんが一緒に居ても、五歳児の誘拐みたいな手でイケそうだしさ。我々が近ければ手も貸せるけど、遠くで誘拐されたら孤立無援だから。気をつけてね」
はあい、と渋川が悪い悪いという返事をして、薬師は会釈を交わして街警と別れた。
別れ際に「シャツの柄ババ臭いわ~」とやはり言われて、薬師は、やはりそうかと観念した表情を浮かべた。
「ハラキリ寸前辞世の句って顔するんじゃないわよ」
「ハラ切ったことあんのかよ」
薬師は、返す刀で、外出用の地味なお洋服を勧めてみたが、教授はにべもなく却下してきた。彼女が言うには、普段忙しすぎてスーツかジャージかみたいになっているから、端末体位大好きなふりふりドレスを着たいそうだ。
拒絶するような理由はない。薬師は、まあいいかと彼女の手を引いて、ふたたび歩き始めた。
商店街の体裁を取った商業施設にさしかかった時、教授の足がふと止まった。
「ねえ薬師。私、ゲーセンに行きたい」
「えっ。まあいいけど何すんの」
「ガチャガチャとクレーンゲーム」
実体だとやりにいく時間がなくて、コレクション会社からまとめて注文するしかできず楽しくないのだという。
時間には少し余裕があるので、長居はしないということで、薬師は教授を連れて、目の前の子供用ゲーセンに立ち寄った。
入店時に視界がぐらりと揺れたが、高潮や津波警報など出ていないので、何だろうと首を傾げつつ教授の後をついていた彼女は、突如シャツワンピースを幼女に引っ張られ慌てて立ち止まった。
「薬師、お願いがあるんだけど」
「なんすか」
「私、クレーンゲーム下手なの。あれ取って欲しくて……」
「えっ、……え?」
目の前の幼女は大変高機能な作業代替機で、未だに金持ち以外が使っているのを見たことがない端末体というロボットなのに、一体何を言い出すのか。薬師は露骨に不審なものを見る表情で幼女を見下ろした。
「できるような調整してないんですか」
「うっかりしてたのよ。誰かにデータ取り頼もうと思ってそのままになってたの」
お願い、と胸の前で両手を組んで見上げられ、薬師は断り切れずに頷いた。
「百発百中ってほど上手くないですがね。ちょっと頑張ってみましょう」
先程の視界の揺れが気になり、眼鏡の隅で自分のバイタルを確認しながら、薬師は教授指定の機械に向かった。多少ストレス値が高く、腕の人工筋肉が数カ所エラーを吐いている。これは細かい作業には向いておらず、往来で喧嘩などせず、食事をしたら家に帰って休め的な数値だ。しかしクレーンゲームをする位なら問題はないだろう。
ここで薬師は失念していた。教授はいつもの音声やテキストだけの存在ではなく、実体を持っていたのだ。
しかも外見に反して実際は金銭を持った大人だったので、ウキウキと好きなところに行っては手当たり次第にガチャガチャを回す派手な幼女と化していたのである。
薬師が指定のぬいぐるみを取った頃には、その姿は隣にはなく、どこへ行ったか小さくて見えないという有様になっていた。
『教授? ちょっと教授、どこですか』
薬師は慌てて直通の体内回線で呼んだが、返事がない。
すーっと軽く息を吸い、彼女は社内随一ばかでかい声で教授を呼んだ。
「ハナちゃん! ぬいぐるみ取れたよ!」
薬師から最も遠い出入口付近でギャーッという子供の悲鳴がして、非常ベルの如き絶叫が続いた。
「助けて! ルリコおばちゃん助けてえ」
どういうわけか音声/テキスト通信だけが妨害されていた。薬師は教授に索敵ピンを放ちマーキングして、周辺の街警の巡回を確認した。先程のふたりではなく別の組が少し離れたコンビニの前に居る。
ポメラニアンではなくピットブルを連れている。ということは片方は渋川だ。攻撃的な犬ボットを使うのを控えて欲しいと苦情が出ていたが、彼は絶対にその辺を曲げない。
これは後で上司の説教だ。背に腹は代えられない。彼女はピットブルの応援要請をその組に投げ、教授のマーキングを追跡した。
『おい何だ薬師、教授の番してんじゃないのか』
『五歳児みたいなもんですよ、すみません! 不審者に連れてかれました。マーキングしてるんで犬ください』
『馬鹿野郎! 車使われたらどうする気だ』
『さーせん絶対追いつきます、犬ください!』
二頭のピットブルが薬師の管理下に入った。この型は一度食いついたら離れないやつだ。脚が若干遅いがそこら辺の戦闘外殻体には頑張れば追いつける。
あらん限りの声で叫ぶ教授を担いでいる男はすいすいと夕飯時の人混みをすり抜けていくが、薬師はそこまで速くない。
しかし男が信号無視をしようとして車に轢かれかけ慌てて止まったところを、いちにのさんで踏み切って、かなりの高さと距離を跳躍した跳び蹴りでその背中を踏んづけた。
男がバランスを崩して獲物から手を離したところで、吹っ飛んでいきそうな子供を受け止め男を踏んづけ、空中で教授を抱えたまま一回転する。
着地したまま犬操作アプリ・犬笛の襲撃テンプレートを送ると、追いついてきたピットブルが暴れる男に噛みついていった。
あの犬はテーザーも兼ねている。異様な改造をされていない限り、じきに誘拐野郎も大人しくなるはずだ。と、捕り物を見て止まっていた車にクラクションを鳴らされ、薬師は慌てて会釈をしながら横断歩道を渡りきった。
腕の中で教授がか細い肉声で呟くのが聞こえた。
「迂闊だったわ……私五歳児くらいの大きさしかなかったんだわ……」
そこら辺のカフェのテラス椅子に教授を座らせ、丸椅子を引っ張ってきてどっかり腰を下ろし、薬師は顔を覆って溜息をついた。
「ほんとに迂闊だったわ……五歳児なんて連れて歩いたの何十年前ぶりだったもんな……」
お店の人が注文を取りに来る。ふたりは異口同音に「コーヒー……」と呟いたが、教授は慌てて「こ、この! おっきなチョコパフェがいい!」と言い直した。
薬師は珍しく観念した表情を浮かべて笑った。もう笑うしかない。
「いいっすよ。隣で渋川さん待たせて食いましょか……私こっちのチョコミントパフェのほうで」
「あ、すいません俺このメロンのやつ。連れはアイスカフェラテ」
「うわっ出た」
同じテーブルに椅子を引っ張ってきて腰を下ろす上司をやりづらそうに眺めて、薬師は卓上に突っ伏した。
「お説教は定時報告時にしてほしい……迂闊でした……」
「じゃあ今夜九時。春日井さんがアナクロ会議終わってないから報告受け取れないって。この世の終わりみたいな顔してるんじゃないよ」
この世の終わりのような顔をしたまま、薬師は肩を落として溜息をついた。
「飯食いに出ただけなのに……」
「大人の行動する五歳児なんて連れて歩いたことないだろ。俺もない」
はぁ、と覇気の無い返事をする薬師の背中を軽く叩いて、渋川は、パフェ奢ってやるから元気出せと肉声で言った裏でひとつテキストを送ってきた。
教授を担いで逃げた男は、三つほど向こうの船で絶賛活躍中の少女誘拐と人身売買の元締めの、できの悪い弟であるという。それが、最近賞金稼ぎの動きの鈍い『☆あぐらいあ☆』にやってきてどこぞに潜伏していた。井筒刑事はこれに賞金をどのタイミングでかけるか悩んでおり、外注管理係側も動きが鈍いのを、稼げると踏んだのだろうが、逆に相手が悪すぎたというやつだ。やーいばーか。
「ま、大事なくってやつだな。お前パフェ食って飯入るか」
「何がしか買って帰りますわ」
目の前でチョコパフェを受け取って喜ぶ教授を眺め、薬師は少し笑って、今回の捕り物で引っかかった部分をこっそりテキストにまとめて渋川に送った。
「他社開発じゃないはずの、私と教授間の直通回線が妨害されました。音声とテキストしか送らない、ほとんど直結と言って良い回線で、違法電波なんで部外者に存在を明らかにするのはこれが初めてです。周波数帯を知ってるのは私、教授、朝顔先生。他に可能性があるとしたら、通信周り部品の出荷元か、教授の端末体の製作納入元。後は今すぐ考えつかない」
テキストを受け取った渋川が眉をひそめたのを横目で確認して、薬師は、ちょうど運ばれてきたチョコミントパフェを受け取った。
もうこれ食って晩飯はテイクアウトでいいから家に帰ろう。
今日はちょっと疲れた。 【了】