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近世のはじまりの時期に起こった欧州紛争、イタリア戦争の小察。―《山川, フランス史2, 第二章, 石引正志氏》を読む。その一…。―

ヨーロッパ時代区分論において微妙な位置取りにある、15 ~ 16 世紀、すなわち中世世界が解体し、あたらしい統治国家的国家形成期における、欧州における広範囲な国際紛争が、イタリア戦争です…。

石引正志氏については、石引, 正志 | CiNii Research があります。この記事の要約・引用元となった山川フランス史2の出版時点で、青山学院女子大学短期大学教授であられたようです。ただ、wikipedia には、石引氏の項目がなく、経歴の詳細については、内容の詳しい方、なにとぞ、ご容赦ください…。
なにはともあれ、欧州近世始まりにおける、重要な紛争について、みて行きましょう…。イタリア戦争 - Wikipedia にすでに詳細があり、それとかぶった場合は、ご容赦ください…。ようは、このページの、神聖ローマ皇帝選挙( 1519 年 )よりまえの段階のはなしでございます…。
 また、すでに該当書籍を精読しておられるかたにはあまり意味がない記事にはなります…。

  イタリア戦争時代の欧州…。(その一)

 中世末の普遍的なキリスト教世界は、領域国家の形成によってしだいに解体しつつありましたが、なお未熟とはいえ、ナショナルな性格をもちはじめたフランスその他の諸国家間の闘争の場となったのが、小国に分裂し、諸王朝の伝統的権利が錯綜するイタリア半島でした。この記事では、1494 ~ 1559 年まで、65 年間におよぶ国際紛争であるイタリア戦争について、その前半期といえる、フランスを中心とした列強の離合集散による、イタリアを舞台とした戦闘について考えてみたいと思います。(引用:世界歴史体系フランス史2 山川出版社 1996, 第二章 ルネサンスと宗教改革 2 イタリア戦争と国際関係 石引正志氏…)

 イタリア戦争は、1519 年のカール5世の皇帝就任の前後で二期にわけられます…。前期は 1494 ~ 1516 年までで、イタリアでの覇権をもとめるフランスを中心に、諸列強が離合集散をくりかえしつつ、おもにイタリアを舞台としておこなわれました…。後期は、皇帝選挙の結果、スペイン、ネーデルラント、ドイツをあわせもったハプスブルク家とこれに脅威をかんじたフランスのヴァロワ家がイタリアだけでなくすべての国境で対決することになります。休戦、和議をはさみつつ、前期に6次、後期に5次にわたる戦争が行なわれました…。この記事では、1516 年までの戦闘のいきさつについて考えてみたいと思います…。

 イタリア戦争をはじめたフランス王シャルル8世は、騎士道的理想にはぐくまれ大きな偉業を打ち立てんとして、ナポリ王国を征服し、そこから十字軍におもむくとの野望を抱いたとされます。ナポリ王国への進出要求の口実としてもちだされたのが、フランス王家と血縁関係にあるアンジュー家の権利です…。


シャルル8世。

息抜きにイメージをみましょう。戦端のきっかけとなった、ヴァロワ王、シャルル8世のイメージです。

13 世紀にアンジュー家の人物がナポリ国王に任ぜられアンジュー朝がひらかれましたが、1435 年王統がとだえ、アラゴン家のシチリア王がナポリを征服していました。アンジュー家の相続人は、1481 年、遺言でフランス王ルイ11世にフランス王国内のアンジューとプロヴァンスだけでなくナポリ王国への権利をも譲渡しました。それなので、シャルル8世は正当な継承権はじぶんにあるという口実を主張したのです…。さらにイタリアへの介入は、イタリアの諸派から要請されていたようです…。
 1494 年、フランス王はアルプスを越え、わずかの抵抗があったものの、ナポリを占領します。しかし、おりから蜂起していたナポリの民衆は当初はシャルルを歓呼の声でむかえましたが、侵略的側面が強まるにつれ、反フランス感情があらわれました。フランスの侵入が現実的になると、それまで対立していたイタリアの諸勢力、とくにヴェネツィアと教皇は、1495 年 3 月、教皇、皇帝、スペイン、イタリア諸都市からなるヴェネツィア同盟をつくりあげ、背後を絶たれることを恐れたシャルル8世はただちに引き上げることになります…。その後シャルル8世は事故がもとで不慮の死をとげ、オルレアン家のルイがルイ12世として王位につきました…。

石引正志氏の論説なので、ここからは、有料ページとさせていただきます…。

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