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瀬原義生氏の、ヨーロッパ中世都市の起源を読む…。その一…。

中世史家、瀬原義生氏( 瀬原義生 - Wikipedia )の著作、”ヨーロッパ中世都市の起源” ( CiNii 図書 - ヨーロッパ中世都市の起源 )を、読み進めていこうというのが、この記事の主題であります。
瀬原義生氏は、京都大学を卒業後、立命館大学でながく教鞭を取られた方ですね。翻訳も、数多くこなしておいでであります…。
以下、瀬原氏の該当書籍における、第四章 西フランス都市の復興, という項を読みながら、瀬原氏の唱える、中世都市起源期について、考えてみたいとおもいます…。

都市の「連続性」の問題について…。 
ガリアはローマ帝国内でも都市の最も多い地方であったとされます。このガリア都市の急激な衰微をもたらした最初の出来事は、270 年前後におこったゲルマン人の一時的侵入でありました。まず 261 年アレマンネン族がガリア南東部に侵入し、一部はアルプスをこえてラヴェンナに達しました。同じころ、フランク族の一部もニーダーラインを渡り、ガリアを南西へと横断し、スペインに入ってタラゴーナを占領し、アフリカに渡ろうとさえしました。
276 年同部族はまたもガリアに侵入し、ピレネーにまで達しました。この事件はガリアの諸都市に大恐慌をもたらし、神殿や劇場を壊してその石材でもって急遽城壁をつくった都市が多かったといわれるとのこと。
同じ時期に商工業も衰退し、たとえばガリアで栄えていた青銅鋳物、陶器業などが姿を消しました。253 年から 15 年にわたって流行したペストは人口減少に拍車を加え、さらに軍隊による物資の徴発、貨幣悪鋳による物価高騰、重税が都市生活に致命的打撃を与えたことはいうまでもないとのこと。
 
ライン中・下流左岸、およびその後背地のキヴィタスが非常に大きな面積を占めているのが特徴的であるが、国境防衛の任務をもたない中・西部ガリア、ローヌ川域のキヴィタスは、それとは対照的に非常に小さいとされます。そして、ピレネーの境界に近いトゥールーズになると、その面積はふたたび大きくなっているのであるとのこと。
 
これらの諸都市は、四世紀に一時回復したのち、五世紀以降の本格的な民族移動のなかにあって決定的ともいうべき収縮、衰退を経験することになったとのこと。

5世紀から 10 世紀にかけてガリアの都市がほとんど消滅寸前にまで追いやられたと通説で説かれる場合、さまざまな理由が挙げられます。ローマ貴族たちがいわゆるヴィラ villae に引きこもったままで都市の行政中心地としての機能が失われたこと、西ゴート、とくにフランク族の諸王も農村荘園生活を好んで都市に本拠をおかなかったこと、商工業の停滞がいぜんとしてやまなかったこと、とりわけサラセン人の進出に伴って地中海貿易が杜絶するにいたったこと、サラセン、ノルマン人によって、芽生えつつあった都市がその度毎に襲撃し略奪し破壊されたこと、こうした理由があげられるでしょう。とくに地中海貿易の杜絶の意味を強調したのがピレンヌであることは、いまさらいうまでもないとされています。
 
しかし、果してこの期間において都市生活は消滅したのであろうか? という、瀬原氏の問題提起がはじまります…。つまり、ピレンヌの唱える説に対する、その後の欧州学界の批判的検証について、瀬原氏は集約して記述しておられます…。
ピレンヌの唱える都市論とは反対の意見が、おおく提出されたようであります…。
以下、瀬原氏の本論になりますので、有料エリアとさせていただきます…。

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