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日野開三郎博士による北宋、見銭交引研究についての小察…。その二…。
その一に続き、日野開三郎博士による、北宋期見銭交引研究についての小察、その二、です…。(日野開三郎 - Wikipedia )交引のなかでも、とくに銭を扱う「銭引」についての、氏の分析研究からの要約・引用をもとにした記事でございます。まあ、氏の分析力は確かなので、本稿その二でも、引き続き氏の「銭引」研究について考えてみたいと、おもいます…。まえにも述べましたが、wikipedia における分析、つまり 飛銭 - Wikipedia というページが、けっこう奥が深い読みではあります。これはウェブ上の情報ですな…。
見銭交引発行の原因について、別記事その一からの、続き…。
然らば見銭交引は何故に三路(河北・河東・陝(セン)西の沿辺三路)のみより発行せられたのか、換言すれば三路のみ常に収入不足を告げたのは何故か。さらに換言すれば見銭交引の発行によって得たる三路の見銭は如何なる支途に供せられたのか。このことについても、日野氏は、中国史学独特の北方防御理論をもとに解かれます…。
商人の入便したる銭はことごとく軍資庫に保管し、諸雑費に充備すべしと見える規定であるとのこと。
而して客商入便の見銭が一旦軍資庫に管係せられていた以上、諸雑支遣が軍事に関する雑費を意味せるは論ずるまでもないと日野氏は述べられます…。
宋の国軍は禁軍・廂(ショウ ソウ ひさし)軍・郷兵より成っていた(外に蕃兵あり)とのこと。
廂軍は州政府に属する軍で名は軍と称するも実際には殆ど戦闘に従わず主として土木等の労役に使用せられていたそうです。(続)郷兵は農民兵で平時は農耕に従い農閑期に訓練を受け一朝有事の際に官兵に共力して主として郷土防衛に当たっていたものであるとのこと。北宋時代の兵員数は(続)国初以来年々激増して皇祐年間には百四十余万に達し、同年の禁軍のみにておそらく百万に近かったであろうと推定せられる。つまりそういう、宋代の中国の国家事情が、あったわけですな…。氏の本説でもありますので、ここらへんから、有料エリアでおねがいいたします…。
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