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宮崎市定氏, アジア史論考, 中巻, 部曲から佃戸へ―唐宋時代社会変革の一面―を読む…。その一…。
当記事では、宮崎市定氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎市定 の、よくまとまった論述集、アジア史論考 CiNii 図書 - 宮崎市定アジア史論考 , 中巻, 部曲から佃戸へ, ( p 264 ~ 338 )、について、要約・引用しながら、考えていきたいと思います。
宮崎先生の、イメージですかね…。
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まあ、わたしのような小生とは違って、なにか、東洋史ならびに中国史学に対する、度量の深さを、感じさせる肖像ではあります。肖像権など、ご容赦ください…。わたしのような薄学では、宮崎氏のような、オールラウンドな執筆というのは、なかなか、むずかしいです…。
では、読んでいきましょう…。
中世賤民の概観…。
三国時代から唐代まで、われわれのいう中国中世においては、土地国有制とも見られるべき土地割当が行なわれたため、ややもすれば農地が均分されて、大土地所有が阻まれたように考える意見が出されているが、それは完全な誤解である。そもそも唐代の均田法の源流は、三国魏の屯田法であり、政府による屯田の経営は、実は当時漸く盛んになりつつあった民間の荘園に範を取ったものであった。言いかえれば屯田は天子の荘園と言って差し支えない底の性質を帯びていた。屯田制及びそこから系統を引く唐の均田制は、天子の荘園の中においてだけ行われた土地割換え法にすぎず、これと並行して有力な貴族、豪族による荘園の大土地所有が盛んであった。されば中世は土地均分の時代どころではなく、荘園の時代、大土地所有の盛行する時代と見るのが、正当なのである。
この個人による大土地所有は、初期にあたる漢・三国の時代には、法制の及ばぬ外において自然に発生し、事実として成立したものであったが、やがて法律によって正当に承認を受けることになった。唐制においては、官人永業田として正一品は 60 頃、従一品は 50 頃、以下減っていって従五品の 5 頃に至る。その外の爵・勲にもそれぞれ子孫に伝えることのできる永業田が規定されている。故に子孫がまた官品・爵勲を有すれば、更にそれだけの権利が加算されるわけである。
このような私人によって占有された大土地には、これを耕作する労働者が必要であったことは言うまでもない。
先ず荘園における農業労働者は、永続性のあることが望ましかった。そのためには主人に隷属しながら、自身では家族をもち、所有権を許され、ある程度の人権を認められている必要があった。この要求に対し、中国の奴婢はあまりにもその人権を無視されすぎた存在であった。~~唐制においても、その本源に遡れば、奴婢は単身の男奴隷、女奴隷にすぎない。
これにたいし部曲は家族を持つことを前提とする。部曲男は法律上の公式の用語となっており、この部曲妻には良人の女もなることが認められる。同時に財産を所有することを許されるから、従って一家の家計もあったに違いない。もしそれがなければ奴婢と同様であって、生活費を主人から支給しなければならず、それでは労働の効率を挙げることができないのである。~~
次に荘園労働者は完全に荘園主の威令の下にあることが望ましい。いいかえれば、政府の干渉を離れた賤民である方が都合がよい。それには部曲のように、州県の戸籍を持たず、主家の戸籍に隷属して登録される不自由民がもっとも適当なのである。もし均田農民を日雇いとしても、小作人としても、彼等は地方官により多くその身分を左右され、従って彼等の関心事も官にたいする自己の租税を第一義とし、荘園の労働に専念するわけにいかぬであろう。
もちろん奴婢ならば、完全に政府の支配下を離れて荘園主に隷属するが、由来奴隷労働なるものは能率のひくいことは定評がある。凡ての自由の奪われると同時に、生活を全く主人に依存する当然の帰結である。もしこれが家内奴隷ならば、つねに主人の監視下にあるから安逸を貪るにも限度があるが、主人の眼を離れて野外の労働に従事させるには、なんらかの奨励の方法がとられなければならぬ。そこでもし奴婢を荘園に使役しようとするには、おそらく主人は適当な配偶を与え、子女を生ましめ、家族団欒を得しめることを許し、生産の幾分を私有せしむることによって労働意欲を鼓舞するの方策を採らざるを得なかったに違いない。
貧民にして均田法によって割り当てられた田地が少なかった家族の二男、三男の場合、または飢饉の際に郷里をすてて他郷に流浪した場合、荘園は余地をあれば此等を収容して労働者として使役したに違いない。彼らはもともと良民である…。~~これも亦、実質において、部曲に異ならぬ存在というべきである。実はそもそも部曲なるもの自体が、このような経過を辿って発生したものに他ならなかった。部曲の最初の形態は客であり、客とは本籍地を離れて一時的に他郷に寄留した者の謂である。併しそのままの状態が永続すれば、彼等自身、とくにその子孫の代となれば州県の本籍を失ってしまう。さりとて彼等は嘗て身代金で売買されたことはないので奴婢ではない。そこで政府でも既成事実に基づいて法制を立て、部曲なる身分を規定するにいたったのである…。
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