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日野開三郎博士の唐宋時代交引鋪研究についての小察…。その二…。
別記事、交引鋪についての小察、その一に続いて、日野開三郎博士 "日野開三郎 - Wikipedia " の研究すなわち、東洋史学論集第6巻, 第一部第四章, 交引鋪, についての考察をしてみようと思います。(交引舗(こういんぽ)とは? 意味や使い方 - コトバンク も、よく要約されてはいます…。)
交引舗の前身とその営業範囲についての考察が、日野氏の記述下で行われます…。。
交引舗は交引の売買取引業者としてこの名を得たものであり、交引の本格的な発行が始まるのは雍熙(キ ひかる ひろい)年間(984 ~ 987)以後であるから、交引舗の出現も雍煕以後ということになるが、この交引の大量発行開始とともにその取引に乗り出し、その役割を完全にこなしてすなわち大巨商に発展した彼ら交引舗の前身は何であり、また交引舗として交引の取引を業務とするようになって後の彼らの営業範囲、即ち金融業者としての彼らの営業範囲は交引取引以外にどこまで伸びていたかが次に考えなければならぬ問題となると、日野氏は解きます…。
政府手形である交引の大量取引という金融業界の新局面の急展開に対応してこれを乗り切った交引舗の前身としての在来業者はそれまでに既に金融業者としての実績を積み、かつ巨大な貨幣資本を貯蓄していたものの中に求めるべきと考えられ、この両条件に該当する業者を摘出するに、少なくとも金銀鋪・絹帛鋪・質鋪の三者が浮かんでくるとのこと。
金銀は唐宋時代を通じて貨幣的機能を持ち、大量取引・高価品売買等の支払い手段として流通しまた遠方輸財・価値保蔵の手段としても盛用せられていたとのことです。金銀鋪は金銀地金の売買、金銀品飾の制作売買等を行い、堅牢な保管施設(唐代では櫃(キ ギ ひつ)と呼ばれている)を備えていました。貨幣的機能を持つ金銀の売買はつまり金銀と銭との両替にほかなりません。価値の大きな金銀を扱う金銀鋪は大資本を要し、それだけに信用の厚い豪商が多かったそうです。絹帛もまた貨幣的に流通し、従ってその売買はやはり両替にほかならず、また高価品を取り扱う業者として絹帛鋪にも豪商が多く、彼らも堅牢な保管施設を持っていたとのこと。質鋪は利貸業で、その貸付は消費貸付の外に商人への資本貸付を行う者があり、そうした質鋪は大資本を持つ豪商でありました。もちろん、堅牢な保管施設を持っていました。これら金銀鋪・絹帛鋪・質鋪の有力者にはその保管の安全性と信用の厚さとを見込んで一般からの金銀・絹帛・銭等の保管委託が多く、この委託預かりの際に出した預かり証が市場において貨幣と同様に転輾(テン デン めぐる きしる)と流通していたとされます。
息抜きにイメージを見ましょう…。
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とりあえず、ウェブで、'中国史 交引鋪'と検索をかけると、現在では交引「舗」という字が当てられた研究テーマだと、だれにでも分かりますね。ただまあ、日野博士は、かなり重厚な研究分析を、この「交引舗(鋪)」にたいして行ってはいますね…。
櫃坊・寄附鋪等と呼ばれた金融業者はこうした保管預かりとその証券としての手形発行を主営業とする肆鋪の名称でありますが、この櫃坊・寄附鋪はたいてい金銀鋪・絹帛鋪・質鋪の兼営であったとされています。宋代成都の金融業者が発行した手形の交子が転輾流通し、これに眼をつけた宋朝が交子の経営権を国家に取り上げ、かくて世界最古の紙幣としての交子が生まれたことは既に究明せられている如くであるとのこと。開封府の金融業者もまた手形を発行しており、その手形は会子と呼ばれて府の内外に流通していました。おそらくその発行者は府の有力な金銀鋪・絹帛鋪・質鋪等であったと思われると、解かれています…。 日野氏の本説でありますので、そろそろ、有料エリアとさせて、いただきます…。
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