玉井さんとその不確かな壁:玉井詩織「Sepia」断章
2023年9月20日(水)午前0時、玉井詩織さん(ももいろクローバーZ)の9月のソロ曲「Sepia」(作詞:玉井詩織、作曲・編曲:MitsuJ.)が配信リリースされた。初めて玉井さんが作詞に挑戦した曲。独自の詩世界が描かれた、胸に刺さる一曲だ。玉井詩織さんが詩を織りなす。その言葉の一つ一つは、驚くほど味わい深い。聴けば聴くほど、連想が連想を呼んでしまう。そんな勝手気ままな逐語的連想をつらつら書き連ねてみたい。
第一印象とその後
最初、teaserを聴いた時、実は、もしかして失恋の歌なのかなと思った。だから、おそらく主語は「僕」で、玉井さんは歌詞と自分をきっちり分けて、客体化した世界を描くのだろうと直感した。しかし、フル配信を聴いて、その内省的な歌詞に驚いた。まるで玉井さんが内面を吐露しているように聞こえた。主語の「私」は玉井さんだ。玉井さんが、がっぷり四つでぶつかってきてる。それが第一印象。
配信から少し経って思うのは、玉井さんの書く詞は、詩であり、かつ日常の言葉なのだということ。日常の言葉だから、つい玉井さんの内心だと思ってしまう。だけど実は、よく作り込まれた一つの風景。しかしそうであるけど、玉井さんの中の経験を詞の世界に拡げているから、創作でありながら、言葉は玉井さんの中に根付いたものなのだ。おそらく、12Colorsのうち、9月をセピア色に決めたことで、色褪せた写真のイメージから、別離の悲しみを歌にしようと決めたのではないか。そこからおそらく、自分の中にある経験に照らして、時にそれを敷衍し、時にはそれを反転させて抽出し、情景を紡いだように思った。
あどけない空の話
瞬きという一瞬と、今日という一日、すなわち24時間が並列化している。「私」にとって瞬きの一瞬は、今日という日に匹敵する。その瞬きはとても長い時間なのかもしれない。玉井さんのゆっくりとした瞬きの情景が映像として浮かんでくる。
青い空を見上げている「私」の目は乾いている。涙はない。「私」には空は冷たく思えた。冷たかったという、情景の純粋な描写はしない。冷たく思えたという、自分の認識を表現している。この曲全体を通して「私」は自分の認識を意識化し表現する。「思う」という用語はキーワードだろう。
雲もない澄んだ青空。冷たい青空。東京の冬の空だろうか。東京の冬は、澄み切った青空が多い。凛とした空気。遠い記憶で、確か『二十億光年の孤独』にそんな詩があった。古い文庫を引っ張り出してみたら、それは「かなしみ」という題だった。もしかして『幕が上がる』の撮影時に玉井さんも読んでいたということはないかな。それとも、東京には本当の空がないのかな。本当の空は種子島にあるに違いないから。という、あどけない空の話。
時間の信号
赤い信号で立ち止まるはずだったのは誰か。時間なのか。時間のための信号なのか。時間を止めるための信号があると「私」は考えている。
時間を止めるための赤い信号とは何だろう。必死に赤く点灯している赤い信号。それは「私」の心かもしれない。「私」は赤信号がともるほど瀕死の状態になっている。それでも時間は信号をスルーしていく。僕の心が今こんなに地獄でも、僕のまわりの世界は今日も普通の一日でしかない。
何もかもが違くみえた
退屈だったあの日々、ではない。退屈なこの日々、でもない、という妙。日々はキミがいた時も、いなくなってからも、今もずっと繋がっている。
「違く思えた」。「違った」ではない。あくまで、そう「思った」。思っているのは「私」で、ここでも「私」自身の認識を描いている。
色を失くした写真とは、過去のもの。でも「私」にとっては、「今」がまるで色の褪せた昔の写真のように思える。今が色を失くしていて、過去が色を有している。
思い浮かぶのは、フォーク村で玉井さんが計4回歌った「奏(かなで)」。特に去年9月の時の「奏」はやけに素晴らしかった。「君が僕の前に現れた日から 何もかもが違くみえたんだ。朝も光も涙も歌う声も 君が輝きをくれたんだ」。「奏」の君は、手を伸ばせばまだ改札の前にいて、「僕」は君を捕まえることができる。そして「僕」は君を声で守ろうと決める。でも「Sepia」のキミはすでに失われている。「私」にはどのようにしてもキミを取り戻すことができない。
実はこの「奏」、9/29(金)に発表された、玉井さんセレクトのプレイリスト「夕日を見ながら聴きたい曲」に入っている。膝を打つ選曲。これも「Sepia」の作詞の背景にうっすらとあるんだろうな。
「想う」と「思う」
悔しさはあまり感じられない。やはりキミを失ったのは遠い昔なのだろうか。とても穏やか。大切な思い出として、胸に大事にしまってある。それを今は時々思い出して、優しい気持ちになる。優しく「想う」のは、あの日のキミとの出会い。懐かしんで、大切なものとして想っている。
寂しく「思う」のは今の「私」。ここでも「寂しい」という直接的な感情の表出ではなく、「寂しく思う」と歌う。「想う」と「思う」を明らかに使い分けてる。上手いなぁ。こういうこだわりが知れると嬉しくなる。
正しさの意味
2番からガラリと変わり、心象風景から思考の内部へと踏み込んでいく。1番がキミの喪失を描くとしたら、2番は自分の喪失かもしれない。
一見すると、時事ニュースに対する態度を語ってるように思ってしまうけど、そうではなく、自分の過去の行動や周囲に生じた現象に対する正解や間違いを歌っているように聞こえる。自分がやってきたことを振り返り、あの時どうするべきだったのか、どうするのが正解だったのか、あれは間違いだったのか、振り返って考えてみても、本当のことは分からない。
他人までもが「本当のところ、あの時どうだったんだ?」と聞いてくる。そういう他人の憶測や興味本位の質問に対して、本当のことなど誰も分からない、と突き放す。ここで言う正解や間違いは、個人の価値観によって異なる相対的なもの。
直後の「正しさ」は、もっと公共的な正しさというか、社会的に共有される正義を指している。仮に社会的にも倫理的にも正しい行動を取ったとしても、それが必ずしもすべての人を幸福にするとは限らない。ましてや個人の行動において正解など問うても意味がないし、少なくとも「私」はそれを問わない。
傷つけることだけでなく、守ることも挙げる。同じ行為のもう一つの側面。この順序が〈正しさは人を守ることもあるが傷つけることもある〉ではなく、逆で〈傷つけることもあるし守ることもある〉としているのは、何か意味があるのだろうか。なんとなく、正しさを否定しすぎないためかなと思った。
玉井さんの口から正しさという言葉を聞くとドキリとする。まさか、正しさというフレーズが出てくるとは思わなかった。普段は聞かない強い表現。なぜこの言葉を選んだのだろうか。常に考えていることなのだろうか。思うに、ももいろフォーク村と、しおこうじフォーク村の歳月の中で、聴いて歌ってきたフォークソングが、玉井さんの中に蓄積し、溶解し、再び結晶したんじゃないだろうか。
そう言えば、前にも玉井さんが正しさを歌った曲があったのを思い出した。有安さんの卒業ライブで歌った「新しい青空へ」だ。あの時の玉井さんのパート「近くにいたよね 近くにいたけど 何が正しかったんだろう」。前山田さんにはこの歌割りの理由を聞いてみたいところだが、そこはかとなく、本人たちの言葉をそのまま採用してそうな気はする。
その不確かな壁
ももクロが超えてきた数々の壁。大人が設定した幾つもの壁を彼女たちは超えてきた。そして国立競技場に立った。それから9年。玉井さんにも超えられないと諦めた壁が、あったのかもしれない。その時自分が嫌になる感情はおそらく痛いほど知っているのだろう。外には見せない蔭の部分を見た気がした。
あるいはこうも考えられる。玉井さんは、数々の壁を超えてきた自分の経験を反転させて、もう一つのAnother Worldを描いた。自分の経験を裏返して、想像力を働かせる。そんな作詞の場が見えてくる。
記事のタイトルでもパクってるけど、現在こちら絶賛『街とその不確かな壁』読書中。実はその前、この作家に対する、ある評論を読んでいた。それにこじつけて言うと、もしかして玉井さんも「壁」を創作のきっかけにしているのかもしれない。というのは冗談として、驚くのは『不確かな壁』と「Sepia」の描く世界が恐ろしく似ていること。まさか、玉井さん読んでるのか?(違う)
白紙の未来
「空白の未来」という捉え方は、玉井さんの信条「過去と人は変えられないが、未来と自分は変えられる」の裏面。未来が変えられるのはそれが白紙だから。しかし、そうは捉えず、ただ白紙に怯える時もある。将来への漠然とした不安を誰しも抱えているのだ。
「黄色い線」とは何だろう。某中央線のホームの黄色い点字ブロックを思い浮かべてしまった。仮にそうだとしたら、駅のホームで電車に乗る決心がつかず、一歩も踏み出せない状況なのだろうか。あるいは、時間を止めるはずの赤信号と同じく、そこで止まる準備のための黄信号なのだろうか。
誰に優しくなれたのか
優しくなれたのは誰に対してか。逃げる選択をしたキミに対してなのか。臆病者だと罵って、「私」はキミを責めたのかもしれない。今となってはもう遅いけど、自分もようやくあの選択を理解できるようになった。でも遅きに失した。すべては二度と取り返せないという後悔。
あるいは、むしろ、自分に対してかもしれない。自分にこそ厳しい人が、他人を責めたりするだろうか。白紙の未来を恐れ、黄色い線の内側で立ちすくんでいた過去の自分。壁を乗り越えるのを諦めた過去の自分。「私」はそんな自分が嫌でたまらなかったけれど、今なら、逃げることだって必要だよと言ってあげられる。すべては遅きに失しているのだが。
微かな兆し
光がさすのは今。現在形だから。今、夜明けの空に包まれていて、光がさしている。世界が変わっていく中、取り残されていたけれど、今日は「私」も変われるかなという淡い期待が差している。すごく微かな兆し。とても美しい情景が浮かぶフレーズ。
光の中の悲しみ
この曲の中で最も悲しいフレーズ。最も過去に引きずられ、縛り付けられているフレーズ。光がさしている分、余計につらい。よくこんな悲しくて美しい詞を書けるなぁ。
光がさしていても、人はそんなに簡単に立ち直れない。それがわかっている人の言葉。立ち止まったままの状況にいる人に、本当に寄り添う歌詞だなと思う。
そして、涙のあとへ
「いつかのキミ」は過去の記憶の中のキミとも言えるし、これから出会うであろう未来のキミとも言える。記憶の中のキミと同じ位置に未来のキミも入り得るのだろうか。
「涙のあとには虹が架かるって」とは、誰かの言葉の引用のようにも受け取れる。あるいは「一般によくそう言うよ」ということなのか。「原理的にそうでしょ」ということかもしれない。とても静かな励まし。
「きっと、笑うから」というラストの言葉。全く押し付けるところがない。強制的な励ましでもない。隣で静かに玉井さんが寄り添ってくれてる情景。とても良い。
最後に
さて。1曲でこんなにダベってしまった。玉井さんがくれる言葉の威力、半端なかった。玉井さん作詞の曲があるという幸せ。それをいつでも聴くことができ、読むことができ、考えを巡らすことができる幸せ。思った以上だった。玉井さんは言葉をくれる人。素敵な推しです。幸せな時間をありがとう。「Sepia」これからもたくさん聴きます。
【追記:生特番を終えて】
2023年12月20日21:00、ももクロ公式YouTubeチャンネルで、12か月完走した玉井さんを皆でねぎらう会「SHIORI TAMAI 12Colors 生特番『締めくくるまで#玉井詩織まだまだ終わらない』」が生配信された。
全曲それぞれの成り立ちや制作秘話が聞けるという素晴らしい内容で、Sepiaの作詞についても玉井さん自ら、想うところを語ってくれた。その言葉の端から、玉井さんが真剣に作詞に取り組んだことがひしひしと感じられた。そのとき語られた言葉をテキストに起こして、刻んでおく。
「作品として残せたら」
強調されるのは、自分とは違う世界を描きたかったということ。玉井さん自身の真実吐露ではなく、完全な創作だということが明言された形だ。
詩を織るひと
「どんな想いでこの詞を書いたのか?」と、キングレコードのさくみさんに問われて。
これまで書き溜めてきた言葉を歌詞に生かしているということ。完全な創作ではあるけど、言葉はこれまで日常で思ってきたことが反映されているのだということになる。小学生の時に詩を書いてたということだけど、たぶん中高生の時も書いてるんだろうなぁと思った。直観。
何一つ修正のない玉稿
キングレコード、ディレクターのタケ氏談。
「普段、作家さんから出てきた詞に対して、多少なりとも〈てにをは〉だったり、音とちょっと合ってないというので修正のやり取りとかするんですけど、玉井さんから詞が上がってきた時、そういうのが一つもなくて。音ときっちりハマってたというのを、マネージャーの志賀さんに〈ヤバイですコレ〉と伝えた」
このようにベタ褒めされたのに、玉井さんは、いかに作詞が難しかったかという話を始める。驕ることがない。
締切を延ばしに延ばすという態度、すごくわかる。共感した。なんか、とてもいい。あと、我々世代だとそういう時「エイヤー!」って言うんだけど、今度から「行けぇー!」って言おうかなと。
初めてのソロMV
業界人って、やっぱり陰のあるタイプが好きなんだろうか。謎めいているというか。それが創作意欲を掻き立てるのかな。わからないけど。
イカ墨パスタのプレゼント
以上で文字起こし終わり。
これからも玉井さんが日常を書き留めていって、またいつか、それが形になることを密かに楽しみにしています。(2023/12/30追記)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?