見出し画像

「偏差値」の今とこれから

 今回は、「偏差値」について書きたい。統計学的な意味での標準偏差のことではなく、日本社会で機能している大学受験の「偏差値」のことである。

 私は保険をかけることが、生き方として嫌いだ。しかし、非常にセンシティブな問題なため、本題に入る前に、一つ保険をかけたい。それは、私がこれから述べることは、組織に所属する私の意見ではなく、まして、所属する組織の見解ではないということだ。くれぐれもご留意いただきたい、これから述べることの全ては私、一個人の見解であるということを。

 この違いが意味していることを、分からない方はこのnoteを読むべきではないし、読まないで欲しい、本当に。これで、安心して、好き勝手、書くことができる。では、早速始めよう。

大学・学部等の偏差値の算出方法

 統計学において押さえておくべき基本的な概念、それは「平均」と「分散」である。統計学を学んだことがない人であっても、平均は分かるだろう。答案返却時に、教師は「今回のテストの平均点は、65点でした。」などと言って返却するのではないだろうか。テストを受けた全員の点数を足して、受験者数で割った数が平均だ。その際、自分の点数が仮に80点だったとすると、当人は、「平均点より15点上か。まずまずだな。」と評価をする。

 しかし、平均点が同じ65点であったとしても、0点から100点まで満遍なくばらつき(分散)があるテストでの80点と、9割以上の人が、60点〜70点の間に収まっているテストでの80点では、その意味するところが異なる。(後者の80点の方が、偏差値は高く、卓越性を示す。)その分散を踏まえた上で、全体の中での自身の立ち位置を示してくれるのが、(標準)偏差だ。

 では、大学や、その学部・学科の偏差値とは何を指すのだろう。一般選抜の問題は、各大学独自の試験問題となる。当然、比較しようがない。大学入学共通テストのように同じ問題、同じ科目であれば、各大学を横並びで比較することができるかもしれない。しかし、各大学の合否判定で使用可能な科目・科目数は異なるため、公平な比較は、結局のところ不可能だ。

 では、各大学の各学部学科の偏差値とは何なのか。受験業界においては常識であるが、意外と知られておらず、大学関係者すら理解していないことが多いその偏差値の算出方法。それは、各大学の一般選抜(年明け入試)の不合格者が、これまでに受験した模試の成績(偏差値)を基礎に算出される。ここで、重要な点は、一般選抜(年明け入試)のみから算出されるということであり、不合格者を算定根拠にするということである。

偏差値のからくりとその操作

 大学入試は、一般選抜の他に様々な入試制度が存在する。各大学ごとにもちろん異なるが、ある程度の規模を構える入試は、次の5つとなる。

  1. 総合型選抜(旧AO入試)

  2. 学校推薦型選抜(公募推薦)

  3. 指定校推薦・内部進学(≒附属校)入試

  4. スポーツ推薦入試

  5. 留学生入試

 これらの入試で入学者を確保出来れば、一般選抜の不合格者を増やすことができ、結果的に、偏差値を上げやすくなる。旺文社は、毎年、9月末ごろに、『大学の真の実力』を出版している。そこには、(学部単位でまとめられてしまっているが)入学定員数、入学者総数、(入試)方式別入学者数などが掲出される。1年前のものと今年のものを見比べれば、その大学の入学者確保の方策と募集力が手に取るように分かる。

 そして、各大学、各学部の個別事情を捨象すれば、明らかに、大学入試全体が、年内入試に移行しつつあることが分かる。もちろん、それは、偏差値を維持(可能であれば上昇)させつつ、入学者を確保するためである。また、この動向を受け、受験生も、年内に大学を決めてしまおうと動くようになり、あるレベルより下の大学においては、そもそも一般選抜の志願者を確保できなくなってしまっているためである。だから、偏差値を見るとき、セットで、一般比率(一般選抜で入学する学生の比率)を見なければ、実態を見誤るのである。

 私は、進路に精通した高校教員の友人と飲むとき、「A大学X学部の一般比率はおおよそ何%か」というクイズを出すが、ばしっとは当たらないことの方が多い。それは、年毎にその比率が変わるからであり、余程、意識的に調べないと表に出てこない数字だからであろう。なお、名の通った大学であっても、その比率を非公表としている場合がある。隠さないといけない程度にはその比率が低いのだろう。

 もちろん、単年度で、年内入試での入学者の比率を大幅に高め、一般選抜の合格最低点を例えば50点も上げ、倍率を急激に高めれば、偏差値は間違いなく上がるだろう。しかし、それをすると、受験生や高校、塾などからの信用を失い、次年度以降の入試が成立しなくなってしまう。

 そのため、毎年、他大学の状況を綿密にチェックしながら、年内入試での合格者数を戦々恐々としながら、調整をし、新年を迎える。そして、新年を迎えて以降も、他大学の志願動向を見つつ、一般選抜の合否ラインの上げ下げをする。学生確保ができるか、偏差値を維持できるか、そういったことに、戦々恐々としながら。

 そんな詐欺みたいな数字にどれ程の意味(価値)があるだろうか。まぁ、ないよね。ただ、その偏差値に、高校生とその保護者、高校教員、塾、大学関係者は、騙され、踊らされていたり、理解しながらも、しぶしぶ踊らされていたりする。これが現実なのである。

 受験生も、年内入試の比率が上がっていることは、高校教員や塾講師から聞き知っている。そのため、学力の高い生徒であっても、指定校入試などで、さっさと年内に決めてしまうことも、最近では珍しくない。というか、普通なこととなりつつある。(同じ大学に入れるなら、さっさと決めた方が、遊べるし、受験費用もかからないし、合理的だ。)その際、彼らが気にするのは、やはりその大学、その学部の偏差値なため、詐欺紛いな数字であったとしても、その数字をコントロールする努力を各大学は怠ることができない。残念ながら。

 このような、入試をめぐる実態の話は、(入試担当者なため)いくらでも書けるが、賞味期限の短い内容となるため、ここらで切り上げ、そろそろ「偏差値」の是非に話を移そう。

大学教育にとって偏差値は悪か

 私は、偏差値によるスクリーニング機能は大学が、教育・研究活動を遂行する上で、必要なものだと考えている。一定程度同じ学力帯の学生の集団でないと、教育・研究を、効率的に遂行できないと考えるためである。例えば、数学ⅠAまでしか理解していない学生と数学ⅢCまで理解している学生とが、混在する理工学部において、全員の学生が、十分な学びを享受できるだろうか(できるはずがない)。しかし、学力試験で入学する生徒が減少してしまうと、偏差値は、スクリーニングとして機能しなくなってしまう。

 小等中等教育までは、「教え合いの文化」も必要であろう。働き始めたら、多様な人と関わるのだから、教えたり、教えられたり、そのような相互関係の在り方を、若いうちから経験してくことは良いことだ。小学校、中学校を、学力によるスクリーニングが働かない公立学校で過ごすメリットはそこにあるだろう。しかし、高等教育機関に進学してまで、それをする必要があるだろうか?そもそも、そんな綺麗事は、現状の入試制度を肯定するための詭弁でしかないだろう。

 高大接続改革は、「知識」偏重の大学入試を是正し、変化する社会に適応できる人材養成のために、学力の3要素(1.知識・技能、2.思考力・判断力・表現力、3.主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)をバランスよく評価し、後期中等教育から高等教育にかけて、一貫してそれを育むことを目的としている。しかし、実際は、総合型選抜による青田刈りを正当化する議論として、主に学生募集に苦戦する私立大学から、上手く利用されているというのが実態であろう。

 だから、私は、年に1回の筆記試験のみで合否が決まる大学入試を一つの理想型だと考えている(もちろん、もしそれが成立するのであればの話だが)。私は、そういった入試で大学に入学したが、大学院を含めた6年間は、人生において1番ノーストレスな時期であったと思う。それは、価値観の違いで分かり合えない相手は山ほどいたが、相手の言っていることが理解できないとか、相手に自分の主張が理解されないということが、皆無だったからだ。この麗しき学びの共同性を支えていたものの一つは、間違いなく、年に1回の筆記試験であったろう。

 だから、私は、適切に運用される限りにおいて、偏差値は、大学にとって、必要悪かもしれないが、悪ではないと考えている。もちろん、年内入試の大規模化により、適切な運用からかけ離れてしまっているわけだが。(なお、総合型選抜や指定校推薦入試で入学した学生であっても、GPA等による成績は、一般選抜で入学した学生と変わらないといった議論があることを付記しておく。)

偏差値と就社

 ここまで、偏差値を大学受験と大学に限定して話を進めてきた。しかし、日本においては、大学の偏差値が、死ぬまでその人の人生に影響を及ぼす。なぜなら、会社等においても、偏差値によって序列化された学校歴が物を言うからである。だから、社会の中での偏差値の在り方とその是非についても考えておこう。

 結論から言うと、私は、日本社会において、学校歴が、就社において、有利に働くことは、当然だと思っている(もちろん、業種によるが)。日系企業の雇用は、ジョブ型雇用との対比として日本型雇用(あるいはメンバーシップ型雇用)と呼ばれる。そこでは、職務が規定されず、総合職として、ジョブローテーションで様々な職務を経験する。事務、経理、営業、マーケティング、広報、人事など。どんぶらこどんらこと盥回しにされる。その過程で、評価を受ければ、出世していく。

 そのため、大学卒業までに専門性を身に付けておく必要性はほとんどなく、可変性と、組織や新しい職務に適応する能力が求められる。そんな雇用形態なのだから、「これだけしか出来ないけど、これだけはずば抜けて出来ます」という者よりも、「何でも出来ます、今は出来ないことでも、勉強をするので、すぐにできるようになります」という者の方が使いやすい、圧倒的に。

 そんな雇用形態をとっているのだから、大学受験において、5教科の受験科目をこなし、バランスよく点数を取る能力を持ったものを採用することは、明らかに合理的である。どの部署に放り込んでも、ある程度、卒なくこなせるであろうからだ。国家公務員(第一種)のほとんどは、今でも、旧帝大卒(特に東大卒)だが、それは、日本の雇用の在り方と偏差値=学校歴による序列化の仕組みとが、親和的だからであろう。

 もちろん、学校歴は、努力を出来る人間であることを証するパスポートではあるが、あくまでパスポートでしかない。入社してから努力を継続できない者は、少なからずいる。だから、ここで言う合理的というのは、使い勝手の良い人間を高い打率で採用する上で、合理的と言っているに過ぎない。

 ただ、これだけ大学入試の軽量化が進むと、偏差値はもはや、なんでも卒なくこなせる人材を発掘するための基準としてすら機能しなくなってしまっているだろう。日本型雇用の三種の神器である企業別組合、終身雇用、年功制は、平成の大不況によって崩壊しつつあるが、これらの賞味期限よりも、偏差値のそれの方が先にくるかもしれない。

偏差値のこれから

 大学の学部等の偏差値は一般選抜の不合格者の学力をもとに算出されると最初に述べた。逆に言えば、一般選抜で不合格を出せなければ、偏差値はつかないということだ。その大学、学部は、一般にBF(Border Free)と呼ばれる。入学定員を埋めることができていなかったり、一般選抜で志願者を確保できていなかったりする大学はすでに、このBFの域にある。そして、受験生(18歳人口)は減少していくが、大学の入学定員は増加している以上、BFの大学・学部は、年々増加していくであろう。

 私は、10年後には、日東駒専、産近甲龍以下の大学は全てBFの域に入っていてもおかしくなく、そのさらに、10年後には、日東駒専、産近甲龍以下の大学のほとんどが倒産していてもおかしくないと考えている。その意味で、偏差値という考え方は、しぶとく生き残るかもしれないが、その影響力は年々低下していくだろうと思う。

 だが、今はまだ仮象として、幽霊として、偏差値は、われわれの頭の中に存在し続けているし、現実世界に影響を及ぼしている。それが問題なのだ。

いいなと思ったら応援しよう!