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追悼 ポール・オースター

 2024年4月30日、ポール・オースターが肺がんの合併症でなくなった。享年77歳。『孤独の発明』『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』『最後の物たちの国で』『ムーン・パレス』『偶然の音楽』『リヴァイアサン』『オーギー・レンのクリスマスストーリー』『ミスター・ヴァーティゴ』『ティンブクトゥ』『幻影の書』『オラクル・ナイト』『ブルックリン・フォリーズ』『写字室の旅』『闇の中の男』『インヴィジブル』『サンセット・パーク』『Day/Night』『4321』。彼は、小説だけでもこれだけの珠玉の作品を残してくれた。それも、そのほとんどを日本語で読むことができる。オースター本人はもちろんのこと、柴田元幸、新潮社、白水社の関係者には、感謝してもしきれない。

 オースターは1947年2月に生を享けている。日本の文学者で言うと、中上健次(1946年8月)の少し後に生まれ、村上春樹(1949年1月)より少し先に生まれている。ニューヨークという「都市」を舞台にした小説家という意味では、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』(1925)、J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(1951)に連なる作家であり、日本で言うと、村上春樹『風の歌を聴け』(1979)の立ち位置となるだろうか。対比で理解するならば、南部アメリカを舞台に土着的な文学を創出したウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(1929)、その影響を受けたガルシア=マルケス『百年の孤独』(1967)、中上健次『枯木灘』(1977)などとはそのスタイルは自ずと異なる。

 オースターの小説には、必ずと言って良いほど、破滅的な思考に陥り、破滅的な状況へと自身を追い込んでしまう人物が登場する。これが彼の作品の分かりやすい特徴・傾向である。登場人物に、そうさせるものは「孤独」と呼ぶのが相応しい何かであろう。「近代」文学から「孤独」を切り離すことはできないが、「都市生活者の孤独(内面的飢餓)」は、彼のライトモチーフであった。なお、(ポールオースター名での)デビュー作のタイトルは『孤独の発明』(1982)である。

 私が好きなオースター作品は『鍵のかかった部屋』(1986)、『最後の物たちの国で』(1987)、『リヴァイアサン』(1992)の3作である。その中から、1作品選ぶとしたら、『リヴァイアサン』を挙げたい。初期作が持つ個性を失わず、そこに物語の重厚感が加わった円熟期の作品だからである。タイトルからも分かる通り、彼には珍しく、国家や自由といった政治的理念も作品世界に組み込まれており、それが作品に奥行きを与えている。彼の魅了が十二分に詰まった代表作と言っても過言ではないだろう。

 『リヴァイアサン』。自作爆弾が暴発したことで死亡したベンジャミン・サックス、なぜ彼はそのような死に方をするに至ったのか、彼の親友であり語り手のピーター・エアロンは、彼の人生の変転を辿りなおす。この作品は、村上春樹『羊をめぐる冒険』の「鼠」と「僕」と同様、あるいは『鍵のかかった部屋』の「ファンショー」と「僕」と同様、「サックス」と「エアロン」のダブル(分身)が基本の構図である。ただし、サックスの妻でありエアロンとも関係を持つ「ファニー」や、ソフィ・カルがモデルの「マリア・ターナー」、元売春婦でマリアの親友の「リリアン・スターン」など個性豊かな登場人物が、作中重要な役割を果たしており、彼女たちなしに、この物語は成立しない。エアロンは次のように言う。

いろんなことがつながっていって、好むと好まざるとにかかわらず、私もほかの人々同様、起きたことの一端を担うに至ったのだ。ディーリア・ポンドとの結婚が崩壊しなかったら、私がマリア・ターナーに出会うこともなかったろうし、マリア・ターナーに出会っていなかったらリリアン・スターンについて知ることもなかったろうし、リリアン・スターンについて知ることがなかったら、いまこうしてこの本を書いてはいないだろう。我々一人ひとりが、何らかの形でサックスの死とつながっているのであり、我々一人ひとりの物語も同時に語らないことには、サックスの物語を語ることにもならない。何もかもがほかの何もかもとつながっていて、すべての物語はほかのすべての物語とオーバーラップする。

ポール・オースター著・柴田元幸訳(2002).リヴァイアサン、新潮社

 エアロン≒オースターは、「サックスの強烈な個性の必然的帰結として起こった悲劇」として彼の死を物語ることを拒否し、他者との偶発的な出会いとその関係性から彼の死を物語ることに固執する。本作に限らず、オースターが紡ぐ物語において、重要なキーワードは、「偶然・偶発」である。

結局のところ人生とは偶発的な諸事実の合計以上のものではない。偶然の交わり、たまたまの運不運、それ自体が目的を欠いていること以外何も明らかにはしないばらばらな出来事の羅列、それ以上のものではないのだ。

ポール・オースター著・柴田元幸訳(1993).鍵のかかった部屋、白水社

数珠つなぎの不運、もろもろの誤算、じわじわとのしかかってくる状況の重圧。我々の人生とは、要するに無数の偶発的出来事の総和にすぎません。それらの出来事が細部においてどれほど多種多様に見えようとも、全体の構成がまったき無根拠に貫かれている点においてはみな共通しているのです。

ポール・オースター著・柴田元幸訳(1999).最後の物たちの国で、白水社

 挙げだしたらきりがないため、このあたりにしておくが、ドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』あるいはスピノザ『エチカ』のように、「すべての物事は神の摂理(因果関係)に基づき決定している(ただし人間はそれを認識できない)」の裏返しが、「人生はまったき無根拠に貫かれている」とするオースターなのである(あくまで裏返しであり、対立ではない点に注意)。

 『リヴァイアサン』しかり『ムーン・パレス』しかり、彼の作品では、唐突に物語の中盤に、確率論的にはあり得ない巡り合わせが起き、物語が進行する(ここで読むのをやめた読者も少なくないだろう)。例えば、『ムーン・パレス』では、語り手フォッグが大学のアルバイト斡旋を受け、トマス・エフィングという老人の下で住み込みの仕事を始めるが、そのエフィングが、長年正体を隠してきた自身の祖父であったということが、物語の後半に発覚し、フォッグに大きな影響を与える。

 「現実は小説より奇なり」とはよく言うが、オースターは敢えて(敢えてというほかないだろう)「偶然」としか言いようのない(現実で時たま起こる奇なる)巡り合わせを小説に再輸入する。彼の小説の面白さと魅力は、この「偶然なる他者との出会いによる人生の変転」≒「人生のコントロール不可能性」への眼差しにある。「自分の人生は自分で切り拓く」というマッチョな思想の持主には、到底受け入れがたい物の見方であろうし、弱者の見方あるいは老成した見方とも言えるだろう。だから、彼の作品には探偵要素が詰め込まれているが、レイモンド・チャンドラーのようにハードボイルド小説に括られない。

 ここで、オースターはなぜこのような見方をするに至ったのか、その見方を小説の根幹に据えたのか、と問いたいところだ。だが、この問いは、ライトな読者である私には荷が重い。そのため、彼は「観察のプロであり、表現するプロであったということ、そしてその観察と言語化が、彼の認識論を形成した」という仮説を提示するに留めたい。『ムーン・パレス』では次ような印象的なエピソードが挿入される。

外に出たとたん、エフィングはステッキを宙にかざし、それで指した先に何があるかを大声で訊ねるのだ。答えを聞くと、すかさず今度は、それを描写しろと命じる。屑かご、商店のウインドウ、戸口。何であれ、僕はそれを正確に描写せねばならなかった。彼の思いどおりのスピードで言葉が出てこなかったりすると、エフィングはかんかんに怒り出した。「何をしとるか」と彼は言った。「目を使え、目を! わしは何も見えんのだぞ、なのに何だ貴様は、『ごくあたりまえの街灯』だの『何の変哲もないマンホールのふた』だの! この世に二つと同じものはないんだぞ、馬鹿野郎。どんな阿呆だってそのくらい知っとるわい。しっかり目を開けて見ろ、あほんだら、ちゃんとわしの頭の中に見えてくるように説明せんか!」。

ポール・オースター著・柴田元幸訳(1997).ムーン・パレス、新潮社

 もちろん、これは語り手フォッグの体験であり、オースターのそれではない。しかし、オースターが小説家になるために、また、小説を書き続けるためのトレーニングとして、観察と言語化を繰り返したであろうことは想像に難くない。「この世に二つと同じものはない」事物の世界を、「同一性の原理で成り立つ」言葉を駆使し、説明を試みる。その繰り返しは「たまたま」としか言いようのない説明不可能性=偶然性がこの世に満ち満ちているという現実に行き当たるだろう(これは一度やってみたらすぐに分かる)。

 オースターは、説明不可能性=偶然性を、そのまま受け入れるという知的誠実さを持っており、それを小説世界に意識的に導入したという意味で、彼独自の文学を打ち立てたと言っても過言ではないだろう。だからだろうか、彼が描出する出会い(出会いというのは、「偶然性」の象徴であろう)のシーンは非常にドラマチックで美しい。最後にサックスとエアロンの出会いのシーンを引用して終える。

「それはちょっと違うな」と頭にマフラーを巻いた男は言った。「あんた、自分を忘れてる」
「忘れちゃいないさ」とバーテンは言った。「俺は勘定に入らないだけさ。だって俺はここにいなくちゃならん、ところがあんたらはそうじゃない。そこだよ。俺は来なかったら、職をなくしちまう」
「でも僕だって仕事をしに来たんだぜ」ともう一人の男は言った。「五十ドルの稼ぎになるって言われたんだ。そしたら朗読会は中止、地下鉄代も無駄にした」
「なんだそんなら話は別だ」とバーテンは言った。「朗読をしに来たんだったら、あんたも勘定に入らんだろうな」
「ということは、この街じゅうで、出かけなくてもいいのにわざわざ出てきたのはただ一人ってことになる」
「僕のことを言ってるんだったら」と私はようやく会話に入って言った。「それならリストはゼロだよ」
頭にマフラーを巻いた男は私の方を向いて、にっこり笑った。「ふむ、すると、君がピーター・エアロンだってことになるのかな?」
「そうなるんでしょうね」と私は言った。「でも僕がピーター・エアロンなら、あんたはベンジャミン・サックスにちがいない」

ポール・オースター著・柴田元幸訳(2002).リヴァイアサン、新潮社

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