大学職員が読むべき10冊
今回は、私が考える「大学職員が読むべき10冊」を紹介する。「学校法人職員が」とせずに「大学職員が」とした理由は、1つは、初等・中等教育などには触れず、あくまで「大学」という制度・教育に関する書籍をピックアップしたからであり、1つは、法人経営・ガバナンスの在り方などに関する書籍は除いてピックアップしたからである。
私は、ある程度、知識を持った者同士が議論をするから、生産的な意見や建設的な意見が生まれ、学びが得られると考えている。そして、この10冊を読めば、その「ある程度」の知識を得られる(と考える)ため、タイトルを「読むべき」とした。これらの本をきっかけに職場内あるいは大学業界内で、活発で、生産的な議論が少しでも生まれたら嬉しい。
また、手に取りやすいよう新書や文庫を多くした(①、③、④、⑤、⑩)。硬派な書籍や絶版本(②、⑥、⑧)も含んでいるが、ご了承いただきたい。なお、紹介順は、オススメ順ではなく、読むべき順(総論から各論へ、最後にあらためて総論へという流れ)としたが、あくまで目安として考えていただきたい。では早速始めよう。
①総論的大学論『大学とは何か』
すでに読んだことがある人も多いのではないだろうか。1冊目は、社会学者であり、東京大学の副学長まで務めた吉見俊哉氏が執筆した『大学とは何か』である。国外の大学と日本の大学の歴史が、1冊の新書にコンパクトにまとまっており、大学という制度全体を俯瞰するのに最適な1冊である。本を読むのが苦手な方も、ぜひこの一冊だけは読んでいただきたい。
②大学の地殻変動『高学歴社会の大学ーエリートからマスへー』
著者は、エリート型、マス型、ユニバーサル型という高等教育の発展段階の理論(トロウ・モデル)を提唱したアメリカの教育社会学者、マーチン・トロウ氏であり、彼の論文等を翻訳本としてまとめたのが本書である。
大学はその成立から長期間にわたり、エリート階級のみがアクセス出来る機関であった。しかし、戦後、進学率が急激に上昇した結果として、大学の在り方それ自体も、変わらざるを得なかった。どう変わり、どういった問題に直面したのか、直面しようとしているのか、そういったことを考えるのに最適な一冊である。詳しくは次の記事で論じている。
出版年は、1976年と50年近く前の書籍であり、重版未定状態であるが、今も読むに値する現役本であると思う。また、訳者の天野郁夫氏と喜多村和之氏は、高等教育業界の重鎮であるが、私の勉強不足が原因で、10冊の中に含めることが出来なかったことは不徳の致すところ(?)である。
③イギリスから学ぶ『大学はもう死んでいる?トップユニバーシティーからの問題提起』
日本の大学の在り方を考えるにあたり、イギリス、ドイツ、アメリカそれぞれの大学についてある程度、理解しておいた方が良いと私は考えている。なぜなら、それぞれの国で生まれた大学制度が、今の日本の大学においても生きており、大学の原型をなすからである。
本書は、オックスフォード大学で教鞭をとる教育社会学者の苅谷剛彦氏と①の吉見俊哉氏が、オックスフォード大学で行った対談を書籍にしたものである。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学に特有のカレッジ教育について知ることが出来るだけでなく、日本の大学の問題についても考えることが出来、一石二鳥の書籍となっている。なお、苅谷氏のそのほかの著作、例えば、『学力と階層』や『イギリスの大学・ニッポンの大学』なども一読に値する。
④ドイツから学ぶ『ドイツの大学 文化史的考察』
20世紀初頭までのドイツの大学の歴史を潮木守一氏が多くのエピソードを挙げつつ、論じてくれている読みやすい1冊だ。キーワードは、決闘文化、フンボルト理念、科学革命、アルトホーフ体制だろうか。
明治維新から戦前まで日本の大学は基本的に、ドイツの大学を模倣してきた。当時、科学という観点で世界を席巻していたのはドイツであり、また、純粋な意味での国営大学が生まれたのもドイツにおいてであった。それゆえ、上からの近代化及び富国強兵を果たすにあたり、ドイツの大学は、帝国大学のモデルにしやすかったのであろう。
私は、この書を読んでいると、哀愁を感じる。それは、私が卒業した大学が、当時のドイツの大学に通じるところがあるからであろう。ドイツの大学の文化は、現代の日本の大学(旧帝大に限らず)にも生きている。どこが似ていて、どこは違うのだろうか。そのうち、何が今も必要で、何は必要ないだろうか。そんなことを考えながら読むと得るものが多いように思う。
⑤アメリカから学ぶ『アメリカの大学』
アメリカの大学の成立から20世紀初頭までの歴史を④に同じく潮木守一氏がエピソードを多くとり入れつつ論じてくれている書籍である。
中等教育が未発達であったアメリカにおいて、植民地カレッジは、古典や道徳の教育を行う親代わりの機関であった。しかし、ドイツに留学し研究大学を知ったアメリカ人は、カリキュラム改革や大学の制度改革に乗り出す。その過程で、誕生したのが「大学院」である(その始まりはジョンズ・ホプキンズ大学)。
植民地カレッジ由来の一般教育≒教養教育や大学院など、現在の日本の大学において通用している制度の多くは、戦後に、アメリカの大学から輸入した制度である。それゆえ、アメリカにおいてそれらの制度がどのようにして生まれたのかを知ることは重要であり、それを知るにあたり本書は有効である。
なお、最近のアメリカの大学事情を知るには、アキ・ロバーツ氏と竹内洋氏の共著『アメリカの大学の裏側「成果最高水準」は危機にあるのか?』(2017)が参考になる。アキ・ロバーツ氏は、ウィスコンシン大学(州立大学)の教員であり、地に足の着いたアメリカ大学論として、その実態を知ることが出来る。
⑥教養教育『大学と教養教育』
1991年に大学設置基準が大綱化されたことで、所謂、一般教育は廃止された。しかし、1,2年次に主として一般教育≒教養教育を行い、3,4年次に、主として専門教育を行うという体制を取っている大学はまだまだ多いのではないだろうか。
⑤で若干、触れた通り、日本の一般教育は、戦後の大学改革の中で、アメリカから輸入したものであり、それは、植民地カレッジ由来の人間形成的な理念を具現化した制度である。しかし、日本には、そのような(リベラル・アーツ≒自由7科)伝統はなく、その導入はすんなり運ばなかった。
本書は、戦後の日本の大学の一般教育の導入と変容を辿りつつ、教養教育の在り方を問う吉田文氏の力作であり、大学教育の片翼を担う教養教育の在り方を考えるにあたり、必読の書である。
⑦オンライン『ルポMOOC革命 無料オンライン授業の衝撃』
MOOCとは、Massive Open Online Coursesの略称であり、オンラインを通じた教育機会の拡大とそのツール・制度のことを指す(正式な定義があるわけではない)。本書は、ルポ本であり、著者の金成氏の取材により、その様々な事例が詳らかになっていく。著者が取り上げる一つの一つの事例が、教育の可能性を感じさせるものであり、ぜひ、本書を手に取って欲しい。
新型コロナウイルスの拡大に伴い、日本の大学においても、オンラインでの授業が急激に拡大した。しかし、学生のモチベーションを維持することに失敗し、総論としては、「対面授業が実施出来ない場合の代替手段」という認識に留まったように見受けられる。大学に「義務的に」進学した学部生にとって、そうなることは予測できたことであろう。どちらかと言うと、この仕組みは、大学に4年間通うお金や時間はないが修学意思のある者や、勤労者・既卒者で学び直しを希望する者など、高等教育に求めるものが明確な者との親和性が高いだろう。
ただ、この仕組みが世界を席巻し、例えば、ハーバード大学(別に東京大学でも良い)が提供する「ミクロ経済学」の授業を安価で受講できるとしたら、今、皆さんが勤務している大学の経済学部は必要だろうか。そんな未来がもしかしたらすぐそこまで来ているのかもしれない。そのとき、あなたの大学はその「衝撃」に耐えられるだろうか。
⑧企業化する大学『アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在』
社会は、狩猟社会から農耕社会、工業社会、情報社会へと進化(退化?)を遂げてきた。脱工業化した現代において、「知識」は、資本主義経済を回す歯車として、その重要性を日増しに高めている。そして、今も昔も、大学は、「知識」を生み出し、社会に提供することを一つの役割としてきた。だが、以前の大学教員は、まず何より、科学者、すなわち、真理を解き明かす者であり、産業化自体は、二次的な問題に過ぎなかったし、ましてや、金銭的対価を得ることに対して、嫌悪する者の方が多かった。
しかし、特にアメリカの大学において、科学研究の成果を産業に活用し、金銭的対価を得ることが、大学の一つの役割、それも重要な役割になりつつある。本書は、アメリカの大学の動向を追いながら、このアカデミック・キャピタリズム(大学資本主義)、すなわち、「大学の市場化」が大学をどう変容させるのかついて考察した書である。
日本の大学は、これまで、国立、公立、私立という3区分で整理されてききた。国公立大学は、税金をその財源とし、そうであるがゆえに、主たるステークホルダーは国(市)民であった。一方、私立大学は、授業料をその財源とし、そうであるがゆえに、主たるステークホルダーは、学生とその保護者であった。しかし、アカデミック・キャピタリズムの動きが加速化すると、企業との取引き、企業との連携の中で、その主たるステークホルダーが、企業になることを意味する。このことが意味することについて、考えるうえで、本書は有益である。
⑨大衆社会における大学『近大革命』
これまでのラインナップからすると少し違和感があるかもしれない。しかし、大学職員の必読書としてこの本を挙げないわけにはいかないだろう。
私の中には、両極端な2つの思いが巣食っている。1つは、「こんなことは大学がすることではない」という思いであり、1つは、「近大はすごいな」という思いである。象牙の塔にこもり、たくさんの本や論文に囲まれながら、自由に思索出来る場、それこそが私の理想の大学である。その理想は多分死ぬまで変わることはないだろう。一方で、私立大学の大学職員として、大衆社会が必要とする大学を志向すべきであるとも考えている。
その意味では、志願者をしっかりと集め、偏差値を上げることによって、教員の反対を抑え、味方につけつつ改革を進める近大のやり方は、経営者として徹頭徹尾「正しい」。近大や大和大のやり方(特に、広告)に対して目くじらを立てる同僚は少なくない。しかし、そのやり方で成功していることも確かなのである。嫌味を言う暇があれば、この本を読み、盗めるところは盗みつつ、彼らを超える大学を模索すべきではないか。
⑩再:総論的大学論『大学の教育力─何を教え、学ぶか』
最後の1冊は正直、迷った。「大学スポーツ」について触れてこなかったため、その書籍を選ぼうかとも考えたが、その良書に出会えていないため、やめた。最終的には、あらためて「大学とは何か」を考えることのできる総論的な書籍とした。①の吉見俊哉氏の本と異なる点は、書名の通り大学「教育」にその力点があるところだ。
新書にしては内容が濃く(決して論旨が分かりにくいわけではないが)、いきなり読んでも金子氏が言わんとするところを理解することは難しいかもしれない。しかし、ここまでの9冊を読んだ後であれば、その言わんとするところが、すっと入ってくるはずだ。10冊の締めとして、高等教育研究の第一人者が執筆した本書を読んでみてはいかがだろうか。
最後に
私は、これまで2つの学校法人で働いてきた。振り返ってみると、その2法人の共通点が1つだけある。それは、採用面接において、面接官が、私の修士論文について問いただしたことであり、その面接官は、採用後に、たくさんの大学に関する書籍を紹介してくださった(1人は20冊程度本をくれた)ことである。
今回紹介した10冊の中にも、その方々から紹介いただいた本や、紹介いただいた本を通じて知り、手に取った本が含まれている。その方々に感謝するとともに、その読書の輪が、少しでも広がって欲しいと切に思う。