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海辺の黄色い家

     序
この作品に登場してくるモラエスは、実在した人物です。
モラエスは、今から百七十年前の一八五四年に、ポルトガルのリスボンで生まれました。のちに海軍士官となってモザンビークやマカオに駐在します。
その後 明治三二年、四五歳の時に来日、神戸にてポルトガル総領事となりました。
一年後、モラエスは、大阪松島の芸妓おヨネを落籍して、神戸で一緒に暮らし始めます。その時、モラエスは四六歳、おヨネは二五歳でした。
その時から、おヨネが亡くなるまでの間、一緒に暮らした十二年間が、モラエスにとって一番幸せな時間であったようです。
おヨネが亡くなった後、おヨネのお骨を郷里徳島に埋葬します。
その一年後、モラエスは、ポルトガル総領事の職をなげうって、徳島に移住します。
徳島では眉山の麓の粗末な長屋に居を構え、おヨネの姪のコハル(当時十九歳)に身の回りの世話をしてもらいながら暮らしますが、コハルとも深い中になります。ところが、コハルは結核にかかり、二十四歳の若さで亡くなってしまいます。
以後、モラエスは、昭和四年に七十五歳で亡くなるまでの十二年間を、毎日おヨネとコハルのお墓に通いつつ孤独に暮らして、最後は土間にうつ伏せになって亡くなっていたのです。
モラエスは遺言でコハルの墓に埋葬されました。
おヨネ、コハル、モラエスのお墓は、今は整備されて、徳島駅近くの「阿波おどり会館」のすぐ隣の潮音寺にあります。  
     
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 麻子は目を覚ました。懐かしい人の夢を見た。その人はもういない。天に帰って行った。一度だけ愛してくれた。尊い妻の目を盗んでたった一度だけ。
 麻子は、よれよれのパジャマを脱いで、かろうじてベッドから立ち上がり、トイレに行った。心の優しい人だったと思う。思い出は懐かしく、今もその思い出をたどれば、老いた心に光がさす。
 麻子は乏しい朝食をとった。トーストとコーヒーだけの。
 朝食が終わると、麻子は日課のごとく海へ行く。
 
 浜辺には、不思議な老人がいる。
 ハンチング帽を被り、着物を着、綿入れのおでんちゅう(ちゃんちゃんこ)を羽織って、白足袋、下駄履きの雲突くような大男。
 白い口髭と顎髭は、顔の半分を覆っている。
 ひと月前から現れたその老人は、いつも岩場に立って杖を突き、海のかなたを凝視している。
 麻子は、懐かしい人の姿をその老人に重ねる。
 浜辺に近づくにつれて、麻子の足はよろめいた。ズック靴は砂にめり込み老いた足は思うに任せない。
 犬を連れた若者が、麻子を抜かしてすいすいと進んでいく。
 叢を抜け、視界が広がった。
 
 麻子は、岩の上にそびえて立つ老人の後ろ姿を見た。思わず涙が零れ落ちた。
 涙を隠すように、老人の後ろ姿より目をそらし、広い海を眺めた。
 
 海の向こうに広がる世界を麻子は知らない。麻子は、岩と反対の西の方の海岸に目をやった。雪をかぶった真っ白い富士山が見える。麻子はハンケチを出して涙を拭いた。
 
 老人はいつも三十分ほど海を眺めていると、重い足を引きずるようにして帰って行く。麻子は今日こそ老人に声をかけようと決心する。
 麻子はうつむき加減に踵を返して老人の方に近づいて行った。
 岩場の下にたどり着き、麻子は、「グッドモーニング」と空を見上げて声をかけた。
 老人は驚いたように麻子を見、「おはようございます」と言った。
 麻子は腰を抜かしそうになった。青い目の老人の日本語のうまさに。
 「毎朝お目にかかっています。あなた様はいつもこうしていらっしゃる。あなた様はどうしていつもここにおられるの?」
 「椰子の実が流れてくるのを待っているのですよ」といって、不思議な老人は冗談ぽい笑みをたたえた。
 「まあ」と麻子も笑った。この人は、椰子の実の歌も知っているのだわ。
 「もし、よろしかったら、すぐそこの私のうちに寄っていらっしゃいません?」と、麻子は振り返って、防砂林の向こうを指さした。
 「ああ」と老人はあいまいに答えたけれど、決心したように「行きましょう」と言った。
 麻子は老人の足取りに負けまいと必死だった。けれど、老人の方が早い。アスファルトの道路に出た時に、老人は立ち止まって振り返って、麻子に微笑みかけた。
 麻子は、防砂林に押しつぶされそうになっている、黄色いペンキ塗りの小さな家に案内した。
 「おかけになって」と麻子はリビングのソファーを指さした。老人は杖を立てかけ、どさりとソファーに沈みこんだ。
 麻子はミルクティを入れ、向かい合って座った。老人は口髭と顎髭に覆われた唇にカップを押し当て紅茶を啜った。
 麻子は、まじまじと老人の紅茶を啜る姿を見ていた。
 「あのう」と麻子は声をかけた。
 「モラエスさんではないでしょうか」
 老人はびっくりしたように顔を上げた。
 「そうです」ときっぱりと言った。
 麻子はまた涙が出そうになったが、こらえた。
 モラエスさんは、おヨネとコハルのお墓を守って、毛唐人と嫌われながら、孤独に徳島にいるはずなのに。
 
 麻子は、たった一度だけ愛して下さった愛しい人の思い出の中に生きている。誰にも手をかけられていない潔らかな無垢な身体をその方の前に横たえたいという思い一筋に、四十までストイックに生きてきた。とうにあの方は結婚し子供までできているというのに。
 ふと女神がほほ笑んだというよりほかない、あの人との再会。麻子はこの防砂林に押しつぶされそうな、黄色いペンキ塗りのバラックの家に愛しい人を迎え入れた。固い殻で防御していた果実の中は、愛する人を待ち、熟れつくし、揺ていた。麻子の悦びと裏腹に、ことを終えたあの方の顔はひきつっていた。麻子は居住まいを正し、床に手をついて、誘惑したことを詫びた。「あなたは何も悪くない、こうなる運命であったのだ」とあの方は言って、麻子を強く抱きしめたあと、うなだれて、海沿いの道を帰って行った。
 愛しい人は、家族とともに海を渡り、定年まで帰ってこなかった。
 置き去りにされた麻子は寂しくて、時折、働いていたお店に来るサーファーたちを黄色い家に呼び入れた。月日は流れ、麻子は老い、今は黄色い家により来る人は誰もいない。
 
 モラエスさんは、日本の片田舎の都市徳島で、孤独に死んでいったはずなのだが、今麻子の目の前にいる。
 目の前にいるモラエスさんが着ている着物は垢じみている。白い足袋は黒ずんで穴があいている。
 麻子は、モラエスさんの足元にひざまずき、はぜを外し足袋を脱がせた。
 大きい少しガサガサした白い足が麻子の掌にあった。麻子は慌てて下駄を履かせ、裁縫箱を持って来て、穴をかがった。
繕い終わった足袋を受け取ると、モラエスさんは腰をかがめて足袋をはいた。筋ばった脛がちらりと麻子の目を射た。その脚は、若いころは海軍士官として鍛え、軍艦を指揮して七つの海を渡った、鍛え抜かれた脚だ。老いては、異郷の地でおヨネとコハルの墓に毎日欠かさず通い詰めた脚だった。 
 麻子はモラエスさんのそばにより、ひざまずいて手を握り、
「あなたはどうしてこんな所にいらっしゃるの?おヨネさんとコハルさんが、あなたが来て下さらないって、寂しがっていらっしゃるわ」とささやいた。
 するとモラエスさんはほほえんだ。
「ごしんぱいにはおよびません。いま、わたしは、おヨネとコハルといっしょに、たのしく、てんじょうでくらしております」
「あっ、そうでしたね。なんと不覚な。でも、なぜこんな所にあなたはいらっしゃるの?」
「あまのはごろもというものを、やんちゃむすめのコハルが、ここのかいがんにわすれてきたというので、とりにきたのです。コハルはふじやまをひとめみたいとさわいでこのはまにおりてきました。そしてあわてんぼうのコハルは、はごろもをおいたまま、えいっととびあがって、ひととびでてんじょうにかえってきてしまったのです」
「まあ、コハルさんらしい」
 モラエスさんはいかにもコハルがかわいいというふうで、クククと笑いをこらえている。       
 麻子は、日本の自然を愛し、おヨネとコハルを愛して、二人の死後も生まれ故郷ポルトガルに帰らす、晩年の十年以上を孤独に阿波徳島で生きたモラエスさんの気持ちがわかったような気がした。
「モラエスさん、私、リスボンに行ってみたい」
「いいですとも、いってらっしゃい」
「まあー、何をおっしゃいますの、私もう八十六なの。長旅には耐えられません」
「ほぅ」
「せめてもと、私ファドを歌えるように練習しました」
 そういって麻子は、ちあきなおみが歌っていた「霧笛」という歌を歌い始めた。
モラエスさんの唱和してくださるしわがれた低音が快く麻子の耳に響いた。
 歌い終わると、モラエスさんのよく響く拍手が聞こえた。麻子はモラエスさんに駆け寄り、背中に頬を当てて全身を預けた。
 
 麻子は誰もいない椅子に倒れこみ椅子とともに床に崩れ落ちた。
 モラエスさんは、天の羽衣を抱えて、空に昇っていった。
 
 麻子は、夜のしじまの中、黄色いペンキの小屋の窓から、こんもりと黒い塊になった防砂林を眺めながら、ぼんやりとしている。
 気が合い何でも話した女友達も、もう世を去ってしまった。もう一人の仲のいい女友達は、もう何年も足が動かず施設でいる。母も祖母も兄もみんな逝ってしまった。生涯をかけて愛したあのお方も。黄色い小屋を訪れた数々の若人も。もう誰もいない。
 麻子は、黒い塊となった防砂林の上に綺麗な満月が昇ってくるのを眺めながら、呆けたようになっていた。
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       付 
「モラエスを讃えた日本の文豪たちの言葉」
    ―「徳島県立文学書道館」の展覧会「モラエスとハーン展」より抜粋―
 
吉井 勇
 モラエスは 阿波の辺土に 死ぬるまで
        日本を恋ぬ かなしきまでに
         『玄冬』創元社、1944年
 
山口 誓子
 モラエスと 小春とがゐて 阿波霞む
         『方位』春秋社、1967年
 
久米 正雄
 モラエスも うつつをぬかす 春の宵
 
ドナルド・キーン
司馬 遼太郎
キーン 徳島にポルトガル人のモラエスがいて、そして
    おそらく徳島文学として最高のものでしょう。
司馬  最高のものですね。あれを凌駕するものは一つ
    もないな。
 
新田 次郎
 モラエスはおよねの中から最も美しいものを探し出そ
うとしていた。眼であろうか顔かたちだろうか、彼女の
全体から受ける感じであろうか。
 畳の上に置いてある卓袱台をへだてて前に座っている
およねを包んでいるものは、豊かなやさしい、そして何
処かに悲しげな翳がある美しさであった。(中略)およ
ねの眼は春の日のように愁いをたたえながら静かに彼を
見詰めていた。強いて言えばそれはいかなる意向をも察
することのできない、神秘的に馨る眼差しであった。
    『孤愁 サウダーデ』文芸春秋社、2012年
 
遠藤 周作
 人は、あまりに幸福な時、「これでいいものだろうか」と、
突然、名状しがたい不安にかられる瞬間がある。あまり
に碧く晴れ上がった空を見る時、説明のつかぬ心の影に
震える一瞬がある。
 それとよく似た不安を、我々はモラエスの日本にたい
する陶酔と讃美の頁を読む時感じるのはやむをえない。
「これでいいのだろうか」それはモラエスにたいしてで
はなくモラエスから祝福を受ける自分たちにたいして
でもある。
 彼は日本のなかにあたらしい命を見つけようとした。
そしてこの日本の芸術や日本人の繊細な生活や日本精神
の強さを理解しようとした。けれどもその陶酔が烈しけ
れば烈しいほど、青空があまりに青ければ青いほど、裏
切られた時の悲しみは大きいであろう。やがてこの『日
本通信』に描かれたみごとな日本人が、近代という名の
もとに、かつてモラエスが讃美したものを次々と捨てて
いった時、彼はどのように辛かったであろう。
           『定本モラエス全集』第2巻
           「日本通信」解説、1969年
 
瀬戸内寂聴
 私はこうもりの飛ぶ夕暮れの道で、その異人さんには
じめて逢った。
 寺町に仲のよい友達がいて、私はそこで遊びすぎ、夕
方近くになって、あわてて家にもどろうとして、友だち
の家を出た。丁度その時、森閑とした寺町の通りの向こう
に、異様な人がふっと、湧き出るようにあらわれえたのだっ
た。
(中略)
 春だというのに、どてらを着て、殿中(でんちゅう)
を羽織り、鳥打帽子を目深にかぶっていた。手に太いス
テッキをついていた。
 見上げるように大きな姿だった。放心したふうに、男
はゆっくりゆっくり歩いていた。道ばたの家の門にへば
りつき、息をつめている私に気づかず、青い目にものが
なしい色をたたえ、歩きつづけていた。蹌踉という言葉
もしらない子供の私の眼にも、その年老いた異人さんの
貧しげな姿が物のあわれであり、歩き方に思わず手を
とってあげたいようなはかなげなものを感じた。
        「青い目の西洋乞食」『人なつかしさ』
         筑摩書房、1983年
 
 
同人記
 二月十日で終に八十六歳にもなってしまった。耄碌一歩手前である。恐ろしいほど言葉を忘れて、出て来ない。例を挙げれば、最近では、レタス、カシミヤ、ノーベル賞。その前は何を思い出すのに苦労したかを思い出せない。新聞を取っていないので、活字を読まないから言葉を忘れるのか。一人暮らしでスーパーマーケットにたまにしか行かないのが野菜の名を忘れる原因になるのか。自分でも恐ろしい。
 夜は寝たり起きたり。ゴシップ系YouTubeを聞きながら寝落ちしていて、はっと気づいてまた聞く。耳元でスマホが勝手にゴシップを流している。その上、夜中に二回はトイレに行く。多い時は三回だ。おまけに左膝の軟骨が擦り減っていて、トイレに行こうにもベッドから立ち上がるのにも、最初の一歩を踏み出すのにも時間がかかる。壁を伝いながらトイレに行く。
 で、私のモットーは「今日も元気に生きて行こう」と自分に声をかけて励ますことである。
 ところで、私自身YouTubeを始めた。私のチャンネルは,
 Sakiko @sakiko3734 なんだけど、これで検索していただいたら出てくるのかな? 「キラキラ婆さん85歳」で検索したら出てくるのかな? もしも見られるようでしたら、見て下さいませ。
 ああ、来年も頭がボケないでこの同人誌「マスト」に原稿出せたら、どんなに嬉しい事でしょう!
    

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