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小説『スミレの場合は』6~11


それにしても、もう遅いのじゃないか、子供を産める限界の年に近いのではないかと、可愛い子供たちの姿を目前にして、初めて思った。何故もっと早く気づかなかったのだろう。自分はいつまでも若いと思っていた。十年の歳月が過ぎているのに、スミレの中では時間が止まっているのも同然だった。毎日同じ職場に通い、同じ人と毎日顔をつきあわせ、狭い世界に住んでいたので、相手も自分も年を取っていっていることに気が付かなかった。子供が欲しいなら、早く再婚しなさいと教えてくれる人もいなかった。皆若くして未亡人になったスミレの不幸を、傷にさわって痛みを起こさせるようなことになってはいけないと、当たり障りのないことばかりを言って、逃げていたのだ。周りの人は、皆、それが一番いい接し方だと思っていたのだ。要は親身になってスミレの将来を考えてくれる人がいなかった。
スミレはボールを拾ったことから、可愛い赤ちゃんの姿に触発されて、自分の現状に気付かされた。ぼんやり生きていてはいけない、自分が欲しいものは、自分の手で獲得しないとだめなのだということが、自覚できた。
秋の日はつるべ落としというけれど、あっという間に夕闇が迫っていた。気が付くと、殆どの親子は帰っていなくなり、一組の親子が急いで砂場でおもちゃを片付けていた。我に返って周りを見渡すと、桜の木が真っ赤に紅葉していた。向かい側の一際大きい桜の木の下に、携帯用の灰皿を左手に持って、煙草をふかしている男の人がいた。背筋を伸ばして、左足をちょっと前に出した、端正な顔をしたサラリーマン風の男の人だった。物思いにふけっていたスミレは今までその人に気付かなかった。気づいた瞬間、スミレは。素敵な人だと思った。多分、今砂場にいる子どもの母の夫であろうと思った。あんな素晴らしい感じの人を夫に持っている目の前の人は、いいなあと、羨ましくなり、それに比較して独り身の自分が哀れになり、落ち込んでいくのだった。

スミレは、心を奮い立たせるように立ち上がって、家に帰った。コーヒーミルでコナコーヒーの豆を挽き、US製のコーヒーカップにたっぷりとコーヒーを注いで飲んだ。真っ赤に紅葉した桜の木の下で、煙草をくゆらせていた男性のことが気になっていた。
スミレは空想にふけった。
あの人が、もしもあの女の人の夫でないとしたら、何かしらあの人とお話がしてみたいわ。でも、何をお話したらいいんだろう。ゴルフや野球のことは知らないし、男性がどんな話に興味を持つのかもわからないし。編み物や刺繍のことには興味ないだろうし、どうしたらいいんだろう。もしもあの方が優しい人で、あの方が独身で、向こうから声をかけてくださったら、私はあの方と結婚して、穏やかな家庭を築いて、あの方の興味のあるものを、一生懸命勉強するわ。あの方は私にとって白馬の王子様かもしれない。
スミレは、そんなことを思いながら、心も身体もだらりとなって、ソファーにもたれて王子様の到来を夢見ていた。
ああ、いけない。私はどうかしているわ。急にこんなことを考えるなんて・・・。
スミレは立ち上がって、自分だけの夕食の準備に取り掛かった。
スミレはソーセージとベーコンと野菜をたくさん入れて、コンソメスープを作った。出来上がって蓋を開けた時、いい匂いがして、その時ふっとビデオのヒロインの激しい営みのシーンが目に浮かび、スミレは全身が撃たれたようになったのであった。今まですっかり忘れていた快感が全身に流れた。スミレは思わず胸に手を当てた。突然の衝撃が去った時、スミレは顔を赤らめ、あたかも誰かに見られたように、うな垂れるのであった。

翌る月曜日、会社に出た時、スミレはどんな仕事にも張りを感じた。クライアントに注文された名刺やチラシや喪中はがきを校正する時も、浮き立つような気分で軽々とやることが出来た。商店街の組合長がふらっと入って来て、世間話をして煙草を吸っていった時も、ニコニコと愛想を言って応対していた。
真っ赤な桜の木の下に立っていた白馬の王子様が、砂場の女の子の父親ならば、あんなに悠然と離れたところでタバコなど吸わないのじゃないの?母子に近づいて行くはずだと、思うのだった。
何故自分は最後まで見届けて来なかったんだろう?あの時もっとあそこにいれば、父親かどうか分かったのに・・・。今度の日曜日にもう一度行ってみようと思うのだった。
スミレはその一週間、本当に幸せだった。あのお方は、あの親子の父親ではないと段々確信して来るのだった。夜湯船に浸かりながら、空想はますます膨れ上がり、幸せな期待がどんどん大きくなるのだった。スミレはいつもよりずっと長く湯船に浸かって、夢見ているのだった。
湯から上がり、流し場のはめ込みの鏡に全身が映った時、はっと我に返った。ビデオの中の妻の、あの激しい行いを演じていたアメリカの女優の引き締まった裸体の美しさに対して、鏡の中の自分の全身は、四十を前にしてたるみ始めている。こんな肉体を、白馬の王子様の前にさらすことが出来ようか。スミレは恥ずかしくなり、バスタオルで体を隠した。

スミレは美しくなりたいために、ボディローションをほんのりと体につけた。そして腹筋体操をした。頭の中は、桜の紅葉の下の紳士の事で一杯だった。次の日曜日は絶対に公園に行って、彼があの親子の父親であるかどうか確かめようと決心した。
スミレは日曜日を待ちかねて出かけて行った。小学生や乳幼児がたくさん来ていた。スミレは、以前と同じベンチに腰かけて待っていた。彼はなかなか現れない。若いカップルが、バギーから、まだよちよち歩きの女の子を下ろして砂場で遊ばせている。「パパ、お山作ってあげて」とママがパパに呼びかけている。スミレはその光景を羨ましく眺めていた。自分も桜の木の下の君と、甘い蜜のような関係を築きたいと胸を波打たせるのだった。
その時、西の方、ジャングルジムの向こうから彼が歩いてくる姿が見えた。来たっと思った瞬間、心臓が激しく鼓動を打った。思わず立ち上がってしまいそうだったが、踏みとどまった。彼がこちらに近づいてくる姿から目が離せなかったが、見つめていたのではおかしいと思って、携帯を取り出していじっているふりをした。
彼は、ゆっくり歩いて木の下に来ると、先週と同じように煙草を吸い始めた。スミレはメールを打つふりをしながら、ちらりちらりと彼の方を見ていた。彼もこちらの方を見ているらしい。スミレは彼が近づいてきてくれてたらどんなに嬉しいかと思いつつ、携帯をいじり続けていた。
彼は2本目の煙草を吸い終えると、灰皿をパチッと閉めてポケットに入れ、くるりと背を向けて帰り始めた。スミレは又もや立ち上がって付いて行きそうになったが、踏みとどまった。彼の姿が見えなくなるまで見送って、自分も帰り始めた。
彼が帰ったことによって、彼があの人の夫ではなかったのだと解って、スミレは安堵した。前の親子は来ていなかったし、さっさと帰ったということはこの砂場に用はないということなのだ。
スミレは、喜びを抑えられず、一人でワインで祝杯を挙げ、ほんのりと酔いを覚えながら、静かにお湯に浸かるのだった。そして瞼を閉じ、彼にこの瞬間抱かれているような気持になって、空想の中で喜びを抱きしめているのだった。

次の日曜日も、その次の日曜日も、桜の木の下に彼は現れた。スミレは胸をときめかせながら、彼が声をかけてくれないかと待っていた。しかし2回とも煙草を2本吸うと、しばらく砂場を見ていて帰って行った。
三度目の日曜日、スミレは、いつも携帯をいじっているだけでは変に思われないかと、編みかけの毛糸の帽子を持って行ってかぎ針で編んでいた。早、桜の葉は茶色くなって散っているものもあった。季節の移ろいの早いことを感じたスミレは、今日こそは何とかして彼と口をききたいと思う。スミレは編み物から無造作に頭を上げたふりをして彼の方を見、彼と目を合わせた。すかさずスミレはニコッと笑って会釈した。彼も会釈を返してくれた。彼はためらっていた様子であったが、スミレのベンチの方に歩いて来てくれた。スミレは編み物をバッグにしまって、すっと立ち上がって、彼を迎え入れる体制をとった。
「横に座ってもよろしいでしょうか?」と彼は折り目正しく言った。
「どうぞ」
スミレは少し脇に寄って彼の横顔を見つめた。
鼻筋の通った外国人のような横顔だった。
「このところいい天気が続いていますね」と、その人は言った。
「本当に、気持ちのいいお天気ですわね」
「よくお会いしますけど、公園はお好きですか?」
「はい、大好きなのですよ。ここで、のんびりしていると、疲れが取れるような気がします」
「僕も、公園が好きなのです。マンションを借りる時もわざわざ公園の近くを選んだのです」
「まあ」
「実は高校時代サッカーをしていたもので、あそこのネットの中でボールを蹴るんです」
「スポーツマンですのね」
「まあね」
そこでスミレは話の接ぎ穂を見失い、頭が話題を探して空回りしていた。
「さっき、何か編んでいましたけど、編み物がお好きですか?」
「ええ、大好きなんですよ」
そう言った後で、不得意なスポーツも好きだと言わなければ、嫌われるのじゃないかという不安に駆られた。

「サッカーもよくはルールが分からないのですけど、時々テレビで見て面白いなと思うんです」
「ルールはそう難しいものじゃないですよ。今度一緒に試合見に行ったら、教えてあげますが」
「本当?ぜひ試合に誘ってください」
「もうちょっとしたら天皇杯のサッカーの試合がありますので、見に行きますか?」
「うれしい!」とスミレは、大げさに胸に手をあてて、
「是非。お願いいたします」と言った。
「この公園は桜の木が沢山あって、紅葉は格別ですね」
「桜の木は二度楽しめるって言いますものね。春もとてもきれい」
「僕の田舎には、桜並木の土手がありましてね。その下でお弁当を広げて宴会が始まるのでした。子供の頃とても楽しかったです」
「田舎は、どちらですの?」
「福井の、すっと奥です。あなたは、どちらですか?」
「私はずっと東京なんです。実家も目黒です」
「ちゃきちゃきの江戸っ子ですね。といっても山手のお嬢さん」
「いいえ、そんな…」
たわいのない会話だけれど、スミレにとっては頭がぼーっとしてしまうくらいうれしい会話だった。
気が付くと、夕闇は迫っていた。子供の姿は消えていた。
「そろそろ、帰りましょうか。送りますよ」
と言って、彼は立ち上がった。
「いえ、そこですから、あの見えているレンガ色の高いマンションですから、送ってなんか頂かなくても…」
「いえ、そちらに買い物もありますから」
そう言って、彼はスミレと肩を並べて歩き出した。こんな素敵な男性と並んで歩くことなど、ついぞなかった。スミレは全身で喜びを感じるのだった。
エントランスで挨拶して六階の部屋に着いた。全身が宙に浮いたような感覚だった。コーヒーを入れ、夕食を取り、また、風呂の湯の中にどっぷりと浸かって目をつぶり、夢の中で彼を抱きしめるのだった

一度口をきいてから、もう悪びれる風もなく、桜の木の下の彼は、毎日曜日スミレを見つけては、近づいて来た。
一緒に腰かけているスミレが、まだよちよち歩きの赤ちゃんがおもちゃを取り合っているのを見て笑ったりすると、
「子供さんがお好きなのですね」
とスミレの顔を覗き込むようにして言った。
「ええ可愛いですもの」とスミレは言った。
「そうですか」
と、彼は言ったまま、自分はどうなのか何も言わない。
「あなたは、お子さんがお好き?」
とスミレは聞いた。
「ええ」
と、彼は言った。
「ところで、今度の日曜日、サッカーのすごい試合があるので行きますか?チケットは2枚手に入れてあります」
「えっ!こんなに早く実現するのですか?ぜひぜひ連れて行ってください。夢みたいだわ」
「FIFA クラブワールドカップと言いましてね、決勝戦なんです」
「まあ、決勝戦?すごいわね」
「次の日曜日には、3時にここでお会いしましょう。早い目に二人で夕食を取ってから観戦しましょう」
「ええ、お願いいたします。試合はどこであるのですか?」
「横浜国際総合競技場です。日産スタジアムとも言いますが」
「ああ、あそこなんですね。一度も行ったことがないので、案内してください」
「勿論ですとも。温かくしてらっしゃい、冷えますから」
「はい」
「では、約束成立。握手しましょう!」
スミレの左側に座っている彼は、目の前に右手を差し伸べた。スミレはちょっと横向きになって、彼の掌をしっかりと握った。
骨ばった大きな手に握りしめられたスミレは、体の中から熱いものが燃え上がってくるのを感じた。熱いものは頭を麻痺させ、頬を紅潮させた。放心したスミレは、うるんだ目で彼をしっかりと見上げていた。



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