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『スミレの場合は』1~5


冬の暖かい日だった。スミレは、美容院の帰り、公園を通り抜けて帰ろうとしていた。そのスミレの目の前に、ウルトラマンの絵を描いたゴムボールが転がってきた。見ると、よちよち歩きの男の子が、ボールを追いかけて、おむつをした大きいお尻を振りながら、スミレの方に向かって来るのだった。スミレはボールを拾い上げて、腰を落として「はいどうぞ」と、男の子に手渡した。男の子は、両手を出してシュッと受け取り、くるりと体を回して後ろにいる母親にボールを投げた。子供の手は、頭に届くか届かないかの短い手だった。ボールはストンと目の前に落ちて、母親には届かなかった。母親は走り寄って行って、ボールを拾い、男の子に向かって、ポンと投げた。男の子は小さい手で受け取ろうとしたが、ストンと落とした。
可愛いなあとスミレは思う。母親の方を見ると、まだはたちになったかならないかの若いお母さんである。お化粧気もなくジーパンとダウンジャケットとスニーカーという今時の若い子のラフな格好だった。お洒落気は全然なかった。
スミレは何となく、そばの空いていたベンチに座り込んだ。

さっきの男の子は、ボール遊びに飽きたのか、ボールをほったらかしにして砂場の方によちよちと歩いて行った。母親はボールを拾って、男の子を追いかけている。砂場の中には、何組もの親子が、熱心に山を作ったり穴を掘ったりしている。日曜日のこととて、父親と子供が遊んでいるのも、見受けられた。たまに、おじいちゃんやおばあちゃんが連れて来ているのもあったが、殆どが若い母親だった。
スミレは、若い母親が化粧もせずお洒落もせず、顔色が悪く見えるのも平気で、子供に打ち込んでいる姿を見て、あの人たちは幸せなんだなあと思ってしまう。伴侶もなく、子供もいない自分と比べて、なりふり構わず、夫の給料でやりくりして贅沢な格好は出来ないが、若い夫もそれに満足して仲の良い家庭を築いているのだろうと想像して、羨ましくなってくるのだった。
ベンチに腰掛けて、伴侶が欲しい、子供が欲しいと、スミレは強烈に思うのだった。

スミレの夫は、スミレが二十九歳の時、胃癌で亡くなってしまった。三十七歳の若い死だった。それから十年、スミレは近所の小さい印刷屋に雇われて働いていた。社長さんは年取った女性だし、前からいたベテランの従業員のおばさんは、ずっと一人を通してきたので、スミレが一人でいるのに何の同情もなかった。山歩きとか、マラソンなんかが出来たら、男性に出会う機会もあっただろうに、スミレは編み物をしたり、刺繍をしたりするのが好きで、女ばかりのサークルで時間を過ごしていた。心の奥底では、独身の男性と出会ってもう一度結婚したいと、ずうっと思っていたのに、出会いがなかった。
ボールを拾ってあげた男の子は、砂場によちよちと行って、女の子の遊んでいるバケツを取ろうとした。女の子は、自分の方にバケツを引っ張った。男の子はびっくりしたように、呆然と立っている。その姿が可愛かった。母親たちはそれぞれ自分の子供の味方をしているように見えた。スミレは自分の年の半分ぐらいの子が、早母親になって子供を育ていると思うと、自分も子供が欲しいと心の奥底から思うのだった。

もう、自分は三十九歳だ。この十年間何をしていたのだろう。最初の三年間は夫の両親が持っていた離れに、そのまま住んでいたが、義弟が結婚することになって、子供のなかったスミレは義弟に家を明け渡した。そして実家に身を寄せ、結婚するまで使っていた自分の部屋に住んで、会社に通うかたわら、父の面倒をみていた。父、兄、兄嫁、甥、自分の五人家族だった。最初は、暖かく迎え入れてくれたのだが、次第に兄嫁とぎくしゃくしだした。兄が兄嫁をかばって、兄嫁にご機嫌を取っている様子を見て、自分は邪魔者だと悟った。
スミレは、家を出、会社の近くにマンションを借りて、一人で住み始めた。
夫の実家の離れに住んでいた時は、夫の両親がスミレを気の毒がって、食事に呼んでくれたり、家族旅行に誘ってくれたり、お正月やクリスマスは必ずみんなで祝って、プレゼントをくれたり、娘のいない両親だったので、実の娘のように可愛がってくれた。だから、孤独感を味わわなくて済んだ。スミレは気づいていなかったが、多分両親は、このままでは、スミレの再婚を妨げると、弟が結婚するのを機に、スミレが出て行くように仕向けたのに違いない。小さいマンションならこのお金で買えるからと、両親がお金をくれたのに、スミレは実家に帰っていた。

実家を出てマンションで一人暮らしを始めた当座は、寂しさを感じていた。会社から帰って来ても、ものを言う相手がいなかった。黙って食事をし、後片付けをし、テレビを見て、お風呂に入って寝るだけだった。夕食後、しばらく話をする一家団欒というものを、懐かしく思っていた。しかしその寂しさには段々と慣れて来た。その代わり伴侶のいない寂しさが頭をもたげて来たのだった。
ある日。アメリカ映画のビデオを借りて来て見ているときだった。映画の中で、ヒロインの夫が会社からロンドンに派遣され、ひと月を仕事で費やして帰って来た時、夫に再会した妻は夫を抱きしめ、ベッドに導き、激しく夫と交わるのだった。そのシーンを見た時、スミレは子宮がキュッと痙攣して痛むのを感じた。今まで、淡々としていたスミレだったが、その時から、空閨を守る淋しさを、ひしひしと感じるようになっていた。
それでもスミレは、自分から相手を探す行動力がなかった。この状態から、誰かが引っ張り出してくれないかと待っているばかりだった。会社に、チラシの印刷を頼みに来るドラッグストアの店長が、外見もよく頭もよく切れる人だったので、スミレは密かに好意を持っていた。しかしその人はすでに結婚しているという噂だった。
兄が一度だけ、会社関係の妻と死別した人の後妻にどうかと言ってくれたが、小学校3年生の女の子と、5年生の男の子がいる人だったので断っていた。
スミレは公園のベンチに腰掛け、優しく助け合って生きていける伴侶が欲しい、ちゃんと結婚して子供も産み、静かに年取るまで仲良く暮らせる家庭を持ちたいと思うのだった。

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