桑原 茂治氏 〜全盲からの立ち上がり方〜
前期高齢者に差し掛かる年齢となった桑原さんは、会計事務所で働いて29年めを迎えた。若い頃から視力が悪く、42歳で失明。失明後は鬱状態になり、ひきこもりになった時期もあった。しかし、仕事や家族のためにも可能な限りは自立しなくてはならないと思うようになり、白杖を持って歩き出した。恐る恐る歩みを進めていくと、心無い人の言動・行為によりイヤな経験もしたが、新たな生き甲斐であるキックボクシングと出会った。障がいや年齢に屈することなく自分の足で歩んできたからこそ出会えたキックボクシングの魅力とそれまでの道のりについて語っていただいた。
見えない世界へ
20代の頃から「夜盲症」により暗い場所・時間帯になると視界が見えにくかったです。30代になると「網膜色素変性症」との診断を受け、視力がどんどん低下していきました。
当時から会計の仕事をしていたのですが、視力が悪くなっていくにつれて仕事の書類を読みづらくなっていきました。拡大モニターに映して読むようにしていましたが、仕事の効率も下がって苛立ちも募りました。
それでも、これ以上悪くなることはないだろうと勝手に思い込んでいたのですが、42歳のときに失明し、「全盲」となったのです。
「根拠はありませんでしたが、なんだかんだ失明まではしないだろう」と信じていましたし、視力がゼロになる覚悟なんてできていなかったので心底ショックでした。失明後は鬱状態になってしまい、しばらくの間は不安で眠ることもできない日々を過ごすこととなりました。一人では病院にも行けませんでしたし、精神科を受診する気力すらありませんでした。
そのような状態でしたので仕事に手がつくはずもなく、何もできなくなってしまったのです。まさに行く先がまったく見えなくなり、真っ暗闇の状態でした。
見えずとも歩むしかない
全盲になった直後は、自分自身だけでは仕事をできなくなってしまったので人に任せるようにしていました。しかし、会社のスタッフたちは私の目が見えないことを逆手に取った行動をするようになったのです。会社のお金をネコババされたり、会社の事務所を勝手に宗教の連絡所にされてしまうといった事態となり、人を頼ることすらできなくなりました。このことにより会社内はメチャクチャな状態になってしまったのです。
また、全盲になって以来、母親が同居してくれて身の回りのことをしてくれたのはありがたかったのですが、心配のあまりに何にでも過剰に口出しをしてきました。このことで私自身がノイローゼのような状態に陥ってしまったのです。
なので、「会社を正常な状態に戻す」「母親に心配をかけないために可能な限り自立する」ということを目標として掲げ、仕事および社会復帰しようと奮起しました。
「自分でやるしかない」という気持ちが起点となった訳ですが、いざ行動に移すとなると「自分でやらなくてはいけない」という圧により恐怖で押しつぶされそうになりました。
また、当初は目が見えないということに劣等感を感じてしまい、外に出る気力を無くしそうになったことも多々ありました。それでも前に進むしかないので、白杖を持って一歩ずつ歩み出しました。
本当にコワいのは・・・
自宅から職場までの歩き慣れていた道のりとはいえ、視覚情報を遮断された状態で探り探り歩くのは、大変な不安とストレスに襲われました。
また、視覚障がい者にとっては、気を付けるといっても限界があるものです。点字ブロック上に自転車が駐輪してあったり、いつも通るルート上に障害物があるだけでも場所やルートを認識できなくなって迷ってしまいます。
しかし、そのように歩いていて本当にコワかったのは、目が見えないことではなく心無い人による言葉や行為でした。
ある日、道を歩いていて人にぶつかってしまったとき、「チェッ!!」と、私に聞こえるくらいの大きな舌打ちをされたことがありました。「見えないのだから少しくらい配慮してくれても良いじゃないか・・・」という気持ちも芽生えましたが、その人にも考えや心情があるのだから仕方ないと思い直し、辛い気持ちを押し殺しました。
また、あるときは、接触してしまった相手に蹴られたこともありました。いくらぶつかってしまったとはいえ、そのような暴力的な振る舞いは許されないはずですが、視覚障がい者の私には、追いかけることや捕まえることなんてできません。よって、一方的にイヤな思いをさせられたままになることも多いです。
そのようなことがある度に悲しい気持ちになっていました。ぶつかってしまった人には大変申し訳なかったのですが、私が仕事復帰するためにはこの方法で歩くしかなかったのです。
そうして衝突や転倒を繰り返しながら歩いていくうちに恐怖心も和らいでいき、外を歩くことにはしだいに慣れていきました。心無いことを言われるとイヤな気持ちになるのは変わりませんが、「気にしても仕方がない」「自分の意に沿わないことがあっても、人には人の考えがある」と考えるようになるのと同時に、ストレスへの耐性も上がっていったかと思います。
振り返ってみれば、私自身が目の見えていた時期に周囲の人達に対して配慮をできていたかと問われたら、自己都合を優先していたかと思います。自分もできていなかったのですから、人様にばかり求めてはいけないのでしょうね。
なので、当事者がいくら必死に藻掻き苦しんでいても非当事者からしたら所詮他人事としか思えないのは、ある意味当然のことなのかもしれませんね。
障がいを完全に受容することなんてあり得るのか?
紆余曲折ありましたが、障がいを受容して前向きな考えをできるようになるまでに約5年の時間を要しました。一口に「障がい受容」と言っても、完全なる受容という訳ではありせん。全盲になった現在でも「目が見えたら良いな」という思いがよぎることはあります。私にとっての受容は、理想を描きつつもしっかりと現実を見つめながら歩み続けることで実現できるのかもしれません。
そうして壁にぶち当たりながらも一歩ずつ歩みを進め、自分でできることはなるべく自分で行うようにしていきました。書類やパソコンの内容を音声で読み上げてくれる機能を取り入れたことにより、目が見えなくても耳で聴くことで仕事をできるようになりました。また、現代では、手書きの書類さえも音声で読み上げる機能もあります。
会計事務所の仕事もあらゆる手段・方法を用いて工夫すれば、山積みの業務にも対応することができました。
人に任せていると不安だったことを自分でやるようになったことにより、精神状態も少しずつ安定していきました。
生活サイクルとしては、ほぼ毎日自宅と職場の同じルートを行き来していましたので、見えなくても安全に過ごすことはできていました。そのような生活に安心感を得ながらも、同じルーティンばかりを過ごす日々に何とも言えぬ物足りなさを感じるようにもなっていきました。
それに、あらゆる近代科学を用いても解決できないこともありました。相手の細やかな表情や物体の色等の認識、危険への察知・・・さまざまな制限や能力的問題がある中で生きていくのは、満たされていない気持ちを募らせました。
目が見えなくてもある程度のことはできますが、「今までに経験したことのない新しい世界を望むことまではできないのだな」と諦めのような感情を抱き、希望を失いかけそうになっていた時期もありました。
スポーツとリハビリの相違
視覚障がい以外の身体機能は健康だった私にとっての新たな夢は、「見えない状態でも自由に動くこと」でした。しかし、自分の動く空間の中に障害物があると衝突や転倒の危険が生じますので自由に動くことは不可能かと思っていました。
ある視覚障がい者のかたが、スポーツクラブに通おうとしたら「障がいを抱えている人への指導をできるスタッフがいない」「当ジムは、健常者向けの施設です」といった理由により入会を断られたという話を聞いたことがありました。なので、そうしたスポーツクラブに通うことを諦めていました。世の中には、パラスポーツやブラインド競技などもありますが、どこにでもある訳ではありません。よって、障がい者がスポーツをするためには、場所や時間等に制限が生じてしまうものです。
また、障がい者が運動をするとなると、どうしてもリハビリ的要素が強くなってしまいます。両方とも身体を動かすことに違いはありませんが、リハビリとなると身体機能向上を目的とした機能訓練になりますので、スポーツ的要素は低くなります。よって、スポーツで得られるほどの爽快感までは味わえないかと思います。
そうしたことを考えるたびに、「もっと自由に動きたい」という思いが強まっていきました。
夢に描いていた新しい世界へのいざない
自由に動くことへの憧れを抱きつつスポーツをすることを諦めかけていたある日、いつものように恵比寿駅近くを歩いていたらキックボクシングジムを経営している新田明臣さんに出会いました。新田さんは、白杖を持って歩いている私の存在に気付いて一緒に歩いてくれたのです。
私は1人で歩くこともできましたが、新田さんのような屈強な人に介助してもらえると、より安心感を持って歩くことができました。
すると、新田さんは、「キックボクシングをやってみませんか?」と声をかけてくださったのです。ジムに通うことなど諦めかけていた私にとって、意外過ぎるお誘いでした。
「目の見えない私が、キックボクシングのような激しい運動ができるのだろうか?」という不安もよぎり、しばらく悩みました。
しかし、障がいを有している私に対しても屈託なく接してくれる新田さんの人柄を信じて、65歳になった誕生日の翌日に入会しました。
いざジムに通ってみると、ハンディのある私にもできるように指導してくださったお陰で、まるで解き放たれたように動くことができました。練習を重ねていくうちに、それなりにパンチやキックを打ち込むことができるようにもなっていき、自分の眠っていた能力に驚いたほどです。このことは自分自身でも驚きであり、もう自由に動けないと決めつけていた自分自身の思いを良い意味で覆してくれました。
自分自身で不可能だと決めつけていただけで、視覚障がい者であり高齢に差し掛かっている私でも新しい世界の中で自由に動き回ることもできるのです。
これは、新田さんが、ありのままの私を見てくれた上で、「私にもキックボクシングの動きができる」「自分(新田さん)だったらキックを指導できる」と考えてくれたおかげです。当事者の私ですら不可能だと諦めかけていた可能性を信じ、眠っていた能力を引き出してくれたことに心から感謝しております。
ある人にとっては当たり前のことが、他の誰かには特別ということは多々あるでしょう。今の私にとっては、目が見えることは特別なことです。しかし、キックボクシングの動きのトレーニングをできたことによって、なくしたものを求めるのではなく、与えられているものも十分にあったことに気付かされました。その気付きにより心も解放された気分でした。
そして、あらゆる概念は、捉われることでも守るものでもなく、何度でも新しくつくり出すことができるということも学ばせていただきました。このことは世の中におけるすべてのことに通ずるでしょう。
都会の狭間に息づくたしかな優しさ
毎日通い慣れた職場の最寄り駅である恵比寿近くの雑踏の中にいると、速足で改札口へ向かう足音や周囲への配慮を欠いて騒ぐ者たちの大きな声、それらにかき消されそうに鳴り響く音響式信号の誘導音・・・多くの人々が行き交う大都会であるにも関わらず、どこか無機質で冷淡な空気が流れているような気になることがあります。
そのような中を歩んでいると、救いの声をかけてくださる人の優しさを一層温かく感じたりします。私が新田さんと出会えたように、冷たそうな世の中にも確かに血の通った優しさだって息づいているのです。本来なら熱は伝導するはずですが、無関心な姿勢をとっていると、そうした温かさまでも閉ざしてしまいかねません。
誰しも辛いことや悲しい出来事に遭うこともあるでしょう・・・そのような時、絶望するなとは言いませんが、希望も持ち続けることが大切であると感じております。
高齢障がい者である私がキックボクシングのトレーニングをできたように、不可能だと思っていたことだって実現できる素晴らしき世界に生きているのですから。