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オレにとってのお笑い

(2011年にmixiの日記に書いたのをこちらに引越ししました。)

昔からテレビが大好きでした。で、お笑いも大好きでした。

なので「テレビのお笑い」はとても大好きなはずなのですが、最近、特に今年の年末年始のテレビを見ていて、なんかとても空しい気分になって、「そもそも自分にとってのお笑いってなんだろう」というようなことをちまちまとメモしてまして、いずれ構成をちゃんとして、どこかにアップしようかと思っていたのですが、書いているうちにどんどん取り留めがなくなって来たので、そのまま日記に上げて一旦自分的に区切ることにしました。

ということで、無駄に長いですが、お暇なときにでも眺めて頂ければ幸いです。

※以下は全て飽くまでオレ個人の感想と感覚に基づき、記載しています。

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【作りこんだコントの世界】
・ドリフターズ(◎8時だよ!全員集合、◎ドリフ大爆笑)☆第1の波
・コント55号
→「お笑い」との遭遇

・生放送を前提にカッチリ作りこんだコント。故にたまに起こるハプニングがさらに笑いを誘った。

【素人いじり】
欽ちゃん(◎欽ちゃんのどーんとやってみよう、◎スター誕生)

・今の概念でいう「天然ボケ」(例:気仙沼ちゃん)を転がすことでの笑いを構築。
※いじる対象がプロのボケ(二郎さん)から素人のボケに移行。これ以降欽ちゃんはこのスタイルに固執していく。

【関西ノリの伝統芸】
◎ヤング・オー・オー/モーレツ!!しごき教室(当時の吉本若手芸人)
・いわゆる「コテコテ」との遭遇
・芸人がゲームに興じ、失敗するとバツゲーム、というスタイルの原点。

【漫才ブーム】☆第2の波
◎笑ってる場合ですよ
◎THE MANZAI
・お笑いタレントがアイドル並みにもてはやされる現象のはしり。(お笑いタレントのアイドル化第1段階)
→「オレたちひょうきん族」への布石となる。
◎お笑いスター誕生
→とんねるずとの遭遇。

【お笑い素人の活用:欽ちゃん黄金期】☆第3の波
◎欽ドンよい子悪い子普通の子
◎欽ちゃんのどこまでやるの?(欽どこ)
◎週刊欽曜日
・芸能人のお笑い素人を使ってコントをやる。のちのCHA-CHAや欽ちゃん劇場につながる流れ。
→方向性は素人天然いじりの延長でありながら、依然「作りこみ」は捨てない欽ちゃん

【子供を相手にしないお笑いの流れ】
タモリ(◎今夜は最高)
→その後「笑っていいとも」により、存在認識自体が一般化するも、笑いに対する基本的なスタンスがこの時代から今までほとんど変わっていない稀有な存在。

【芸人同士のアドリブの応酬へ】
◎オレたちひょうきん族☆第4の波
・漫才コンビやトリオが解体され、ピン芸人(明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子など)とあいまってお笑いセッションの状態。
→コンビ間、トリオ内淘汰がなされ、ビートたけし、島田紳助、島崎俊郎、西川のりお、ぼんちおさむがピンとして評価される。(逆にその相方達は自然消滅)
・カッチリ作りこんでいたコントの時代には、偶発的なスパイスに過ぎなかったハプニングをむしろ前面に押し出す。
→ハプニングの置きやすい状況セッティングと、その場のなりゆき重視の番組作り。
・スタッフを意図的に演者として使っていく。(ひょうきんディレクターズ)
→内輪ウケ、楽屋オチの範囲拡大(≒フジテレビバラエティの基本姿勢)

・作りこみコント番組の凋落
→「8時だよ!全員集合」終了。欽ちゃんの衰退。

※ここがテレビにおけるお笑いの「終わりの始まり」と個人的には見える。

【「素人」の成り上がり】
とんねるず(◎とんねるずのみなさんのおかげです)☆第5の波
・全てが「学生ノリ」
→芸能界における「一コ上」「ニコ下」といった学年差概念の導入と浸透。
・スタッフ巻き込み形の進化・深化

→プロデューサーやディレクター、マネージャーが完全にキャラ化。
・演者の力量に完全に依存したコント
→作りの粗い脚本を演者が力でねじ伏せる。(アドリブ前提)
・「生でだらだらやらせて」という番組名に象徴される内容。
→芸能人がスポーツや遊びに興じている姿をただ映すことを番組としてしまう。
→ナンシー関女史は「堕落」とバッサリ批判。
→最終的には生放送ですらなくなる。

【作りこみ派の踏ん張り】
◎カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ(加藤茶+志村けん)
・テレビで「作りこんだコント」をやる事自体が難しくなってきている時代(主流が完全に変わった)に敢えてそれに挑んだ。
→しかし、皮肉にもこの番組で一番人気になったのは視聴者投稿ビデオの紹介コーナー。結果、志村けんはその後「だいじょうぶだぁ」で再度作りこんだコントへの道を進む。

・裏番組「オレたちひょうきん族」の終焉
→ビートたけし、島田紳助はテレビでのお笑いにほぼ見切りをつけ、たけしは「映画監督、北野武」に、紳助は「司会者、島田紳助」にそれぞれ重点をおいていく。

→たけし、紳助を除くコンビ芸人がこの時点で磨り減っていたにも関わらず、ピン芸人は無傷。

→明石家さんまはここからさらに絶頂、片岡鶴太郎、山田邦子は増長(勘違い)の末、衰退。

【「ひょうきん」後の世代交代】
ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、B-21スペシャルなど。
・「お笑い第3世代」としてそれぞれアイドル的な人気を獲得。(お笑いタレントのアイドル化第2段階)
→しかし「笑い」の能力としては、ダウンタウンがずば抜けて突出。突出しすぎて最初はあまり理解されなかった。
◎夢で逢えたら
(ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコ)
→若手芸人を複数組ませてコントをやらせる番組の雛形となる。
(とぶくすり、めちゃ2もてたい、めちゃ2イケてる、はねるのとびら)

【作りこみ派復興の予感】
◎志村けんのだいじょうぶだぁ
・基本はドリフ時代と変わらず、くだらないことを真剣にやっている。
→既にバラエティの趨勢になりつつあったフリートークに逃げずに、ストイックにコントを作り続ける。

【ダウンタウン、そしてウッチャンナンチャン】
ダウンタウンのガキの使いやあれへんで!
・実践としてのアドリブ漫才(即興)
◎ダウンタウンのごっつええ感じ
・作りこんだコント(奇しくも志村けんと同じ方向性)
→大阪時代の自分達のブレーンや後輩を引き上げて使う
(ヒップホップの世界でいうところの「フックアップ」)
・各種ゲームコーナー(ルーツはかつての「モーレツ!!しごき教室」)
→「脱・大阪」「親・大阪」のバランスの絶妙
◎ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!(やるならやらねば!)
・やはり作りこんだコント
→ダウンタウンとの同期意識もありながら、二人の原点が劇団にあるというところで出てくる笑いの違い(極限まで遡るとチャップリンから始まるような流れに自分たちも位置したい、というような意識)

※このあたりでお笑いを「生涯の道」とする人間と、「通過点」としている人間のスタンスの違いが実際に出てくる「笑い」の違いとして明確に見えてくる。

【ダウンタウン、ウッチャンナンチャン以降】
◎吉本印天然素材(ナインティナイン、雨上がり決死隊、チュパチャップス、FUJIWARA、バッファロー吾郎)
→ナインティナインが先行して出世するが、バラエティ番組の後のユーティリティープレーヤーを多く輩出。

【ネタをしない芸人】
◎タモリのボキャブラ天国
・ボキャブラ芸人(爆笑問題、ネプチューン、海砂利水魚、TAKE2、Uターン、BOOMER)
→爆笑問題以外でネタをまともに見たことのある芸人がいない。にも関わらずアイドル並の人気に。(お笑いタレントのアイドル化第3段階)

【そしてお笑いから「ネタ」が消える】
→お笑い芸人はたくさんいるのに、ネタをやる番組がまったくない。
→たけし、志村けん、ダウンタウン、みんなもうテレビでネタやコントはやらない。(ある種「隠居」)

※一旦テレビでのお笑いは「死んだ」のかも知れない。

【「バラエティ番組」という名のバケモノ】
・芸能人総お笑い化現象
→あらゆるジャンルの芸能人が混然となって、場を盛り上げる役割を要求される。
→積極的に「お笑い」をやりたがる「非お笑い」芸能人の進出
◎踊る!さんま御殿
・「さんまにいじられる」=「お笑いOK」の図式

・「バラエティ番組」という名の巨大なバケモノに全てが飲み込まれていく。
→お笑いの技術や能力よりも、好感度やメインMCをうまく補佐してそつなく場を埋める立ち回りのうまさが要求される。
→そういうことを専業とする人を「バラエティタレント」と呼ぶ。
→お笑いを目指す若手達が拠って立つ目標を見出しにくい状況。

◎アメトーーク
・バラエティ全盛時代を生き抜く「ひな壇芸人」という概念
→「お笑い」としての矜持は持ちつつ、バラエティの世界を泳ぐ者達の集まり。

【M-1の功罪】
・お笑いにおける「ネタ」の概念の復興
→「エンタの神様」「爆笑オンエアバトル」といったネタ番組の復活に呼応。
・漫才だけでなく、あらゆるスタイルでの「年間王者」を決めるイベントのブーム。
→若手のお笑い芸人たちにとってわかりやすく、目指しやすい目標の誕生。
→既にバラエティ番組で実績をもつ芸人も参加(やはり、何かに渇望していたのか)

・審査基準を曖昧にしたままの大会の継続
→「審査をしているオマエは面白いのか」という根本的な問題
→審査対象は漫才の技術なのか、笑いの量なのか。
→「観客に審査させるのはありえない」という松本人志の言。気持ちはわかるが、でも大衆を相手にしている以上、最終的にそこに戻さないことにはただの馴れ合いか集団マスターベーションのそしりを免れないのでは。

・M-1とて、結局は「バラエティタレント」製造イベントのひとつ。

※「バケモノ」に飲み込まれる前に、何をすべきか。

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(2014.04.10追記)

【お笑いコンテストの乱立】
・テレビ局同士のイベント合戦化
◎R1ぐらんぷり、キング・オブ・コント 、THE MANZAI
→M-1の時には少なからずあった「優勝者のステータス感」がどんどん薄れていく。
→テレビ局が自ら「テレビのお笑い」を食い散らかし、殺していく構図。
→M-1も終焉

【松本人志の「揺さぶり」】
◎人志松本のすべらない話
・お笑いの基本を「ピンでの話芸」に見る。
→「すべて実話である」というのはどうでもよく、嘘だろうが作りだろうが、いかにもっともらしく話を展開し笑いが取れるか。
→出演者の異常な緊張。お笑い芸人の実力の査定場所となる。
(千原ジュニア、宮川大輔、ケンドー・コバヤシ、ほっしゃん。、兵動大樹、小藪一豊)

→フジテレビがはしゃいで妙に大仰なイベント化、回を重ねる毎に出演者人材を水増し。やがて互助会化。

◎IPPONグランプリ
・お笑いの基本を「大喜利」に見る。
→お笑いコンテストの体を取っているものの、全く異質。
→大喜利の答えが笑えるか笑えないかはお笑い芸人にとっては強烈なリトマス試験紙。
(バカリズム、設楽統、又吉直樹)
→かつては松本が「一人ごっつ」で自らに課していた。

→やはりフジテレビがはしゃいで妙に大仰なイベント化、回を重ねる毎に出演者人材を水増し。やがて互助会化。

※松本人志が「ピンでの話芸」と「大喜利」にスポットを当てたことの意味=「落語」への憧憬
→「落語」というスタイルに日本のお笑いの基本と、ある種の完成形を見ているのでは。

※双方とも、当初の試みは素晴らしいと思うが、もうやめたほうがよい。

【お笑いタレント互助会活動の成れの果て】
・「スベリ芸」という概念
→「面白くない」ことを笑うという矛盾。そのためには「面白くない」ことを掬いとって変換する役割が必要。
→バラエティ上で平準化されたお笑いタレント達が、それぞれに役割を持った集団コントのような空間。
→やっている当人たちは楽しそうだが、カメラの向こうは相当醒めてみているのでは。(少なくともオレはそう)

→とあるお笑いタレントがバラエティでのやり取りについてネット上で「つまらない」と視聴者に批判されたことに対して「その場を知らないお前にはわからない」と発言。
→視聴者に伝わっていないのであればそれで終わり。別にお笑いタレント同士のもたれあいを見たいわけではない。

・有吉弘行という男
→お笑いタレント互助会の一員でありながら、それを俯瞰する視点を持ち、かつ自己批判できる稀有な存在。

【「笑っていいとも」終焉】
・タモリ、さんま、ダウンタウン、ウンナン、とんねるず、爆笑問題、ナイナイが同じステージに立ったことが話題に。
→「同じステージに立った」ことが話題になるのは、いずれかが既に「衰退」してきていること。
(欽ちゃんとさんま、タケシムケンなど)

→あの場にナイナイより若い芸人がいない=ナイナイ以降ある種のエポックメイキングを果たしたお笑い芸人がいない。

※「いいとも」の最終回は図らずも「テレビのお笑い」にいよいよ本当の終焉が近いことを示唆しているのではないか。

【ネットとお笑いの関係性】
芸人が個人としてSNSのアカウントから言葉を発するようになった事で、お笑い芸人に対する新たな評価軸のようなものが形成されるようになる。

・客から直接「面白くない」と言われる芸人達
(品川祐、キングコング西野、ウーマンラッシュアワー村本)
自分の考える「面白」が世の中の太筋にアピール出来ない事をネットで突かれ、それにいちいち反応。
→「文化人」という名の、お笑いに対する敗北宣言
お笑い以外の生業に手を出し、その業界の生ぬるい評価に安住、彼らはもうお笑い芸人としては評価に値しない。
(品川祐は除く、彼はお笑いの場を全く疎かにはしていない)

「そちらで頑張って下さい」

・一方で「強いネット煽り耐性」を持つ芸人
(有吉弘行、南海キャンディーズ山里、ドランクドラゴン鈴木)
→その老獪さ、図太さは徐々に支持を広げ、結果芸人としての一定の地位確立につながる。

・それでも語りたい「芸人」たち
→「ワイドナショー」(芸人が社会問題や芸能問題について語る)
→発言に関するツイートやそれに対するいわゆる「クソリプ」が氾濫
→それに対して他の芸人も巻き込んでかぶせて呟く
→炎上。ここまでが1セット、ここまで辿り着かないと話題にもならない。

・M-1復活後の絶望、テレビとお笑いの断絶
審査員とSNS界隈で見る一般人評価の断絶はもはや絶望的なレベル。優勝しても世間的なステイタスにはならない。(パンクブーブー)
→ネタの鑑賞装置としてのテレビは未だ有効だが、テレビ発信での評判や世論の形成(押し付け)は完全に無効である事が鮮明に。

・コンテンツとしての「日本のお笑い」
YouTubeに(違法に)アップされたかつてのお笑い番組が海外の視聴者たちに楽しまれ、評価される。(風雲たけし城、サイレントライブラリー、笑ってはいけないシリーズ)
→日本のお笑いコンテンツに海外マーケットで十分ニーズがあることを証明。

→この状況を背景として浜ちゃん「黒塗り」問題が国際的に大きく報じられる。国内での常識や身内の悪ふざけへの免罪符や言い訳は海外には無意味で無効。

【「お笑い」VS「ポリコレ」の負け戦】
「お笑い」にとっての生涯の敵であった「世間の常識・モラル」に「ポリコレ」という強力な助っ人登場、勝ち目なし。

※「大衆芸能」における「大衆」の姿がここ20年で大きく変わった。
この変化に気づいて対応できない芸人はもはや世に出してすらもらえない。

・「好感度」と「笑い」を兼ね備えてこその「今」のトップランナー
(サンドイッチマン、博多華丸大吉、バナナマン)
※但し、博多華丸大吉(特に華丸)は「ミソジニー」という爆弾を抱えている節をたまに覗かせることがあり、これに火がついた時に何が起こるか)

・ネタ系YouTuberという存在
→今の小学生達の笑いの中心にいる半素人。影響力は下手な芸人を遥かに凌駕する。彼らが我らの世代にとってのドリフ的役割を担うのか?
→芸人達がテレビを諦め、YouTuberになる

・お笑いの「上がり」の先の変遷
「お笑い」→「俳優」
「お笑い」→「政治家」
「お笑い」→「報道キャスター」
「お笑い」→「映画監督」
「お笑い」→「小説家」
「お笑い」→「陶芸家」
「お笑い」→「絵本作家」
「お笑い」→「アメリカ」?

→「お笑い」の終着は何故「お笑い」ではないのか。