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刹那

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「また会いに来てくださいね」
 ネオン街の少し先、商店街のようにホテルが連なる一帯。その煌びやかな世界の片隅で若い女性の猫なで声が甘く響いた。その女性は先刻ホテルから共に出てきた男性の背中を見送ると、踵を返してこちらに向かってくる。それを確認して車のライトをつけると、彼女はお迎えありがとうございます、と車に乗り込んで微笑んだ。
「いつも凜ちゃんは礼儀正しいね、スタッフの中でも評判だよ」
 彼女――凜ちゃんがきちんと座席に座ったのを確認したあと、アクセルを踏みながらそう言った。すると彼女は照れくさそうに、控えめに笑った。
「そんな、礼儀正しいだなんて。“この業界“の左右も分からないからおとなしくしてるだけですよ」
 茶化しながら謙遜をする彼女が、いちスタッフという立場でありながらも愛らしく思えた。その姿が可愛くて「凜ちゃんは謙虚だからお客さんウケもいいし」とさらに褒めると、「そんなに褒められても出勤回数増えませんからね!」と彼女は冗談めかして頬を膨らませた。
「出勤は出られる時だけでいいよ」
 いくらでも褒められるんだけどなあと思いながらそう言った。最近この業界に入った彼女にこの手の話題を続けるのは酷かもしれない。長年業界に居続けると普通の感覚とはズレてしまうようだ、と少し反省をしつつ話題を逸らした。
「お客さん、どうだった?いい人そうに見えたけど」
 真夜中、車通りの少なくなった交差点の信号は赤を示していた。車が揺れないように気を付けながら、ゆっくりとブレーキをかけた。
「さっきの人ですか?すごくいい人でしたよ!」
 話題を振られるや否や、彼女はぱっと笑顔になった。そんな彼女の笑顔を、信号の赤が照らしていた。彼女の表情を鏡越しで見て、それにつられてこちらも笑顔になる。本当にどこまでもいい子だ。底抜けに明るくて、客に対してもスタッフに対してもまっすぐで。だからこそ、余計なお世話だと分かっているが少しだけ心配になってしまう。こんなにいい子なのに、どうして――、と。
「たくさんお話してくれたし、それがとっても面白くて……そうそう、お菓子もくれたんです!」
 後部座席から、ガサゴソと音がした。そして彼女は少しこちらに身を乗り出し、「これです!」という嬉しそうな声と共にいくつかのコンビニスイーツが入った袋をカバンから取り出して見せてくれた。
「この季節限定スイーツ、大好きなんですよね。貰った瞬間大喜びしちゃいました」
 ピンク色の可愛らしいパッケージを手にとって、彼女は本当にうれしそうに眺めていた。これだけ喜んでくれるならばあげる方も渡し甲斐があるだろうな、と先ほどの客の顔が浮かんだ。
「凜ちゃんに似合うスイーツだね」
 思ったままのことを言うと、「またそうやって!」と彼女は頬を膨らませた。
「褒めてもらえるとモチベーション上がりますけど、まだ褒められ慣れてないんですから……」
 彼女は照れくさそうにそう言いながら、すごすごと後部座席に戻っていく。彼女の一挙一動が初心だと心底思った。そういう態度を取られると、もっと褒めてしまいたくなるのだが。その気持ちをぐっと抑えて「そのうちきっと慣れるよ」と鏡越しに微笑みかけた。
 信号が青に変わった。車を揺らさないように気を付けながら、アクセルを踏んだ。交差点を曲がり、この街の中心を走る大通りに出る。ネオンの看板があちこちでまばゆく光り、夜空を掻き消していた。車が動き出して数十秒、「慣れると言えば」と静かに彼女が口を開いた。
「今日こんな遠くのデリバリー初めてで……」
 疲れの表れている声色で、彼女はそう言った。確かさっきの客で最後ではあったが、彼女は今日仕事を5本受けていたはずだ。仕事に不慣れであれば、なおさらこの本数は肉体的にも精神的にも酷だっただろう。
「今日は凜ちゃん完売だったね。すごく疲れたでしょ、早く帰りたいよね」
 精一杯のねぎらいのつもりで、少し強くアクセルを踏み込んだ。車酔いしてはいけないからと少しゆとりをもって運転していたが、彼女にとって今一番必要なのは休息であろう。何年もこの業界にいるというのに、そんなことにも気が回らなかったという事実に恥ずかしくなった。
「あっ、違うんです、そうじゃなくて!」
 速度を増した車に少し驚いた様子で、今まで聞いたことのない焦ったような声で彼女は否定した。
「近くのホテルでのお仕事ばっかりだったから、こんな遠くにも行くことがあるんだなって、思って……えっと、とりあえず運転、ゆっくりで大丈夫、です」
 しどろもどろになりながらも、彼女はそう言った。「そっか、ごめんね」と自分の早とちりを反省しながら車の速度を元に戻す。すると少し安心した様子で彼女は一つ息をついた。
「確かに疲れてますけど、そうじゃなくて。毎回これくらいの距離を運転しなくちゃならないなんて、お仕事とはいえすごく大変なんだろうなって思って」
 そう言った彼女の言葉に、一瞬思考が止まった。許されるならば振り返って彼女の顔を真正面から見たかったが、当然運転中なのでそれは叶わない。
「もしかして、心配してくれてる?」
 思い上がりであれば先ほどの早とちりよりも数段恥ずかしいので、そう聞いてみた。すると「もしかしなくても」と、少しおかしそうに彼女は笑った。
「免許持ってないのでどれくらい大変とか分からないんですけど。集中力が必要だから疲れるだろうなって思って」
 確かに長時間の運転は疲れるが、自分の疲労と彼女の疲労では比にならないだろう。しなくてはならない仕事内容が全く違うし、自分だったら絶対にできない仕事を彼女はこなしているのだ。今まで何百回とこうして送迎してきたが、労われることなど無かったし、それが当たり前のことすぎて彼女の言葉に耳を疑ってしまった。
「びっくりした、凜ちゃん本当にいい子すぎてむしろ怖いよ」
こうやって和気あいあい談笑できる女の子だってそう多いわけではない。仕事内容が酷なだけあって終始不機嫌な子、八つ当たりする子もかなりいる。それなのに、だ。
「こんなことでいい子って言ってもらえるなんて安上がりすぎますよ」
 そういって笑う彼女は、この仕事とは全く無縁の“普通の女の子”にしか見えなかった。ごく普通の、おしゃれなカフェやアパレルショップにいそうな子に。
「だから、えっと……これあげます」
 彼女はそう言うと、ガサゴソと音をたてて何かを探した。「あったあった」というひとりごとが聞こえたかと思うと、彼女は少し身を乗り出して空いた助手席にひとつ何かを置いた。
「お疲れ様です、ということで」
 助手席にちらりと目線をうつすと、そこにはコンビニスイーツがひとつ置かれていた。それは先ほど彼女が嬉しそうに見せてくれたスイーツと似たパッケージをしていた。
「さっきのと味違いですけど、こっちの味も美味しいので!」
 先程の疲れている様子はどこへやら、とても楽しそうに彼女はそう言った。彼女が楽しそうにしているのは嬉しいが、はいどうぞ、と渡されてはいどうも、とそのまま受け取るわけにはいかない。
「これってさっきの人から貰ったやつでしょ?」
 同じ袋を出していたようだし、客からのプレゼントのひとつだったのだろう。客も彼女に食べてほしいだろうし――と思ってそう問いかけると、間髪開けずに「いいんです!」と彼女は即答した。
「結構頂いたので、もらってくれると私も嬉しいです」
 模範解答のような返事をする彼女に、「気持ちだけで」と言うつもりだった言葉をそのまま嚥下した。スタッフという立場であるというのに、自分も彼女の言動に惑わされている気がして焦りを覚えた。この子は売れるぞ――と、ひっそりと心の中で確信した。
「そっか。じゃあありがたく頂くよ」
 そう返すと、彼女は今までで一番の笑顔を見せてくれた。

*   *   *

 店の事務所で今日の分の精算を済ませた彼女は、「今なら終電に間に合うので」と急ぎ足で駅へと向かっていった。彼女の家は事務所からそう遠くないので、店の車を出せると言ったのだが。
「凜ちゃん、評判凄いよ。次の出勤予定日もほとんど完売だぞ」
 彼女が去った店内で、店長がディスプレイを見ながらそう言った。彼女が入店してから彼女目当ての客が来店するようになり、売り上げは全体的に伸びているようだった。先ほど感じた確信は、どうやら外れていないようだ。店の売り上げを計算しながら、「女神って呼ぶか」などと店長は上機嫌だった。
「調子乗ってないで、客逃がさないように頑張ってくださいね」
 店長にそうくぎを刺すと、はいはい、という生返事に次いで音程の外れた鼻歌を返された。

*    *    *

 太陽が昇り始める、早朝。やっと勤務時間が終わり、同僚たちに「お先に」と一言声をかけて事務所を後にした。――カバンにスイーツが入っているのを、確認してから。
 駅に向かう途中、いつもと同じように軽食を買うためコンビニに入った。おにぎり、サンドイッチ、ミネラルウォーター……毎度代わり映えしないメンツを買い物かごの中に入れてレジに向かった。
 レジにたどり着く直前、ふと足を止めた。レジの正面にある、いつもは見向きもしない棚に目が留まったのだ。
「ピンクのパッケージ……」
 期間限定で、と彼女が嬉しそうに教えてくれたスイーツがそこにはあった。可愛らしいパッケージをみて、すぐさま彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。カバンの中にすでにスイーツはひとつあるのだが、無性にそれを買わずにはいられなかった。
 棚からひとつピンクのパッケージを手に取ってかごに入れ、レジに向かった。


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