未来予知
東
一瞬、全身に焼けるような感覚が走る。
身を包む炎は、やがて部屋を焦がし、家を灰にする。
慌ててコンセントをチェックすると、扇風機のコードが完全に差し込まれておらず、わずかに埃が溜まっていた。フゥっと息を吹きかけながらコードを引き抜き、ティッシュで注意深く拭う。
大袈裟にため息を吐いてから、思い出したように冷房のスイッチを付けた。
季節はとっくに夏。梅雨入りが長引いているとはいえ、いよいよクーラーが活躍する時期だ。
快い冷気の訪れた部屋で、ボクは再びMacBookの画面に注視する。
7月6日月曜日の今日、ディスプレイは7月の株価を日ごとに映し出している。
予測ではなく、確定的な未来として。
株価の落ち込む企業には投資せず、上り調子の株を遠慮なく買っていく。それだけでボクは億万長者だ。
なぜならボクは、未来が見えるから。
経済も火事も見通すことができる。選挙もスポーツも結果はすぐに分かるし、映画や小説などは実際に観るまでもない。宝くじだってお手の物だ。
未来予知。
この力があるおかげで、ボクは学生でありながら大成功を収めている。5つの会社を経営し、数多の大企業の株主を務め、確定的に有望なコンテンツに投資する、一流の実業家。金がありすぎて豊洲のタワーマンションを買って、それでも余るから六本木と赤坂と二子玉川と……とにかく高い土地に別荘を建てまくった。
とにかく大事なのは、ボクが成功者だということだ。
株価の推移に変更がないことを確認し、MacBookをパタリと閉じる。それからクローゼットルームで夏用のカジュアルスーツに着替えた。
今日は午後から予定がある。スペインからスポーツチームの一団が来るので、チームと会食するのだ。メインスポンサーの株主を務める縁である。
着替え終えて、姿見を眺める。夏用ワイシャツに薄手の白いスーツジャケット、セットアップのボトムスも同じく白で、同じく薄い生地である。ゴールドストライプのネクタイには、ラピスラズリで造られたピンが留まっている。右手首にはグランドセイコーの腕時計。
身だしなみが整っているのを確認すると、玄関でヤンコ製のフォーマルシューズを履いて、タワーマンション最上階の部屋を出た。
――まさかこれがとんでもない大冒険の始まりになるなど、思ってもいない。
☆
エントランスを抜けるとタクシーが停まっているので、乗りこんですぐに「銀座」と手短に伝える。一流のドライバーはボクの出で立ちと行き先だけで、なんの目的でどこへ行くのか理解する。そしてボクは一流のタクシーにしか乗らない。ほんとうはリムジンを手配したいが、仕組みがまだよく分からない。
滑らかに進むタクシーに乗りながら、ボクは最新機種のiPhoneを開く。まだ市販される前の、メディアにも公開されていないような代物だ。
時刻は13時をちょっと過ぎた辺り。約束の時刻は13時半。早く出過ぎたらしい。
「ドライバー」
簡潔に呼びかけると、ドライバーがチラリとルームミラー越しに見やる。
「三越の裏で降ろしてくれ」
彼が視線だけで頷いたのを認めて、Spotifyでエドシーランを流した。
銀座の裏路地でタクシーを降りると、表通りとは反対の方へ歩き出す。時刻は13時15分。これからどこかで30分以上時間を潰さねばならない。
手頃なカフェでもないかと道を歩いていると、薄汚れた白い室外機の陰にうずくまっているなにかが見えた。
普通なら気にも留めないが、今は暇である。俗っぽい好奇心にうんざりしながら、また湿っぽい日光にチカチカしながら、近寄って見てみた。
そこには、中学生くらいの少女がジッと身を潜めている。しゃがんだ姿勢で、膝に顔をうずめていて表情は見えないが、平凡な少女だ。少なくとも身なりは人並み以下。安っぽい量販店で買ったような服である。
かくれんぼでもしているのか、馬鹿馬鹿しい。
ボクがさっさと離れようとした、それより先に、
「やめてっ!!」
少女が悲痛に声を荒げた。
思わず目を丸くしていると、少女がボクの顔を見て、カクンと首を傾げた。
「……だれ?」
「こっちのセリフだ」
まだ若い学生だが、成人済み。かたや貧しい(であろう)少女。あまり関わりたくない。
というわけなので、さっさと退散しようと踵を返す。
しかし、
「お兄さんお金持ちなんだね」
背後から声をかけられた。
「まぁな」
ボクはスタスタと歩いたまま答える。
「年収どのくらい?」
「さぁ」
「彼女いる?」
「いらん」
「キスしたことある?」
「まぁな」
「じゃあエッチは?」
「くだらんこと聞くな」
「友達はいないの?」
「ボクと釣り合う人間が……なんで付いて来てんだ?」
気付けば少女が後ろを歩いている。ボクが立ち止まると、彼女も立ち止まる。再び歩き出すと、再び付いて来る。
「いいじゃん」
「ダメだ帰れ」
「帰る場所ない」
思わず顔面に手をやる。これはボクが悪い。完全に地雷を踏んだ。
「それは、すまなかった。じゃあせめて交番にでも連れてってやろう」
少女は首を振った。
「お兄さんと一緒にいさせて」
淡々と述べる彼女の、きょとんと無垢な顔に思わず目を奪われた。
よく見ると、案外可愛らしい顔立ちだ。顔は丸く小さいし、クリリとした目はやや釣り気味で小振りな鼻はスッと通っている。血の気の少ない桃色の唇は定規のように真っ直ぐ……
なにを真面目に女子中学生の観察などやっているんだ、ボクは。
「なにか事情でもあるのか?」
少女はコクリと頷いて。
「命、狙われてる」
答えながら、膨らみの小さい胸を人差し指でトントン叩いた。
「なぜ?」
ボクは尋ねる。冷ややかな態度で、無理やり理性を働かせるように。そうでもしないと平静を保てなかった。
彼女は答える。
「お兄さんは未来が見える。でも私は過去が見える」
だれにも知られていない未来予知のことを見抜かれてしまっては、ひとまず彼女に付き合う他あるまい。
☆
目的地もないまま、銀座の街を少女と歩いている。それも大通りではなく、裏道。
数年ぶりに時間を見るために腕時計に目をやると、13時30分。もはや会食に出るつもりなどないが、それとこれとは話が別である。
ひとまず未来を見ようと意識を集中して、そして、なにも見えない。
なにも見えない。
思わずボクは眉をひそめた。もう一度、慣れ過ぎた要領で未来を見ようとする。しかし普段ならありありと浮かんでくる未来の現実が、いまは一向に訪れなかった。
「どうしたの?」
動揺が表に出ていたのだろうか、少女が尋ねてくる。
「いや、その……過去を見るってどんな感じなんだ?」
ここで未来が見えないなどと言うのは格好がつかないので、咄嗟の出まかせを口にした。質問を質問で返すのは無能の証だが、例外の場合だってある。
「大したことじゃないよ」
少女はサラサラと言った。
「やって見せてくれよ」
「いま?」
「ああ」
「できない」
あっさりと首を振る少女に、思わず面食らいそうになる。
「どうしてだ?」
「お兄さんと一緒にいるから」
「ボクと一緒にいるから……?」
少女はおもむろに頷いた。
「あたしはお兄さんと一緒にいるときは過去が見えなくなっちゃう。お兄さんがあたしといると未来が見えないのと同じ」
「なんでそんなことを」
「あたし研究所にいたの」
少女がポツリと言った。肩くらいの位置にある横顔に目をやったが、彼女はなんてことない表情を浮かべている。消え入りそうな声色だったので、なにかよくない話なのかと思ったが。
「研究所?」
「生体研究所。千葉の奥にあって、人間の研究をいろいろやってた」
「お前はどんな研究を?」
「私は研究される側だった」
「そうか」
そうか、とは言ったものの、本当は分かっていた。
「過去が見える病気も研究所でかかった。病気の人同士が近くにいると、症状が弱くなる」
「病気?」
「うん、ビョーキ。みんな病気って言ってたから」
「そうか。なんていうか、俺は未来が見えるのは病気って言うより、特別な能力だと思っていたから」
「お兄さんのは能力なのかもね」
ボクたちはいつの間にか大通りに出ていて、たくさんの人々が道を行き交っている。
こんなにもたくさんの人がいるのに、未来を知る者は誰もいないし、過去を見ようとはしない。全員が現在しか見ない。見えない。
未来を見ることが病気だとは思えなかったし、過去の見えることが病気だとも思えなかった。
「ねえ、映画観に行こうよ」
「命狙われている割に呑気だな」
「いいじゃんいいじゃん」
「嫌だ。映画はすぐに結末が見えるから観ない」
「私だって、制作過程ぜんぶ見えちゃうよ?」
「じゃあなんで行くんだ」
「2人なら大丈夫じゃん」
「それもそうか」
結局ボクらは映画館へ向かうことにした。
タクシーをつかまえようと車道を眺めると、少女は「歩いて行こうよ」と袖を引く。仕方なく映画館までの道のりを調べようとiPhoneを開くと、なん十件もの着信が入っている。
「やっぱタクシー使うぞ」
電源を切りながら頑なな態度で言う。少女は不満げに声を上げたが、行き先が分からないのだから仕方ない。
「だいたいなんで歩きたがるんだ」
「ジッとしてるの好きじゃない」
「なのに映画なんか観るのか?」
「それはまた違うじゃん」
「命狙われている割に呑気だな」
「お兄さんだって」
「ボクは慣れてるんだ。今頃アディダスのスタッフが血眼になってボクを捜してる」
「どうして?」
答えるより先にタクシーが来たので、手を上げて停めさせる。会食をすっぽかしてることは黙っておくつもりなので、ちょうどいい。
☆
女子中学生と大学生が映画館に行くことがどのくらい不審なことかは分からない。見ようによっては誘拐かもしれないし、見ようによっては兄弟かもしれない。
客観的には、どうやら後者に見えたらしい。ボクの格好のおかげだろう。
派手ではあるが、仕立てのいいスーツである。道行く人が気に掛けてくるようなこともなく、劇場スタッフが訝しむ様子もなかった。
「面白かったね」
映画館を出るなり少女が言う。
ボクは小さく頷いた。本当は叫びたいくらい面白かったが我慢した。
結末の分からない物語があんなにも面白いものだとは。彼女が意味不明なタイトルの意味不明な恋愛映画を指定したときは卒倒しかけたが。
やはり見ないことには分からないものである。
「これからどうするの?」
「これから……」
建物の影に入りながら、考えるようにして黙り込む。
これからどうするか? 帰るに決まっている。帰るに決まっているのだが、中学生女児を連れて家に帰るのはさすがに気が引ける。もちろん法律的な意味で。
かと言って無理矢理警察に引き渡すのも申し訳ないし、少女に身寄りがいるとも思えない。
頼れるあてがいないものかとiPhoneを取り出し、そういえば電源を切っていたんだ、と舌打ちしたそのとき
「おい」
ぶっきらぼうに声を掛けられた。見ると、黒の半袖シャツを着た大男が目の前に立っている。声色同様、険しい顔つきをしている。
だれ、と吐き捨てるように尋ねようとした、それより早く
「やだっ!」
叩き付けるように少女が言った。
男は何を言い返すのだろうと思ったが、口を開かないで代わりに太い腕を少女へ伸ばす。
咄嗟に間に割って入り、男の腕を掴んで勢いを殺さず捻じり上げる。
驚きと痛みの混じった小さい悲鳴を上げて男が片膝を突く、その隙に少女の手を引いてその場を走り去る。
「なにいまの!?」
「護身術くらい習ってる。いいから走るぞ!」
銀座の歩道が比較的広いことに感謝しながら、ボクたちは人目もはばからずに駆ける。
少女がどんな表情を浮かべているのかは分からないが、はっきり言ってそんなことは後回しだ。
タクシーでも見つけられれば楽なのだが、どこにもない。仕方がないので電車を使おうと地下鉄へ向かうが、出入り口に差し掛かったところで少女に袖を引かれた。
どうした、と聞こうとして、すぐに理由が分かった。
サングラスを掛けた別の男が、真っ直ぐこちらに歩いてくる。
慌てて引き返そうとして、しかし後方からは先ほどの大男。完全に挟み撃ちだ。
心臓がバクバクと高鳴る。するとそのとき、
「こんなところでなにやってるんですか!」
背後から声を掛けられた。振り向くより先に肩をグイと引っ張られ、無理やり後ろを向かされる。
声の主はアディダスのスタッフだった。傍らにはスポーツチームの関係者と思しき外国人が複数控えている。
「先方が怒らなかったからいいものを、無断ですっぽかすなんて……」
「あいつらに追われてるんだ」
ボクは咄嗟に左右からやってくる2人の男を指した。
スタッフは彼らの顔を交互に見る。
「なにやったんですか!」
「心当たりはない。だが、財産目当てだとしたら……手伝ってくれるか?」
心の底から困惑している風に(心の底から困惑しているのは事実だ)告げると、スタッフはしばらく唇を噛み締めた。
チラリと少女に視線をやるので、問題になる前に「妹だ」と適当なことをでっち上げる。それで納得したのかどうかは分からないが、結局スタッフは傍らの関係者らに耳打ちした。彼らは了承したように頷くと二手に分かれて詰め寄って行った。
アディダスのスタッフが私に向き直る。
「他には?」
「警備と車を手配できるか?」
簡潔に告げると彼はスマホでどこかに電話する。
付近に停まっていたらしく、1分もしない内にシルバーのクラウンがやって来た。
「年寄りの車だな」
「贅沢言わないでください。ドライバーは一流です」
「なんにせよ助かるよ。警察には俺の方から連絡しておく。奴らの正体が分かったら教えてくれ」
やり取りは手短に、ボクは少女を伴ってクラウンに乗り込んだ。
「横浜まで頼む」
豊洲、と言いかけたが、訂正。ひとまず東京を出ようと思い、別荘のある横浜を選んだ。
白髪の細目なドライバーは「かしこまりました」と一言応じて緩やかに発進する。
車窓からは先ほどの男らとたくさんのスタッフが揉めているのが見えた。怪しい追っ手にも企業スタッフにも増援が来たようで、見るからに現場は騒然としている。
ボクは大きくため息を吐いて、それから傍らの少女に目を向けた。
「あれが命を狙ってるとかいう連中か?」
「うん」
肩を上下させて顔を歪めている少女だが、意外に精神は落ち着いているらしい。
「研究所と関係が?」
「うん。そこの人たち」
「警察は頼れないか?」
「分からない。でも長い間バレなかったみたいだから……」
「そうか」
上手いこと潜伏しているのか、あるいは裏金か。
前者だろう、と僕は予想した。おそらく脱走したに違いない少女を執拗に追っているのは、明るみに出てほしくない何かがあるからだろう。
ならば、出すまで。
「着いたら警察に連絡するぞ」
「うん」
「民間の警備会社と契約してある。どっちにしろ身の安全は大丈夫だ」
横浜までの車内で、ボクたちは他愛もない話をした。ほとんどは緊張を紛らわせるためだったが、顕著な動揺はお互いになかった。
車は緩やかなまま首都高に入り、1時間もしない内に別荘へ着いた。
「ありがとう」
ボクには珍しく礼を言ってから、少女と一緒にクラウンを降りる。
走り去る車の姿を見送り、玄関口へ向かおうとしたそのとき。
カチャリ、
音と共に、後頭部に金属のようなものを突きつけられた。
「……だれだ」
分かりきった質問だ。そんなもの、追っ手に決まっている。
だがどうやって?
「知る必要はない。子供から手を引け」
答えたのは中年くらいの男の声だった。
「どうやってここまで来た」
「知る必要はない」
「いま俺の仲間が手を回してる。お前らのことが世間に晒されるのも時間の問題だぞ」
「お前の脳漿がぶち抜かれるのも時間の問題か?」
「わざわざ罪を増やすのか?」
押し問答を続ける間、打開策はないものかと必死に頭を回し続けた。しかし考えるたびに打開策はひとつしか思いつかない。
もっと悪いことには、たったひとつの打開策が実現しつつあるということだった。
「……もう、いいから」
少女がポツリと言った。
「お、おい」
「いいから」
そう言って、足音がする。隣にいた少女の気配が消える。
後ろで笑みを漏らす声がした。
「賢い判断だ。だが死ね」
え、とボクが振り返るよりも先に乾いた音が鳴って、意識が途切れる。
☆
――そこで現実に戻された。
豊洲のタワーマンションから銀座へ向かうタクシーの中には、ボクのiPhoneから流れるエドシーランが響いており、柔らかいシートはタイヤの動きに合わせて穏やかに揺れていた。
ボクは眠りから覚めたような心地で、いま見ていた長い予知について考え込む。
あの少女にかかわると、ボクは死ぬ。
ならば話は簡単だ。彼女に構わなければいい。
触らぬ神に祟りなし。取り立てて彼女に情があるわけでもないし、特別な怨恨があるわけでもない。そもそもボクは暇じゃない。
タクシーが三越裏に到着すると、ボクは予知とは反対側のドアから降りた。
身体を伸ばしてから、念のため未来を見ようと意識を集中する。たちまち未来の光景が見えてきて、ボクは人知れず安堵の息を吐いた。
現時点での確定的な未来によれば、先ほどの少女は数時間後に日比谷の辺りで男たちに捕まるらしい。手足をジタバタさせる程度の抵抗も虚しく軽バンに押し込まれる。
車がどこへ向かうかまでは分からなかったが、千葉の研究所とやらにでも行くのだろう。
――やれやれ。
ボクは予知の記憶を頼りに彼女が隠れている室外機の方へ向かった。
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