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ループ

                              実瀬 純

 サザエさんの愉快なエンディングが流れるのをじっとりとした目で眺めていると、思わずほのぼのとした音楽をかき消してしまうほどの深い溜息が漏れた。
 深かった。俺のしなびた肺にまだこれだけの空気が残っていたかと思うくらいに続いた息を吐き尽くした頃には、サザエさんはもうパーの札を出して笑っていた。俺は拳を固く握りしめていた。敗けた。
 俺は日曜日を愛している。曜日に色を付けるなら間違いなく黄金色。まさに煌く太陽。命の泉。生命の灯。月曜日は、うん、汚い茶色ってとこだろう。
 そんな日曜日の夕方ほど憂鬱なひと時は無い。なんと皮肉なことか! 十九時を回ったあたりから俺の耳にはの足音が聴こえてくる気がする。お迎えだ。俺は頭を抱えてソファに身を横たえた。
 ああ、今が永遠に続けばいいのに……。

 いつの間にか鳥が囀っていた。俺は何かファンタジクな夢が焼き付いた瞼の裏に月曜の朝日を感じて跳ね起きた。隣人に壁ドンされない程度のボリュームで悲鳴を上げる。貴重な日曜日の午後を惰眠に費やすなんて!
 ベットから這い出しカーテンを開けると、まだ日は上って間もなかった。せめて寝坊していないだけましだと考えるべきか。少し落ち着きを取り戻す。耳に残響していたどこか幻想的な声色が消えていくのが分かった。いったい何の夢を見ていたのか、既に記憶の霧の中へ溶け込んでしまった。俺はデジタル時計を確認する。出社時刻までは余裕があった。
 ふと時計に違和感を覚える。俺は首を傾げ、ベッドに座りなおす。再び違和感。俺ははっと気づいて立ち上がった。そうだ、俺は昨日ソファで寝入ってしまったはずなのだ。それなのについ先ほど俺は、ベッドから起きたではないか。
 俺は当惑を抱えながらデジタル時計を手元に引き寄せた。違和感の正体を探ろうと伸ばした視線は、日付の表示の前で立ち止まった。俺の記憶違いだったか? 今日はまだ八月三日のはずだった。にも関わらずそこに映し出された日付は、十一月の半ばだったのだ。背中に感じた悪寒は秋の底冷えのせいだろうか。俺はいつの間にか長袖に変わっている寝間着の袖をかき合わせた。
 一度落ち着こう。俺は深呼吸した。時計が壊れている可能性もある。俺はきっとソファで眠った後一度起きて、寝ぼけたまま服を着かえたのだ。それから蒲団に入りなおしたに違いない。
 俺は気持ちを落ち着けるためにぐるぐると部屋の中を歩き回った。ふと机に目をやると、見慣れないノートが意味ありげに置かれている。ぱらぱらとめくってみたところ、どうもそれは日記帳のようだった。しかし当然俺に日記をつけた記憶などない。
 一ページ目に遡って文字に目を落とす。俺らしき筆跡で、本来訪れるはずだった八月三日月曜日の日付けが記されている。そこに記された内容からは微かな混乱が窺えた。今の俺と同じように、前日眠りに落ちた状態と朝起きた状態とにずれが生じていると書いてある。過去の俺はその小さな違和感が見過ごせなかったために、ノートに記録を付け始めたのだろう。ページをめくると翌日の日付が残されていて、似たようなことが書いてある。翌日も、その翌日も『気づいたら火曜日になっていた』『水曜日になっていた』『いつの間にか日記帳ができていた』という俺の小さな驚きが日ごとに大きくなって繰り返されるばかりである。
 一体どれくらい日記は続いているのだろう。ノートを再びめくってみたが、最後のページまで記録は続いていた。
『目が覚めたら四ヶ月が経過していた。知らない間に日記までつけられているが、手掛かりになるようなことは何も記されていなかった。正午、病院から連絡があり診察結果を聞きに行った。どうやら一週間前に頭の検査を受けていたみたいだ』
 俺は一週間前の記録を確認した。たしかに病院へ行ってきたと書いてある。再び最終ページに目をやる。
『脳に異常は見つからなかった。この日記の記録と俺の自覚症状を見るに、一日おきに記憶がリセットされる病気か何かではないかと、推察したのだが……』
 俺の嘆きで日記帳は締め括られていた。科学的見地ではお手上げとなると、どうすればいいのだ。自分の置かれている状況が分かってきただけ、良しとするべきか。このページの次の日と考えると、今は四か月経過していることになる……。
 しかし俺はここで首を傾げた。さっき時計で確認した日付は、十一月のはずだった。まだ八月から三ヶ月しか経っていないはずなのだ。
 俺は嫌な予感を覚えて再び部屋の中を見渡した。その目が本棚に惹きつけられる。大量の大学ノートがそこに肩身狭そうに並べられている。俺は手当たり次第にノートを引き抜いて目を通した。
『一応平日なので会社に出社する。事務処理の仕事に配置換えしてもらっていたみたいだが、この状態で職務を続けていくのは不可能だと上司が判断した。課長の勧めにしたがって退職届を提出。これからしばらくは退職金で生活していくほかない』
『買い物に出かける。知らない家がちらほら建っていて時の経過を実感する。いつものスーパーは潰れていた』
『公園でカマキリの卵を発見する。そういえば子供の頃カマキリが好きだった。懐かしいので持ち帰ろうかと思ったが、明日の俺はこいつの存在を忘れるだろうと断念。子供の頃、机の中にカマキリの卵入れて放置していたせいで地獄を見たことを思い出した』
『ついに携帯が寿命を迎える。旧型機種を使い続けていたみたいだが、動かなくなった。新型の機種は使いこなせないだろうし、古い型は製造停止されているだろう。困った……』
 ノートは延々と続いた。一番端に並べられたノートがようやく途中のページで止まっており、一日前の記録だと分かった。日付を確認して膝から崩れ落ちる。既に十年の歳月が経過していたのだ。
 俺は我に返ると洗面所に向かった。鏡で自分の姿を確認する。十年経っている割には特に老けた感じもしない。筋肉が落ちたわけでもなく体型も維持されている。俄かには信じがたかった。
 俺は困惑して部屋に戻る。どうしたものか、ひとまず俺も日記をつけておくか。明日の俺のために……。
 そこで俺ははっと気づいた。今日の記憶が残らないということは、今ここでこうして考えている「俺」の人格はここで消えてしまうということだ。明日にはまた明日の俺がリセットされた状態で目覚める。それはもう別の俺なのだ。
 俺は衝動的にふらふらと外へ向かった。行く当てはなかったが部屋にいても仕方が無かった。せめて十年後の街並みがどうなっているのかこの目に焼き付けて消えたかった。
 ドアを開けると、すぐ外にいた人物にぶつかりかけた。
「ああ、すみません……」
 俺は目を伏せて詫びた。相手は朗らかな調子で返した。
「いや、ちょうど良かった。今チャイムを鳴らすところだったんですよ」
 俺は目を上げた。来客らしい。男なのか女なのかわからない中性的な容姿、いや、それどころか年齢さえうまく想像できない不可思議な雰囲気の人物だった。
「どうもお久しぶりで。いかがでしたかな、その後の経過は」
 口ぶりからして知り合いらしい。しかし当然こちらに見覚えは無い。何しろ昨日までの記憶は流れ去ってしまっているのだ。
「はあ、実は事情がありまして、あなたがどちら様だったか思い出せないのです。信じていただけるか分かりませんが……」
「ああ、そうでしたね。記憶を飛ばしているのだった」
 委細承知していると言いたげな相手の調子に、俺は興味を持った。部屋の中を指さす。
「ちょっと、上がっていきませんか。何か知っているのなら教えていただきたい」
「では、お言葉に甘えて」
 来客を急かすように椅子に座らせ、俺はすぐに切り出した。今はとにかく時間が惜しかった。
「申し訳ないのですが、どうも僕は一日おきに記憶がリセットされているようなのです。既に過去の僕が説明したみたいですが、あなたのことも忘れている次第で」
「いや、かまいませんよ。そもそも私の存在を忘れているのは、またちょっと別の理由からなのです。休暇中にクレームでも入っては面倒だと、私とのやりとりの記憶を消させていただいてましてね」
「と、言うと?」
 いまいち話が見えなかった。俺は先を促すように尋ねた。
「いやなに、我々妖精の社会でも働き方改革が進んでいましてね。一度契約をとったら十年は休めるわけですよ。楽なものです。もっとも、我々にとっての十年というのは、あなた方の感覚で一ヶ月くらいですがね。なにしろこちらは途方もない時間を生きているものですから」
 俺は彼の(あるいは彼女の)話をあっけに取られて聞いていた。いったい何の話をしているんだ?
「おや、うまく呑み込めていないようですね。無理もありません。しかしあなたの身に起こっている事態を考えれば、あながち非現実的なことでもないのでは」
「ということは、あなたは本当に妖精だというのですか? とんだ一日だな。目覚めたと思ったらそこは十年先の未来で、しかも余命は一日の身体になっている。それでお次は妖精と来ましたか。もうとっくに僕の理解力のキャパはオーバーしていますよ」
「あなたも最初にお会いした時はすんなり信じてくれたんですがね。まあその時は突然部屋に出現したこともあって、説得力があったんでしょうが」
 彼は肩をすくめた。改めてみるとどこかこの世のものではない神秘的な気配を漂わせている。俺は生唾を呑んだ。
「わかりました。ひとまずあなたが妖精だとして、僕の身に何が起こったというんですか。事情を知っているのでしょう」
 彼は肯いた。
「十年前、つまりあなたの記憶で昨日の事ですよ。あなたはサザエさんのエンディングを見ながら『今が永遠に続けばいい』と願ったでしょう。その願いを聞きつけて私が現れたのです。自分で言うのもなんですが妖精というのは気まぐれなもので、気が向いた時に人間界にやってきては人の願いを叶えるのですよ。一応ノルマがあるので、サボってもいられないのですが」
「で、たまたま僕の願いが聞き入れられたと」
「そうなりますね。あなたと私は契約を交わし、『今』が永遠に続く魔法をあなたにかけたというわけです。ついでにそのやりとりも記憶から消しておきました」
 そういえば起きた時に夢の名残のようなものを感じたが、今思えばそれが当のやりとりだったのだろう。
「しかしおかしいですね。『今』が永遠に続く魔法でしょう。それでなぜ僕の記憶が毎日リセットされるのです? 日曜日が繰り返されるんじゃないんですか」
「日曜日?」
 妖精は首を傾げ、それから得心がいったと言うように手を打った。
「ああ、あれはそういう意味ですか。いや、私もそそっかしいところがありましてね。お陰でクレームも多いし、こうしてアフターサービスにも参ってるわけですが……」
「どういうことです」
「いえね、簡単なことなんですよ。てっきり私『今』が続くというのは『今』のあなたの状態を保存しておくことだと思っていまして……。毎日あなたの身体が契約直後の状態にリセットされるようにしておいたんですよ。もちろん脳の中身もね」
 妖精は俺の顔に浮かんだ疑問符を読み取って続けた。
「つまり、あなたは毎日記憶を失っているわけではないのです。歳月が流れる中、あなたの肉体だけが八月二日を日々繰り返しているというわけでして。あ、そうなるとリセットという言葉とは少し仕組みが違うかな。生成と消滅を繰り返しているというべきか。しかしどうです、十年経った割に体に変化がないと思いませんでしたか」
 俺はさきほど鏡で確認した自分の姿を思い出した。
「僕の置かれた状況は理解しました。でも、この僕が今日限りの存在だというのは変わらないんでしょう? 明日になれば脳ごと肉体が更新されるわけだから」
「まあ、そうなりますね」
 妖精は肯いた。俺は地団駄を踏んで返した。
「暢気に構えてる場合ですか。どうにかならないのか。俺はまだ生きていたいんだ、消えたくない」
「そう騒がないでください。そのためのアフターサービスです。要はあなたが消えなければいいんですね? それがあなたの願いと受け取ってよろしいですか」
「できるのか」
「これでも妖精の端くれですからね。あなたさえよろしければ、今すぐにでも」
 妖精は力強く言った。
「ああ、ありがたい、すぐ始めてください」
「契約の修正は一度きりですよ。これ以降のクレームは受け付けないルールになっていますからね。ご了解いただけますか」
「もちろんです。さあ、早く……」
 俺は縋りつくようにして頼んだ。それから妖精は小一時間ほど摩訶不思議な盆踊りのような儀式を始め、俺はまるで白昼夢でも見ているかのようなぼんやりとした気持ちでそれを眺めていた。
 気が付くと儀式は終了して妖精は消えていた。特に挨拶もなく胡散霧消した妖精だったが、俺の中には己が今夜は消えないだろうという、確固たる自信が芽生えていた。それは理屈では説明のつけようのない確信だった。
 内側から熱い湯水が湧き出てくるように、喜びと安堵の情が溢れ出した。まだ午後は長かった。俺は今後の生活について考えた。まず世の中に順応して、空白の十年を取り戻さなくてはならない。貯金や退職金だっておそらく底を尽きかけているはずだった。
 俺はすぐに行動を起こした。階下に住んでいる大家に頼み込んで部屋を引き払い、その日のうちに実家へ帰ることを決めた。自らの消滅を免れたという、緊張状態からの解放が俺を大胆にしていたのかもしれない。
 大家には既に過去の俺が事情を話していたのか、俺の突飛な申し出にもすんなり対応してくれた。引っ越し業者は見慣れない機械を使って信じられない速さで部屋を片すと、あっという間に俺の荷物を運び去っていった。
「今の時代は引っ越しもこんなにスピーディーなんですか?」
「そりゃ、十年前に比べたらね。さあ、そろそろ部屋を施錠するからあなたも出ていく準備をしてくれ。あ、一度解約したら部屋は完全にロックされるシステムになっているから、気を付けて。中からも外からも開けられないからね」
 ずいぶん管理の厳しい時代になっているらしい。大家はそれから俺に通信機器を貸してくれた。
「それがないと何かと不便でしょう。通話しか機能のない安物だから貸してあげる。あとで返しに来てくれればいいから」
 それから俺は苦心して世の中の情報を集めた。最初の数日間は二十四時を迎えるたび、消えはしないかとびくびくしていたが、ちゃんと肉体が保存されていることが確認され、すぐに陽気な気持ちを取り戻した。それから実家の家業を手伝いながらなんとか生計を立てる道を模索しだした。両親には俺のここ十年間の状態を脳の病気と説明し、生活の協力を仰いだ。年老いた両親の手を煩わすのは心苦しかった。再び独り立ちできるよう俺はがむしゃらに努力した。
 そんなこんなで数ヶ月が経った。生活も落ち着きだし、新しい働き口の目途も少しずつ見え始めていた頃だった。俺は大家から通信機器を借りっぱなしにしていることを思い出した。そろそろ返しに行った方が良いだろう。実家から前のアパートまで、十年前なら四時間はかかる行程だったが、そこは交通網も発達している。今では二十分とかからない気楽な道のりだった。
「ああ、返しに来ましたか」
 俺が大家の部屋を訪れると、大家は何か思いついた顔をした。
「実は最近空き部屋から物音がするという話を耳にしていてね。あなたの部屋なんだけど。今日ちょうど見に行くつもりだったんだ、あなたも来るといい」
 俺は肯くと、大家に付き従って階段を上っていった。
「防犯は完全なはずですよね」
「そうなんだよ。だから隣の人の勘違いだと思うんだけど」
 大家は部屋の前のパネルを何やら操作して、部屋のロックを解除した。部屋の中を覗き込むなり、俺達は近所中に響き渡る叫び声をあげた。あの妖精野郎、とんだ誤解をしていやがった。俺が「消えない」だけでループは続いていたのだ。
 部屋の中には、数十人を超える「俺」がひしめき合っていた。

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