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ある伯爵の手簡

                             イグチミワ

 とろりと溶かされた赤の蝋に、立派な家紋の印璽が見事だ。この封蝋が施された手紙を受け取ることになろうとは、人生分からないものだと独りごちてみる。この国の者なら誰もが慄く、その家紋を背負いし人が、あの頃の私にはまだあどけない少年に見えた。ふつと湧いた感情のままに振る舞う。この世に生まれ出たときより定められた、その逃れられぬ地位に在ること以外は。今目に映る赤はまるで炎のようで、開けた瞬間に手紙ごと燃え尽きてしまいそうだった。美しくゆらゆらと揺らめいて、触れたら最後、己までも焼き尽くす。彼に似合う色もこんな赤だ。
 自分がこれほどまですべてを捧げたいと乞うたのは、後にも先にも貴方だけ。彼から手紙が届いた時点で、願いは叶わないのだが。選択したのは、他でもない自分だ。結局、私はすべてを捧げることも捨てることもできぬ身なのだと骨の髄まで染み入る。私はペーパーナイフを差し込んで、そっと広げた。


拝啓 リアム殿

 やあ、元気かい。君が私の屋敷から姿を消して、ずいぶんと経つね。庭に植った木々の葉が、もう赤に染まり始めている。それを見ながら、君に愛を込めた手紙をしたためているなんて、我ながらぞっとするね。
 さて、何を書こうかな。何せ私的な手紙なんて初めてだからね。君は本当にずるい男だよ。私の初めてをいくつ奪えば気が済むのかな。ああ、そうだ。君との思い出でも綴ろうか。
 私が君と出会ったのは春だったね。私にヴァイオリンを習わせるために、父上に雇われた家庭教師が君だ。私もヴァイオリンを習うことには賛成だった。正直ピアノは指が足りないよ。何度か指のあいだを開きすぎて痛い目に遭った。見るだけで、もううんざりだね。
 それからしばらくはひどく緊張していたようで、もごもごと話していたから何を言っていたのか覚えていないな。でも君の腕は確かだった。素晴らしい音色だったよ。今でも無性に、君のヴァイオリンだけは聴きたくなる。私は父上にリアムでなくてはだめだと言った。週に一度、君からヴァイオリンを習うのはとても楽しかったよ。気が付けば、私たちの間には身分も年齢も超えた友情が育まれていた。
 ある夏の日を覚えているかな。父上の目を盗んで、木登りをして寝転んだり、木陰でレモネードを飲んだ。あれは楽しかった。婆やには何もかもお見通しだったけれど。確か、絵も描いた。お互いの肖像画だ。君のヴァイオリンはとても素晴らしいのに、絵は見れたものじゃあなかったな。いや、独創的と言うべきか。
 そんなことを言うと、いつも君の耳は赤くなっていた。この部屋の窓から見える葉と同じくらいに、赤かった。その都度、私の掌で優しく冷やしてあげたことを思い出すよ。懐かしいね。今は奥方が、そうして冷やしてくれるのかい?
 今年のものは今まで私が見てきたどの葉より、いちばん綺麗だと思う。今度は君の耳でなく、私の思いの丈に寄り添うように、赤く染まっているよ。君への熱が滲んで、葉を赤に染め上げたのかな。安心してよ。怒ってなんてないから。本当さ。私は媚びるのが苦手でね、手紙でも同じだよ。あのとき、不思議と怒りは湧いてこなかった。ただ、悲しかった。金なんていくらでもくれてやるのにってね。それだけ。
 ねえ、そんなことより、君が消えてから私が誰を雇ったのか気になるかい?自分が消えたあと、誰が私を慰めたのかを想像して、妬いた夜があるかい?...もしも、あったなら。私は嬉しいよ。素直にね。
 まあ、誰も雇ってはいないよ。父上は私を寄宿学校へ編入させる手筈を取った。私を心配してのことだと思うけれど、私より父上の方が君のことで喪心しているみたいでね。家庭教師はもうこりごりみたいだ。私は好きなんだけどね、自分の気持ちに正直な良い子が多いみたいだから。特に、君ほどの良い子は見たことがないよ。
 じゃあね、リアム。またいつか。次に会うときは、互いに天に召されているだろうよ。ああ、君と私は地獄かな。墜ちたなら、共に思い出を語らいながら葡萄酒でも飲もう。きっと楽しいと思うな。あの頃のように。
                        敬具

××伯爵次期当主 アルバート


 ふと部屋の暖炉を見れば、丁度ぱちぱちと音を立てる。指の先を添えれば、身体の芯から心までも暖かく包む。その炎は美しくゆらゆらと揺らめいて、こちらを見ていた。手紙を中へ放り込むと、端から赤く輝きを放ち、最後には黒く縮こまって燃え尽きた。こんなものか、ずいぶんと呆気ない。
 突然、胸にぽかりと穴が空いた、気がした。やられた。笑いが込み上げてくる。最後の最後まで、貴方の勝ちだ。ああ、早く地獄の業火で焼かれたい。今度こそ、私のすべてを貴方に捧げよう。


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