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ワンルーム・ラプソディ

                            秋谷 つばさ

 どこからか、歌が聞こえる。自粛期間というのは本当に暇なもので、大学からの課題もほとんどなく、毎日食っちゃ寝の怠惰な生活を送っている。趣味を探すというのは難しくて、欲しい服も買いに行けないし、遊びに行ったらネットで叩かれそうだから、一日中動画を見たり、インスタやtwitterをずっとスクロールさせたりしていた。一人暮らしだから、誰にも縛られることのない悠々自適な毎日なのはよいのだが、今回ばかりは外食もできないし、仇になったかな、と後悔し始めていた。そんな折、外から聞こえる歌。しかも案外近くから聞こえているようだ。きれいな声だな、と思った。唯一気軽に出られる外であるベランダに出た。
「…あの、すみません。うるさかったですよね。」
「あ、いえ、お気にせず…」
 びっくりした。隣の部屋の人だったようだ。入居して1年と少し経ったが、隣の部屋の人にあった覚えがなかった。きれいな女の人だな、と思った。サラサラと長い黒髪や整った顔、ハリのある声が魅力的だな、と思った。また、聞きたいなと思った。
 しばらくして、また歌が聞こえた。伸びとハリのある美しい歌声だったが、何よりも珍しい、と思った。それ歌はあまりメジャーじゃない音楽ユニットの曲だったのだ。隠れた名曲、というものだと自分は思っていたので、興奮気味にガラリと戸を開けベランダに出る。
「あの、Irisお好きなんですか?」
 少し、怪しかったかもしれない。案の定お隣さんは驚いたように
「ええ、まあ」
 と返してくれた。
「すみません、私もIris大好きなんです。いいですよね、その曲」
 非礼をわびつつ話をふくらませる。この音楽ユニット、Iristailは知名度こそ低けれ、メンバーの音楽に対する情熱も愛情も、歌唱力も作曲能力も高いので、初めて動画サイトで聞いたときは感動して涙が溢れたほどだった。私の周りには勧めても好きになってくれる人がいなかったので、初めての同志になれるのではないか、と思ったのだった。
「この曲ご存知なんですね。ええ、好きなんです、Iris」
 なんてことだ、こんなに近くに仲間がいたなんて!私は更に興奮してしまい、ベランダの壁越しに一方的に話してしまった。
 お隣さんはリサさんというらしい。リサさんは大学生で、ここからほど近いところに通っているという。ふと思うことがあって、話を音楽に戻した。最近聞こえていた歌のことを聞きたくなったのだ。
「リサさんの、時々聞こえてくる歌声が好きなんです。ぜひまた聞かせてください。」
 そう言うと、先程までうん、うんと静かに、そして嬉しそうに話を聞いてくれたリサさんの雰囲気が明らかに暗くなった。
「あの、本当は私、音楽はやめようって思っているんです。」
 申し訳無さそうにリサさんは謝罪した。
「ええっ、どうしてですか。」
 リサさんは訥々と身の上の話をしてくれた。本当は、リサさんは大学で音楽を専攻したかったらしい。幼いことから音楽や歌うことが好きで、ずっと合唱部に入っていたという。高校では合唱でかなりいい大会まで進んだのだが、親からは猛反発され、奨学金を借りて行けるような成績でもなく、泣く泣く諦めたのだという。進学し、家を離れて大学の音楽サークルに入ったのはいいが、すればするほど音楽をもっと学びたい、という気持ちばかりが募って苦しいと思っていたところだったのだ。
「アキさんから、『歌声が好き』なんて言われて、嬉しいのにいい気になってやめるのを躊躇っちゃう自分が女々しくて嫌になります。」
 好きって言ってくれてありがとうございます。Irisのことは好きなんですけど、歌うのは今後控えますね。それでは、と言ってリサさんは自室に戻ってしまった。最後の方は、潤んでいるように聞こえた。話しかけたときにはまだ明るかった太陽は、いつの間にか傾き始めていた。私は、申し訳無さとやるせなさで、どうしていいか分からず立ちすくんでいた。
 私には、音楽に対するこだわりというのはほぼないに等しかった。好きな雰囲気の音楽を作る人は好きだし、そうでなければ好んで聴くことはない。取捨選択する側だ。動画サイトから無断転載か公式なのかの区別なく好きな音楽を聞いていた。それでも音楽に生き、音楽とともにある人の存在も知っていたはずなのだ。Iristailだって、苦節4年、ライブ映像を見る度に「ライブハウスに立つことが出来て嬉しい」といっていたじゃないか。音楽を好きな人が、音楽をやめるということがどれだけ苦痛で、どれだけ無念なことか、私は知っているはずだろう。どうして気づけなかったのだろう。部屋に戻り、暗くなった部屋の中でIrisの曲を聞いた。やはり情熱と愛情がにじみ出た、名曲だと思った。
 「リサさん、先日はすみませんでした。」
 次の日は雨だった。昨日と同じく向かいの壁に話しかけ、時間があることを確認した後、私は会話の最初に陳謝の言葉を口にした。ああ、突然物事をやり始めてしまうのが私の悪い癖だ、と口から溢れてから思った。
「…いいえ、気にしないでください。アキさんは悪くないです。」
 優しさ、というよりも諦めに似た声色が耳に届いた。雨音に混じって、より悲しい響きのように聞こえた。
「あの、動画サイトであなたの歌を投稿してみませんか。」
 突拍子もないことだ、とまた自分でもわかっていた。でも、リサさんの暗い鉄のような声に、どうしても耐えられなくなったのだ。
「代わりになるとは到底思っていません。でも、リサさんの歌声、私だけが聞いておくのはもったいないですもん。何より、」
 どうしてもこの言葉だけはあなたの胸に届いてほしい。その一心で一拍間を置いた。
「好きなことは、辞める必要なんてないですよ。」
 私の拙い褒め言葉を、嬉しいと言ってくれたあなたに、音楽を続けてほしいから。少し狡い真似を許してほしい。それでもあなたの歌声は素敵で、やめてなんてほしくない。壁の奥、この声はリサさんに届いただろうか。
「…」
 雨の音がうるさく響く。
「アキさんって、面白い人ですね。」
 ざーざーと、絶え間なく降る。
「私、機械とかは詳しくないので、ぜひ手伝ってください。」
冷たい雨だ、春を告げる雨だ。
 その後、私は趣味の範囲でリサさんの歌の合成などを行っていた。有り余っていた時間の消費に動画作成はちょうどよかった。やはりリサさんの歌は初めこそ再生数は少なかったものの、努力の甲斐あって順調に評価や再生数を伸ばしていた。音楽をしているときのリサさんは生き生きとしていて、やはり続けてもらってよかったなあと思う。音楽大学に通うにはお金がいる。上昇気流に乗り付けられるようになった広告収入が、少しの助けになるといいなあと、今となって思う。目指すはIristailを超えるような、歌唱力で売り出すシンガーだ。初めは不安でいっぱいだったが、案外手を伸ばしてみたら悪くないな、と思った。今日は快晴。ぐっと背筋を伸ばし、数日ぶりの買い物に出かけるために席を立った。

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