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残影

                           食用コカトリス


「地縛霊ですね」

 現場を見渡し、依頼人に告げる。
 視界の端ではヒトのような何かがふらりふらりと歩みを進め、屋上のへりへと向かっていくのが見える。ヒトのような何か、その、猫背の人のように見える黒いモヤは、フェンスの前にまでたどり着くとそこで一旦歩みを止めた。
 新しいフェンスだ。針金がよれている様子もなく、塗られているライトグリーンの塗料も真新しい鮮やかな発色を見せていた。何の変哲もない綺麗なフェンスだ。しかし、だからこそ不自然だった。この建物は決して新しいものではない。どちらかというと古い部類に入るであろう物件だ。そんな建物の屋上に新しいフェンスがあるというのは、ここで何かがあったことを暗に知らしめていた。
 やはり、というべきか。黒いモヤは当然のようにフェンスをすり抜け、屋上の地面をトンっと蹴ると宙に身を投げ出した。
 数秒遅れてドン、と重く鈍い音が響く。それまで所在なさげに佇んでいた依頼人二人――年若い夫婦であった。おそらく家賃の安さにでも釣られて契約をしたのだろう。――が、音に反応してびくりと肩を震わせる。どうやら彼らは霊そのものは見えないがこの音だけは聞こえるらしい。なるほど、依頼にあった「怪音」の正体はこれか。
「こ、これっ、この音です!」
 依頼人の片方、夫の方がすかさず私に訴えかけた。音が聞こえた直後は怯えたような様子を見せていた彼は、私という存在が居るためか一転して、逃げ回っていたネズミの尻尾を捕まえたかのように勢いづいた様子でギラリと目を光らせていた。
「衝突音ですね」
「衝突音?」
「ええ、霊の衝突音。あそこ、屋上の端っこから霊がね、飛び降りてるんですよ。落ちていって割とすぐに音がしている事と、あの音の大きさを考えると地面に追突したんじゃあなさそうだ。何階か下のベランダか、室外機か何かにぶつかったんでしょう」
「飛び降りてるって……、見えるんですか?」
「ええまあ。除霊師ですから」
 そうでしたね、と気の抜けた返事を返す依頼人の男は、薄気味悪そうに私の指差した方を眺めている。惜しい、もう少し右だ。
 もう一人の依頼人、奥さんの方も釣られてフェンスの一角を見る。こちらは逆に見ているところが右すぎる。やはり見えてはいないらしい。まあ見えていないならばその方が依頼人たちにとっては良いだろう、などとぼんやり考えていると、これまで陰気な様子で俯くばかりで沈黙していた奥さんから今日初めての声があがった。
「あの、その霊って除霊とか、お祓いとかできそうなんですか? 私、毎晩毎晩あの音が聞こえて、もう頭がおかしくなりそうで。それに……」
 見ると奥さんの目元には隈が浮かんでいた。ファンデーションを厚く塗って誤魔化そうとしてはいるが、それでもなお隠しきれない隈の跡。加えて疲れた様に腫れた下目蓋から、彼女が精神的に追い詰められている様子が伺えた。これはどうやら、思ったより深刻な事態になっていると考えた方が良さそうである。
「それに?」
 奥さんが言い淀んだのに言わせて相槌をいれ、続きを促す。彼女は記憶を探るようにして宙空を仰ぎ見ると、か細い声で語り始めた。
「夢を見るんです」
「夢?」
「はい、その、男の人の夢なんです。ここに住んでた人です。ここに住んでて、そして――」
「そしてこの屋上から飛び降りて死んだ。ですね?」
「……はい」
 ああ、やはり。私は心の中で一人納得した。彼女が言っている男とは間違いなくあのモヤのことだ。飛び降りて死んだであろうモヤ、その元となった人物の夢を見ているのだ。
 私が彼女たちから相談を貰った時点では、毎日同じ時間に怪音がするという以外にこれといっておかしなことが起こるという話は聞いていなかった。そのため、ここに来てこうして実際に地縛霊をこの目で認めるまでは、果たして地縛霊の仕業であるかも半々だと思っていた。
 実際、あるのだ。霊だと聞いて行ってみたら、単に水道管を反響した音が異音として聞こえていただけだった、なんてことが。霊現状と言われる事象は、蓋を開けてみたら科学的に説明のつく別の事象であることが多い。私自身、こうして本物の地縛霊を見るのは実に二週間ぶりのことである。直近に受けた二件の依頼は、単なる隣人の嫌がらせと、依頼者の精神疾患だった。前者は警察を、後者はエクソシストに扮するセラピストを呼んで解決した。もちろん依頼料は頂いたが、便利屋になったようで複雑な心持ちを抱いた。
「え、おい幸子、どういうことだよ。俺にはそんな話してなかったよな?」
「ごめん。けど、自分でもあんまり整理できてなかったの。ただの夢かもしれないし。でも除霊師さんの話を聞いてたらやっぱり無関係じゃ無いんだって思って」
「言ってくれれば……。いや、そっか、一人で悩ませてごめんな。
 除霊師さん、あの、幸子を……私の妻を助けてください。謝礼ならいくらでもお支払いします!」
 私が最近のクソ依頼に思いを馳せているうちに、依頼人の夫婦はなんだか勝手に盛り上がっていた。そんなに熱くならなくても、依頼である以上仕事はするので安心してほしい。情に訴えかけられたところで私の仕事ぶりが良くなるということはないし、逆に手を抜くこともない。
 とはいえ、彼らのような善良な人間は個人的にも嫌いではない。ホラー映画で殺される役を務めるのは、やはり見ているとヘイトを集めるようなクソ野郎に限る。「ジェーン・ドゥの解剖」に出てくる親子のように心優しい人たちが犠牲になるのは苦手だ。(あの作品自体は名作だと思うが。)除霊に際して客によってクオリティを変えることなどないが、接客態度は私の機嫌次第だ。ここはひとつ、彼らを安心させる言葉でもかけておこう。
「ご心配なさらず。依頼を受けた以上、地縛霊は除霊します。奥さんに関しても心配はいりません」
「本当ですか! 妻は助かるんですね!」
「もちろん。お任せください」
 私はにっこりと微笑み、頼もしく見えるように大仰に頷いてみせた。

 一時間後。
 私と奥さんは屋上で寝袋に包まり、共に夜空を見上げていた。
 私たちが横になっているすぐ側には小ぶりのキャンプテーブルが広げられ、一台のノートPCと数点の機材が並べられている。そのうちの一つはPCと有線接続されており、更に二本のケーブルが私と奥さんへとそれぞれ伸ばされている。ケーブルの先は医療用のパッドのようになっており、私たちの首筋に貼り付けられている。
「旦那さん、準備はいいですか?」
「え、ええ。ここの『スタート』って書いてあるのを押せばいいんですよね」
「そうです。私が合図したら押してください」
 旦那さんはキャンプテーブルの上に広げられた機材と睨めっこをしている。彼に求められる操作はPC上に表示されるスタートボタンを押すことだけなので、そんなに気張らなくてもよいのだが。
「それでは、そろそろ始めようと思うのですが、奥さんは大丈夫ですか?」
「はい。えぇと、実はあんまりよくわかってないんですけど。除霊師さんは実はエンジニアで、その機械を使ってバグ取り? をするんですよね」
「そうですね。その認識で大丈夫です」
 直近の一時間、私は”除霊”の準備をしながら二人に除霊に関する詳しい説明をしていた。
 実を言うと私の職種は除霊師などという怪しいものではない。情報技術を専門としたIT技術者、というのが実際の肩書である。そんな私がどうして除霊師などというオカルト紛いのことをしているかというと、心霊現象の中でも地縛霊と呼ばれるものが、霊でもなんでもなく、技術的欠陥によって生じる科学の産物であるからだ。
 地縛霊の正体について語る前に、EiBというものについて語る必要がある。
 遡ること今から七十年前、未知のウイルスの蔓延による未曾有の大厄災が発生した。後にHE-ウイルスと呼ばれることとなるその病魔はニューヨーク、上海、モスクワの三都市でほぼ同時期に発生し、その恐るべき特性により人類の四割が死滅すると言う人類史上最悪のバイオハザードを引き起こした。私自身、生物畑の人間ではなく、あまり詳しいことはわからないのだが、どうやら潜伏期間の振れ幅が一年から三年と大きく、またエイズに似通った免疫システムを破壊する特性に加え、空気感染によっても感染する上、感染した人の性欲・凶暴性を増加させるという極めて対人特化の性質を持ち合わせていたのだとか。ある時期までは治療薬も無く自己治癒も絶望的ということで、感染力の高い致死率百パーセントの悪魔のウイルスとして猛威を振るったらしい。その結果が人類の四割の死滅である。当時の人たちの取った苦肉の策が、感染容疑の無い生物のみを島国に隔離し、感染者を皆殺しにするという極めて非人道的な強硬策であった。現時点に至るまで「愚策」と評されている一方で、他に有効な手段は無かったと言う専門家も少なくはない。
 過去に類を見ないウイルスの脅威を味わった当時の人類は、超人信仰とでも言うべき盲信に取り憑かれたという。病魔に負けず、朽ぬ肉体。そんな妄想だ。当初はバカにする者も多かったとか。しかし、ウイルスによって刻み込まれた恐怖が、進化を求める生物的欲求が、妄言にも等しい願望を机上の空論から現実のものへと押し上げた。
 サイバネティック・オーガニズムという言葉がある。一般的には”サイボーグ”のほうが通りが良いだろうか。身体の一部を機械化する技術であり、医療分野で発展する一方で、二十二世紀半ば辺りまでは空想科学としてSF作品などで多く見受けられていた。転機が訪れたのは二十二世紀半ば、HE-ウイルスによる人類の大量死の直後である。病魔に負けず、朽ぬ肉体、そんな超人への憧れから人々が熱中したのがサイボーグ技術であった。脆く儚い人の身を捨て、強く永い時を生きる理想的な器を得ることを求めたのだ。
 一度種族単位で追い詰められた反動か、人類はサイボーグ技術において未だかつてないブレイクスルーを成し遂げた。抱えていた技術的課題の尽くを僅か四半世紀で過去のものとし、「人体の一部を機械に置換する」技術を我がものとした。機械の義肢は今やあり触れた技術であり、内臓や、果ては脳までも、金さえあれば失ったあらゆる部位を機械化することが可能であった。ただし、脳の機械化は極めて高価であるため、技術的には可能であるものの現実に行う者は少なかったのだが。金銭的問題に加え、倫理的問題や自己同一性の観点から問題視する声も多かったことも普及しなかった原因と考えられている。
 それ自体は普及しなかった脳の機械化であるが、その副産物として、脳の機能を拡張する脳内電子端末というものが普及した。それこそがEiBだ。
 ”Electronics in the Brain”、略してEiBと呼ばれるその機械は、脳の機械化技術の開発に伴って解析された脳の仕組みを応用して作られたものだった。脳とのダイレクトな情報のやりとりを行うことで、演算力や記憶能力の補助や、従来の携帯端末の機能を模擬してイスペックを底上げし、ハード端末の持ち歩きを不要としたEiBは、今やかつての携帯電話、スマートフォン(二十世紀や二十一世紀前半メージインターフェイスとして視界内に投影すること可能とした人体埋め込み型の小型生体コンピュータだ。人体の基本のドラマや映画に出てくるアレだ)にとって変わって、最早使っていない者などいないとまで言われるまでの存在となっていた。
 さて、前置きが長くなったがここからが本題だ。
 実に便利なEiBだが、実は致命的な欠陥があった。EiBは保存したデータの一部を、周辺機器との通信によってクラウド上のオンラインストレージにバックアップする機能があるのだが、EiB内蔵者が死亡した場合、ユーザーの記憶を周辺の端末に転写してしまうという意図しない挙動を起こす性質を持っていた。このことが発覚したのはEiBが完全に普及してからのことであり、現時点に至るまで原因は特定されていない。バグを排除できていないにも関わらず人々が使い続けているのは、その便利さ故というより、各国政府や開発元がその事実を隠蔽しているせいだ。知能の補助機能に、旧来のあらゆる携帯端末の機能を代替しているという万能情報端末としての地位。これらを考えると、EiBの所持はこの情報社会において、人権とさえ言えるものだ。生活するのに必要不可欠なまでに社会に浸透したEiBを今更使わせないというのは事実上不可能だった。だからこそ、政府は不都合な事実を隠蔽し、EiBを使い続けるという選択肢を取った。HE-ウイルスが台頭する以前であれば、一部の全体主義国家でないと不可能であったであろうその統制は、皮肉なことにHE-ウイルスとの抗争によって権力を増したお陰で、全世界の国々で実行可能な状況にあった。
 死者の記憶の転写の発生原因は依然不明とされているが、発動のトリガーとなりうる要因の一つは判明している。著しい感情の高まり。それが転写の条件だ。EiB所有者の死亡時に記憶の転写が起こると言ったが、中でも特に自殺した場合に転写が起こりやすいという統計が出ている。逆に、突発的な死、交通事故のような死因ではほとんどのケースで記憶の転写は発生しない。状況証拠的にではあるが、死の直前の数分に、自ら命を断つほどの強い感情を抱くことが、記憶の転写の条件だと推測できる。当初は自死すること自体が条件だと思われていたのだが、事故死であっても、事故に遭ってから死ぬまでに時間がある場合に発生が確認されていること、また、正当防衛によって殺されたシリアルキラーにおいても記憶の転写が起きていることから、自死は直接的な条件ではないと判断された。代わりに、感情の昂り(事故死のケースでは痛みや死の恐怖、シリアルキラーのケースでは殺人に伴う興奮)が原因だと言うのが現在主流の考えである。
 原理は不明だが、一説によると入力方式に感情というのが悪さしているのではないかと言われている。EiBでは、使用者の物理的入力を要する(キーボードのような)これまでのインターフェイスと違い、思考による入力で操作を行っている。この、イメージフィードバック式の入力に、使用者の感情が作用して誤作動を引き起こしているのではないかという説だ。
 なにはともあれ、死の間際に感情が昂ることで起こる死者の記憶の転写という現象は、自殺程度の条件で容易に発生しうるというわけだ。バグの重篤さに対して再現性が高すぎる。
 さらに問題なのが、転写された記憶が周囲のEiBに対して無秩序に干渉するということだ。記憶データをアップロードした本人が死んでいるせいでバグが生じているのか、そもそも非正規の手段でアップロードされたデータだからなのか、はたまた両方か。理由は定かでないが、死亡事故の発生した地点の周辺機器は、EiBから転写された死者の記憶を、さらに他のEiBに対して転写しようとするのだ。その結果生じるのが、死者の記憶によって発生する知覚作用。死者の幻覚、すなわち地縛霊である。
 もちろん通常のプロセスを経てアップロードされるわけではないため、多くの場合データの送受信は不完全なものになる。結果として、視覚だけ、聴覚だけ、触覚だけ、嗅覚だけといった限られた感覚に作用することになるのだ。依頼人の夫婦が音だけ聞こえたのはそのせいだ。私の場合は依頼の際には常にチャンネルを全開にして全てのデータを受信するようにしているため、視覚的にも記憶データを見ることができたが、大抵の場合は今回の夫婦にように不完全な知覚干渉になるだろう。
 ただ今回想定外だったのが、奥さんが夢に男を見たと言う点だ。このケースは過去に何度か対処したことがあるが、早期の解決が望ましい。私の推測が間違いでなければ、彼女は自殺した男の記憶データをより完全に近い形で受信しているということになる。自殺した人間の記憶を何度も追体験させられる。想像するまでもなく危険だ。自分以外の記憶を覗くという行為自体負担が大きい上に、死の記憶を繰り返し体験させられるのだ。このまま放っておいたら奥さん自身が精神を病んで自殺する、なんてことにもなりかねない。
「では旦那さん、スイッチを押してください」
 そうなる前に、仕事を済ませるのだ。

 記憶が開始される。
 スイッチを押した瞬間、私と奥さんの身体は強制的に眠りに落ち、今は外部からの五感を閉じてEiBのみが活発に活動する状態になっている。そうして私は、奥さんを通して男の記憶にアクセスし、そのデータを自身のEiBに受け入れつつ解析する、という作業を始めるのだ。EiBが機械的にデータを処理する間、私は男の記憶に曝されることになる。解析はEiB任せで楽だが、この待ち時間が何よりも辛い。
 ふわりと意識が浮き上がり、自殺した男の記憶に飛び込んでいく。私が記憶に飛び込んでいくというより、記憶が私を飲み込むといったほうが正しいだろうか。
 この瞬間、私は「自殺した男」になった。
 五感が知らない誰かのものに上書きされ、知らない誰かの記憶や思考が自身の内に流入してくる。魂を汚されるような嫌悪感に、剥き出しの背骨ををスプーンでこそぎ取られるような凌辱的な感覚を覚える。突き上げるような浮遊感に襲われ、裏返しになった腸が胃から食道に迫り上がってくる。あ、吐きそう、と思うも吐き出すことはない。感覚と切り離された私の体は、現実では身じろぎ一つしていないはずだ。幻覚のゲロを無限に喉に溜め込み、気分はさながら食事中の蛇である。全身の皮膚がカーッと、暑いんだか冷たいんだかわからぬ温度的な刺激に曝され、すでに大暴れしている胃袋がきゅうと縮こまったかと思うと、どっと汗が吹き出した。ここまで全てが幻覚である。
 存在しない歯を食いしばって、耐えるとも流されるともつかない酩酊状態に身を置いていると、次第に暴力的な感覚は身体のうちにおさまり、わずかに腹のうちで渦巻くばかりとなった。どうやら安定したようである。この感覚は何度やっても慣れない。
 落ち着いてくると、自身のおかれた状況が把握できてくる。私の五感は自殺した男のものと同化していた。場所は屋上。時刻は夜。靴を脱いでぼーっとベランダの下を見下ろしている。男の肉体はひどく無気力で、体幹にはまるで芯が通っていない有様だった。しかし私にはわかる。この男となっている私には、男の内面で、無気力な躰とは対照的に、強い熱量の感情が溢れ返らんばかりに渦巻いているのが感じ取れた。
 感情の存在に意識を向けた瞬間、しまったと思う。どこか間接的に感じられていた男の記憶と感情が、私に直接流れ込んできた。

「ご結婚おめでとう。エリートの旦那さんに綺麗な奥さん、お似合いの夫婦ね」
「菜々子、老後のことも考えて、全身義体化をしようと思うんだ」
「こじんまりした家だけど、少しの我慢だ。もっと働いてもっと稼げば、大きな家に引っ越せる」
「ああ、田島、最近頑張ってるじゃないか。出世も直近かな」
「菜々子、ごめん、今日も遅くなる」
「ねえ、次の週末は休み取れるの? そう……」
「田島くん、次のプロジェクトは期待しているよ」
「ねえ聞いた? ……さんちの奥さん昼間から派手な格好して出かけてたって」
「菜々子、は、今日も友人と女子会か。女子会、ねえ」
「……」
「ふざけるな」
「おい、どういうことだ!」
「もう無理なのよ」
「こっ、これはなんだ! 書類の名義が、……くそ!」
「……ふふ、もう生きていても無駄か」

 コマ送りのように、記憶の断片が私に溢れた。
 結婚式。幸福感に包まれている。書類のようなもの。やる気が溢れてくる。会社の上司。信頼。男。その妻。気分が沈む。上司。やる気。気がかり。嫌な噂。不安。疑念。怒り。書類。……これは離婚届だ。失望。再び書類。最初に出てきたものだが、名義が知らない男の名前に変わっている。視界が歪む。熱、否、憤怒。脱力。屋上。地面。

「それが俺の人生だよ」
 気づくと口が動いていた。私の口ではない。これは男の口だ。男が喋っている。
 津波のような記憶の奔流に頭を殴りつけられ、ぼんやりとしか動かない頭がにわかに警鐘を鳴らす。
「ITエンジニア? 除霊師? ……ふぅん、なるほど。俺を退治しに来ましたってわけか」
 私の記憶が読まれている?
 まずい、と思うも体は動かない、当然だ。この体は男のものだ。制御件は男にある。
 しかしおかしい。制御権もなにも、これはただの記憶のはずだ。男は死んでいる。意思などないはずなのだ。喋り始めるはずがない。ましてや、逆に私の記憶を覗くなど、あってはならない。
「そうさ、死んださ。けど、俺の記憶を見たんだろ? ならわかるはずだ」
 男の記憶……。
 なんだろうかと考えた瞬間、ヒントを出すように静止画が頭に浮かんだ。数秒前に見た光景。
 書類だ。契約書。全身義体化の契約書だ。
 まさか、と思うと再び口が動いて笑いだした。
「そうだよ、想像した通りだ。俺は体を全部機械にする契約をしてた。妻と一緒にな。長い人生を、病気に苦しんだり事故で死んだりしないようにな。
 まああいつはどうでもよかったみたいだがなあ……。男作って出て行きやがった。それはいいんだ。もうあんなやつどうでもいい。
 けどよ、この俺が、死ぬ気で働いた金で契約した義体化の契約をかっぱらっていきやがったのは許せねえよな。どうやったのか知らねえが、俺の名義も間男の名前に変えられてやがった。
 なあ、許せねえよなあ。なあ?」
 男の怒りが波のようになって身体の内側から体表へと広がって行き、身を焦がした。
 チリチリと焦される感覚が極めて不愉快だがわかったことがある。これは間違いなく男の人格だ。
 男は全身の義体化をする予定だった。全身ということは、当然脳も含めての義体化だ。脳の義体化、つまり機械の脳と入れ替えるということは、記憶や人格といった脳の中身も移し替える必要がある。新しい脳を作って入れたところで、それは別人だ。だから、生体のほうの脳からそれらのデータを吸い出してバックアップし、新しい脳にデータを入れてから体にその脳を入れなければならないのだ。おそらく、今私が話している男は――
「ご明察。おっ死んだ俺の、人格と記憶だけ写しとった亡霊だよ。地縛霊たあよく言ったもんだよなあ。死んだあの日から、この怒りが消えないんだ。くる日もくる日も、あの日のことを思い出してここから飛び続けてる。焼きついて消えないんだよ、死んだときの記憶が。
 あの日の今をずっと繰り返してるんだ」
 男の感情が、私に流れ込んでくる。
 怒りだけではない、全てをないまぜにした、ぐちゃぐちゃの感情のゲロソースが、無秩序に染み込んできていた。
「なあ、その体くれよ」
 なにを――
「ずっと待ってたんだ。相性がいい奴がくるのを。あの女でも良かったけど、お前のほうがもっといい。ガードなしで全データ受信なんてやつがノコノコやってきてくれて俺は実に幸運だよ。死んでっからずっと後悔してた。怒りが腹の中で煮えたぎって、でも発散できない。気が狂いそうだったよ。俺はお前の体で生き返って、今度は好きに生きてやる。本当は男の体が良かったんだが、まあいい」
 思考が、にぶる。かんじょうが、ひえていく、わたしが おとこで みたさ レ テ……

   有害なデータの進入を確認

   人格データの破損を確認

   修復を試みます……失敗

   自爆シークエンスを起動します

   自爆プログラム以外の全システムロック

   自爆プログラム作動

「以上が今回の依頼のログとなります。してやられましたね」

 女の声と共に、意識が浮かび上がる。
 横たわっていた寝台から、状態をもたげて辺りを見渡す。密閉感のある、秘密の研究施設然とした小部屋。私の職場だった。
 しかし気怠い。自身が死んだ瞬間のログを体験するのはやはり精神的負担が大きい。
「その後は、どうなりましたか」
「小野田さんが自爆した後ですか? 内蔵した爆薬で脳の第一層を破壊された小野田さんは機能を停止、自爆信号を受信した特別処理班が急行して小野田さんのボディを回収。新しい脳にデータを入れて再起動しました。
 地縛霊の方は周辺の端末全てを物理的に破壊することで完全に消去しました。依頼人の奥さんもEiBのフォーマットによって完治しました。いやー、大損害ですね」
「うるさい」
「いたっ!」
 煽ってきた女、繭子の額に、思いっきり強いデコピンを食らわせて黙らせる。
 ……しかし、確かに大損害だ。現地の電子端末を根こそぎ破棄させられ、けっして安くない私の脳も新調させられた。手痛い敗北だ。
「あ、でも部長は喜んでましたよ」
「え?」
「損害は大きいけど、初めてのケースを観測できたのは大きいって、興奮してました。別の場所で発生していたらもっと被害が出ていてもおかしくなかったって。だから、今回はプラスマイナスで言うとプラスなんだそうですよ。特別手当も弾むって言ってました」
 手当はうれしい。しかし、今はお金より休みが欲しい気分だ。
「そうですか。それより、一週間ほど休みが欲しいんですけど」
「あ、ダメですよー。明日から三日間は事件の当事者として再現実験に付き合ってもらうんですから」
「私、病み上がりなんですが」
「病み上がりって、……そんな戯言は生身の体で言ってくださいね」
 私はこの女をサイバネティック・ハラスメントで訴え、職場を辞めることを決めた。


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