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20200709

                               尾白浜

 いつものように高校をさぼって公園に向かう。今日は寝すぎたのでもうお昼時になっていた。俺はコンビニに寄って、少し迷ってからいくらと梅とおかかとツナのおにぎりと500mlのお茶をレジに持って行った。やけに愛想のいい店員だったのでお釣りをもらうときに自然と「どうも」という言葉が出た。今日は晴れていた。
 公園に着くとムーさんは既に来ていて、俺を待っていた様子だった。そわそわした様子でベンチに座っていたが、俺のことを見つけると少し照れ臭そうに「よっ」と片手をあげた。
 ムーさんというのはこの公園付近に住んでいるホームレスみたいなおじさんだ。『みたいな』というのはムーさんいわく家はあるとのことだからだが、その真実は定かではない。ちなみに武藤さんだからムーさんだ。
 この説明ではいささか不審すぎるだろうが、ムーさんは喋りも快活で危険な感じは全然ない。多少偏屈ではあるが悪い人間ではないと思う。
「今日はなんかいいのあったか?」とムーさんは小汚い髭をいじりながら言った。口調はぶっきらぼうだがムーさんの声は不思議と棘を感じない。ほうれい線が寄っていつも半笑いみたいな顔だからだろうか。
「んー、今日はめぼしいのは特にないかな。強いて言えば昨日見たおっさんの顔のやつが面白かった」
 そう言って俺は持っているスマホを見せる。スマホにはおっさんの顔がどアップで映り、ずっと熱唱しているミューシックビデオが再生せずに表示してある。
「あー、ストロークスだな」とムーさんはスマホをのぞき込む。「俺もそこまで世代ってわけじゃないが、富裕層のぼんぼんって感じで、出てきたときは嫌いだった」
 ムーさんは金持ちを嫌う。アーティストや芸能人の実家が太いと分ると必ず「富裕層」という言葉を使ってぼやくのだ。
 俺はムーさんの隣に腰かけそのザ・ストロークスの『Reptilia』というミュージックビデオをスマホの音質の低いスピーカーで流した。そして俺たちは曲が終わるまで黙ってそれを聞いた。俺は昨日も家で聴いていたがやっぱりこの疾走感のあるロックはかっこよくて、正直ムーさんに勧められたオアシスとかよりも好きだった。
「出てきたときは嫌いだったって、今は嫌いじゃないの?」と俺は聞いた。
「今はなあ、もう嫌う体力もねえし。それにこいつら曲は好いんだよなあ」
 偏屈なムーさんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったので俺は少し意外だった。
「何だよ」とムーさんは顔をしかめたが、その声はどこか楽しそうだった。
「何でもないよ、ムーさんおにぎりいる?」俺はコンビニの袋を持ち上げてみせた。
「いいよ、自分の飯くらい自分で用意する」
「いや俺よっつも食いきれないよ、一個食べて。おかかでいい?」
 そう言っておかかおにぎりを半ば強引にムーさんの手に押し付ける。こうでもしないとムーさんは貰ってはくれない。ここ数か月の付き合いで学んだことの一つだ。
 公園のベンチで、我々は午後の日差しの下おにぎりを頬張った。結局ムーさんは二つ、おかかと梅を食べた。食べている最中鳩が3羽やってきて、そしてまた飛び去って行った。

「おい、宇多田ヒカルも曲出してるじゃねえか。なんで教えてくれないんだよ」
 食べ終わるとムーさんは俺のスマホを操作しながらうれしそうな声で言った。ちなみにムーさんは自分のスマホを持っていない。多分金がないのだと思う。スマホは高価だ。クラスメイトとかもみんな持っているのでマヒしてしまうが、俺の使っているアイフォンなんて本体価格だけで5~6万する。それに月額料金があって……親が金を払ってるから関係はないわけだが。
「おい聞いてんのか?」とムーさんがぼーっとしている俺に呼び掛けた。
「あー宇多田ヒカルね? じゃあ今聞こうよ」
 俺は適当に返事をする。そして宇多田ヒカルって誰だったっけ、ああファーストラブの人か、椎名林檎と混じるんだよな、とか思った。
曲のイントロがムーさんの持つスマホから流れ始めた後、すぐに美しい女性ヴォーカルが聞こえた。
―――いくつもの出会いと別れ 振り返って、思う 一人で生きるより 永久に傷つきたい
 曲は多分恋愛を歌ってるみたいだった。
―――明日から逃げるより 今に囚われたい まわり道には色気がないじゃん
 俺はどきりとした。“明日から逃げる”というのが学校をさぼっている自分に向けられた歌詞のように感じたからだ。しかしこの曲は恋愛ソングなので自分には関係ないだろうとすぐ思い直した。
 数分後、曲が終わった。
「やっぱ好いなあ宇多田ヒカルは」ムーさんはしみじみと言った。「彼女には聞かせる力がある。彼女の作る音楽は様々なルーツや意味が考えられている。それにより納得感が生まれるんだ」
「うーん確かに結構いい曲かも」
 ムーさんが何を言っているのかはさっぱりだが、この曲がいいのには俺も同意する。
 確かにきれいな曲だった。音楽の詳しいことは判らないが、何だか歌詞がすっと入ってくる感じがして好きだった。
「お、珍しいなお前が誉めるとは」
「別にいつもいいと思ってるよ、言わないだけで」
 ハハハとムーさんは笑った。
 俺はムーさんのようにうまく気持ちを表現できない。そしてその“表現できなさ”が時々とてももどかしいのだ。
「でも宇多田ヒカルはなんか言葉がはねてる感じで気持ちがいいね」
 特に途中で変調したところはラップみたいで聞いているとき自然に体が動いてしまいそうだった。まあ、恥ずかしいので実際に体を動かしたりはしなかったが。
「 “はねてる”か。宇多田ヒカルはR&Bの影響を受けてるからなあ。リズムの取り方がうまい」
「R&B?」
「リズム アンド ブルースの略。黒人の音楽さ」
「へえ」
 俺はよくわからないけど納得したふりをしておいた。黒人の音楽、白人の音楽とかがあるのか。じゃあ俺たち黄色人種? 日本人? の音楽は何なんだろう。あ、演歌とかか。
 
 そのあともいつも通りムーさんが流すままに俺たちは音楽を聴いた。音楽が流れている間は二人とも黙って、曲が終わるとムーさんがたまにうんちくを挟んだ。俺はこのうんちくを聞くのが好きだった。うんちくを聞いてもこちらから聞き返したりはしない。「へえ」とか「ほお」とか言って好き勝手考えるのだ。ムーさんも話す度に俺が納得して頷いているのを見て満足げだった。結局、俺らは二時間ほど音楽を聴いていた。

 ベック、マム(これは昨日発売したらしい。何故かスマホを持たないムーさんが知っていて、楽しみにしていた)、カニエ、エレカシ、オアシス、イマジン・ドラゴンズ、くるり、official髭男dism、レディー・ガガ、などなど。ムーさんはジャンル、洋楽、邦楽などめちゃくちゃな順番で各アーティストから一曲ずつだけ選ぶ。もしかしたら順番とかはムーさんなりに意味があるのかもしれないが、少なくとも俺にはめちゃくちゃに聞こえる。
 聞いていて俺は、音楽は恋愛のことが歌われているものがすごく多いことに気づいた。ムーさんに聞いたら洋楽も大体歌っているのは恋愛のことだった。俺はそれを聞いてムーさんが英語ができるという事実に一番驚いた。

 だんだんと西の方から日が沈んできて、空は夕暮れ色に塗り替えられようとしていた。
「じゃあ、そろそろ」
 そろそろ良い時間だから。と言いかけたところでムーさんが
「待ってくれ」と言った。「最後にもう一曲だけ付き合ってくれ」
 ムーさんの表情がいつになく真剣だったので、俺はただ黙って頷いた。
「最後に聞いてほしい曲があるんだ」
「へえ、なんて曲?」
 俺はポケットのスマホを再び取り出そうとする。
「いや、いい。」そう言ってムーさんは俺に踵を返した。「付いてきてくれ」

 ムーさんの背中を見ながら、公園横の暗くて長いトンネルを歩く。俺はこのとき初めてこのおじさんが実は恐い人である可能性を考えた。
「もうちょっとだ」というムーさんの声がトンネルに響く。
「どこ行くの?」
「ここ抜けたら見える」
 トンネルを抜けたとき俺もムーさんもまず上を見た。空は一面が鮮やかな紫色一色に統一されていた。それはピンクに近いような紫で、街を幻想的に染め上げていた。
「こっちだ」とムーさんが言った。「あれだ」
 目線の先には一軒の家が建っていた。しかしそれは人が住んでいるというにはいささか手入れが必要そうな家だった。庭は雑草が伸び放題になっているし、よく見ると窓にもひびが入っている。俺は魔女の家を連想した。
「あれって……」
「あそこに住んでる」
 それだけ言うとムーさんは黙って家の中に入っていった。俺も慌てて後を追う。
 家の中は予想通り荒れ果てていた。いたるところが埃まみれでここに人が住んでいるとは到底思えなかった。
 しかし薄暗いリビングの一角、大きめの机がある一帯だけは整理されていて、卓上にはパソコンや少量の機材、開封前のペットボトルなんかがのっかっていた。そしてその脇には一本のアコースティックギターが立て掛けられていた。
 ムーさんはギターを取り床に座った。
「なあ、お前名前はなんて言うんだ」
 俺はここで初めて自分がムーさんに名乗ったことがないことに気づいた。
「タクマ」と俺は答えた。
「そうか」ムーさんは言った。「なあ、タクマ俺たち付き合いはそこそこになるが、お互いのことはほとんど何も知らんな」
 確かに、と俺は思った。ムーさんが俺の名前を知らないように俺もムーさんのことをほとんど知らない。
「でもまあ、今さら多くを語るつもりはない。だよな?」
 俺は頷いた。ムーさんの言う通り、俺たちが今さら多くを語る必要はないように思えた。
「俺は明日からもうあの公園には行けない」
 その言葉に俺は驚かなかった。ここに来るまでのムーさんの態度からある程度予測はできたからだ。ただ寂しいと思った。
「なんで?」と俺は訊ねた。
「詳しいことはアレだが、再婚することになったんだ。それで妻の今の家に行くことになった」
「そう」
 ムーさんが結婚していたことがあったのには少し驚いた。こうなってくると異性との関係がないのはいよいよ世界に俺だけのような気がしてくる。
「それで俺の曲を最後にお前、いやタクマに聞かせようと思ってな」とムーさんはギターを小突いた。
「ムーさん音楽できたんだね」
「こう見えて昔はミュージシャン志望だったんだ」
 まあ、そう見えるけどねと俺は心の中でツッコんでおいた。
「タイトルは『別れ』。直球だろ?」ムーさんは笑った。

 キュっと弦が鳴って前奏が始まった。バラードだ。俺はメロディーに身を任せた。埃っぽい窓から細々と差し込む光がムーさんの手元を照らした。すうっと息を吸う音が聞こえる。

 曲が終わり、ムーさんが静かにギターを置いた。
 俺たちはそれ以上特に何を言うでもなく別れを告げた。外はもうすっかり暗くなっていて、かあかあとカラスの鳴き声が聞こえた。俺は漫然と、カラスの行き先に思いを馳せた。

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