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死んでしまったユウリの話をしよう

                              遥 弥生


 This is this.
 It is a truth that I could not imaginize without lying.


 ユウリが生きるのをやめた理由は、今になってもよくわからない。いや、たぶんこれといって理由はないのだと思う。ユウリは何となく消えたいと思って、消えようとしたのだ。そしてそれはとても悲しい勘違いだった。ユウリは消えられなかった。血液の温かみを失って、ずっと冷たく重くなった肉の塊が残ってしまったんだ。ユウリは空気のような人だった。そう思っていた。きっと自分を空気だと思い込んで、そのままサイダーの炭酸みたいに、夏空のペイル・ブルーのなかに消えられると考えてしまったんだろう。



「口に合うといいのだけれど」客人は一言断って、緑色の瓶からコルクを引き抜いた。
 清潔な敷布の上にこぼさぬよう、ワインボトルの口を慎重に傾ける。思ひ河、水面に微かな泡沫を立てながら、二つのグラスは紅の液体で満たされた。一つを客人の方に渡してから、自分のものを軽くふるうと、ゆらゆらと甘美な香りが立ち昇る。グラスのへりにそっと口づけをして、その足を優しく持ち上げてやると、唇を伝って舌先に甘酸っぱさが広がってゆく。数秒ほど瞑目して、舌根から咽頭にかけてねっとりとのしかかってくる微痛を愉しむ。飲み下してからふっと瞼を開くと、同じように数十秒の放埓に身をゆだねて、頬を淡い葡萄色に染めた客人と目が合った。
「素敵なお土産をありがとう」軽く会釈をしてから、ワインをテーブルの上に戻す。仄かな天井の灯りを受けて、スケルトン・レッドの儚い影がグラスの足元に落ちた。
「それで、」本題を切り出したのは客人の方からだった。「話しておきたい、大切なことって何ですか」
「うん、」簡単な返事のあとに続くはずの言葉を、一瞬だけ呑み込む。客人は常よりも姿勢を正してこちらを見つめており、これから始まる物語をきちんと受け止めんという決意がうかがわれた。
「むかし亡くした、大切な人の話をさせて」



 生きたユウリと最後に別れたのは、明け方の地下改札だった。
 どうやらとっくに熱帯の仲間入りをしたらしい大都会には、午前六時を示す腕時計とは裏腹にもうじめじめとした熱が広がっていた。ぽつぽつと人通りも増えてゆくなかで、汗を流しながら行き交う有象無象を横目に、ユウリは涼しげに淡々と歩いていた。くだらないお別れをだらだらと過ごさないことが二人のルールだったから、もう少し一緒にいられてもいいかもなどという湿っぽい思いを追い出して、飄々と先を行くユウリの背中に、じゃあここで、とぽつり告げる。ユウリは振り向かずに、ただ左手だけをひらりとあげて応じた。そうして、その金髪の後頭部は人影の中に消えていった。これでいつも通りの別れだった。
 
 ユウリと初めで出会ったのも、そういえば夏のことだった。
 夕暮れ、ヒグラシのさんざめく草原にカンバスを立てて、突き抜ける青い空を描いていた。
 フレームに切り取られた風景の中に、ふらりと人影が入り込んだ。ときおり吹く青い風に髪を揺らす姿は、むこうに漂う入道雲に飲み込まれるんじゃないかと思うぐらい、白かった。そのとき、この人は空気のようだ、とはじめて思ったのだった。
 叫んだ。「おぅい空気さん。そこをどいてくれないか。絵が描けないから」
 するとユウリは微笑みながら言い返してきた。
「面白いこと言うなぁ。空気だったら、邪魔にならないんじゃないの」
 邪魔だと言ってしまったのは、あなたのことは描けないと思ったからです、と慌てた弁解を、ユウリは妙に気に入って大笑いした。それが二人の最初の会話だった。一面の水色の中に、絵具を垂らしたような雲と緑が広がっていた。


「そうだ、私はあのとき、天国を見たのかも知れない」



「不思議な人だったんですね」その人、と指輪の輝く細い指でパンをちぎりながら客人は微笑んだ。
 自分の皿の上の一切れをつまみ上げて食むと、表面を覆っている張りのある衣服が口の中ではだけて、天つ風、滑らかな雲海のごとき身体と、小麦の芳醇な香りが流れ出した。染み出てきた唾液で微かに湿った欠片を、ごくりと飲み込んで、口元の残滓を舌先でなめり取る。「美味しい」味の感想を、聞かせるでもなく呟いてから、
「そう、確かに不思議だったのかもね」と応じる。「空気みたいな人だった。独立独歩、自由奔放、そういう感じ」
「きっと面白い人だったんでしょう。お話ししてみたかったなぁ」まあ、もし生きていらしたらこうして貴方と相対していることもないのでしょうけれど、と客人は付け加えて、冗談っぽく笑う。
「話、そうだね」客人の言葉を受けて、次の一節に進む。「おしゃべりも好きな人だった」



「いま、それらしいことを言おうとしたな?」
 それがユウリの口癖だった。誰よりも言葉を愛していて、誰よりも言葉が嫌いな人だった。詩のようなアフォリズムを愛好して、だらだらと構築されてゆく巧言を嫌っていたのだ。「言葉なんて詐術だ」と嗤ったせいで文芸のサークルを追い出されたという大学時代の思い出を、あまり自分の話をしないユウリの口から聞いた時には腹を抱えて笑ってしまった。でも、絵がなかなかうまく仕上がらないときは、そう言いながらもふらっと綺麗な言葉を紡ぐユウリが、ちょっとうらやましかったりもしたものだ。

 ユウリは、あまりに自然に変な人だった。
 例えば何か思い出話をするとき。ユウリはきまって「これはほんの法螺話なんだけど、」と前置くのだった。煙草一本を吸い終える以上の長話を嫌っていた。面白がらせようとした話は大概つまらなそうに無視され、何でもないと思いながら発した言葉には、手を叩いて笑っていた。「どうとでも取れる話の方が、生存権が認められてるって気がするじゃないか」というのが、ユウリなりの行動原理の説明らしかった。二人は、いつも根拠のない言葉の中にぼんやりとつながっているだけだった。それはとても心地よいものだったけれど、ふとした瞬間に泡のように消えてしまう弱さを抱えていた。

 何でだって絵なんか描くのか、とユウリに聞かれたことがあった。答えに窮した。今までそんなことを考えたことは無かったから。秋だった。木々の隙間から漏れ入る陽光に照らされた、紅葉の並木道を描いている時だった。押し黙っていると、カンバスの前に割り込まれて、「いま、それらしいことを言おうとしたな?」とニヤリと覗き込まれた。そういう人為を嫌うのがユウリらしいところだった。邪魔しないでよ、と唇を尖らせてみせたあとで、正直に「考えたこともなかった。描きたいから描いてる」と呟いた。ユウリはそれを聞くと満足げにうなずいた。
「うん。描きたいからというのはとても素敵だ。君はきっといい絵描きになるよ」
 見上げると、黄金色の太陽に照らされて嬉しそうなユウリの笑顔がそこにあった。


「私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ」



「羨ましいな、あなたと絵の話ができたなんて」客人は繊細に盛り付けられた皿の上の白身魚に、慎重にナイフを入れた。柔らかな身体は挿入された刃を音もなく受け入れる。こちらも同様に切り分けて口に運ぶと、ミルクのような優しい感触がふわり舌の上を転がり落ちて、鳥辺山、小さな身は煙の如く喉の奥へと消えていった。皿の上には肉体を貫かれ、あられもない姿になった魚の残骸だけがある。「味付け、上手だね」と客人の方を向くと、「ありがとう」と微笑み返された。
「絵の話なら、君ともよくしてるじゃないか」薬指に輝く控えめなダイヤモンドを人差し指でなぞりながら問うと、
「それはそうなんだけどね、」なんか深く理解しあってるって感じがする、嫉妬しちゃうなあと、すっかりバラバラに切り崩された魚肉を口に運びながら客人はわざとらしく嘆息している。
「理解、か」自分のところにある皿に再び目をやる。魚の皮だけは昔からどうしても好きになれず、こうして身だけを先に食べ進めてしまう癖が治らずにいる。が、目の前の調理者に敬意を表して、残った部分を丸ごと口の中に放り込むと、蛇皮のような妙な感触の肌が舌の上を伝った。思い切り飲み込み、小骨が喉の奥に引っかかった気がした。
「うん、ちゃんとわかってくれていたんだと思う」



 ユウリとは、結局どういう仲だったのだろう。
 冬の夜、痛いほどに寒いときセックスすることがあった。真夜中に落ち会って、開けさしの花火を季節外れにやったとき、熱狂的にキスをした。好きなものは決して同じではなかった。でも、好きなことと、気に入らないことは、共通部分が大きかった。手をつないだり、遊園地に行ったりすることはなかった。その代わり、夜が明けるまで延々と海岸線を散歩したり、朝まで歓楽街で呑み歩いたりした。ユウリは一緒にいてとても面白そうにすることがあったけれど、ユウリが面白いと感じていたかはわからない。とてつもなく愛されていたような気もするし、ものすごく嫌われていたとしても不思議ではない。
 こうして考えてみると、二人の間には初めから強い絆のようなものはなかった気すらしてくる。ユウリは空気のような存在だったのだ。

 ユウリには美があった。虚無の美だ。カンバスには引き写せない、空白の清らかさがそこにはあった。生きていた頃のユウリは有意味の中におらず、絵画という記号に封じ込められることを柔らかに拒んでいた。理解することを、されることを拒む人だった。絶え間なく移ろう、空模様のようだった。

 ふたり喫茶店で過ごしていたある朝のことで、窓の外には梅の花がちらつき始めていた頃だった。洗った指先を吐息で暖めながらユウリの待つ席へ戻ろうとすると、もうもうと漂う煙のむこうに震える肩があった。灰皿の上の葉巻をつまむ指先もどことなく果敢なく映った。足が止まった。何か言わねばという気持ちと、このままここで見ていたいという気持ちが葛藤していた。立ち昇る紫煙の中、両手で顔を覆うユウリの姿は一枚の絵画だった。この似姿はきっと描けまいと思った。乾ききった初春の空気の中で、そこだけいやにしとりとしていた。

「愛してるっていう言葉は、」
 好きじゃないんだ、とユウリは続けた。冬の夜、暗くしたホテルのベッドの上で聞く声は、顔を合わせていないせいか、少し頼りなげだった。
 ぽつ、ぽつとユウリは言葉をつなぐ。
 もっと強いつながりが欲しいと思ってしまう。
 感情は、あまりに頼りなさ過ぎるから。
 涙声で、詩のように紡がれていく片言隻句。
 そういえば、あのときもユウリはちゃんと泣いていた。
 そのことに気づいたときには、もう手遅れだった。


「ああ、小鳥が啼いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう」



「それで、」空っぽになった口で客人は問うた。
 どうして亡くなったのですか。まっさらになったテーブルの上に、素朴な問いかけがふと放り出される。見上げればそこにあるだろう客人の瞳を見つめたくなくて、うつむいたまま顔を手で覆い、肩を震わせる。ごめんなさい、ゆっくりでいいから、と客人は慌てふためく。
「いや、ごめん、大丈夫」頭を下げたまま、ゆっくりと深呼吸し、落ち着かせてみせる。「わからないんだ、」
 どうして死んだのか、と言おうとした時だった。

 カキン、カラカラカラ

 何か金属が床と衝突して高い音を立てた。
 客人がテーブルの下に潜り込んで、ゴソゴソと音の正体を拾い上げる。
「あら、」と、不思議そうな声だけがテーブルクロスごしに聴こえた。
 百円玉が、どうしてこんなとこに――



「ああ、ユウリはちゃんと生き物だったのか」
 氷のように動かなくなった貌に触れた時、最初に思ったのはそんなことだった。
 黄色の少し先に通り抜けて、白く冷たくなってしまった頬は、それまでユウリのからだがちゃんと気色ばんでいたことを告げていた。薄紫色の唇と、その向こうに覗く灰色の舌根からは、かつてそこに綺麗な紅色を差していたのが、ユウリを説明するのには最もふさわしくないと感じていた生命のエネルギーだったことが窺われた。何より、ステンドグラスを通じて差し込む陽光によって、すべてが極彩色に染められていた。
 一瞬、人違いなのでは、と思った。
 けれどもその肩から腕にかけてのあまりにも弱弱しい肉づきは、よく知っているユウリの身体だった。あれほど透明だと感じていたユウリには、ちゃんと色彩があったのだ。
 ユウリは空気のような人ではなかった。ユウリは、ぼくにとっての空気だった。
 すっかり固く握られた拳には一葉のメモが握られていて、何とかこじ開けた指の隙間から取り出した。
 中身を見たとき、はじめてユウリの姿を絵にしようと思った。
 くしゃくしゃの紙には、一言だけが書かれてあったから。
 いま、それらしいことを言おうとしたな?

「はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました」

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