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月と塔

                             直視日光 

「うう……」
 うめき声を あげながら起き上がった。床に倒れこんでいた体を起こす。ひどくだるい。外から光が差しこんでいた。壁にかけられた時計は十二時を指している。もう昼か。昨日つかれて途中で一杯ひっかけたところまでは覚えているが、そのあとの記憶がない。そのまま布団にも入らずに寝てしまっていたらしい。どうにも頭が痛い、二日酔いするほど飲んだ覚えはないのだが。額に触るとかなりの熱を感じた。水を一杯飲んだが収まる様子はないどころか、全身のだるさは増すばかりだった。夏バテにしても重い。嫌な予感がする。
 体温計に三十九度の表示。こんなに熱が出たのは五歳の時以来だ。あの時は祖父母の家に遊びに行き、海から帰った後で具合が悪くなった。冷夏なのに体を冷やしたのがよくなかった。他の親戚の子供たちが遊んでいる中、一人隔離され寂しかったのを覚えている。対照的に今は七月雨続きだった分を取り返すようにやたらと暑いが、しかし一人なのは前と同じだった。コロナが流行っている関東圏から帰ってこられるのは迷惑だそうだ。冷たい家族だが、家族から離れたくてわざわざ実家から遠い大学に進学したこちらも人のことは言えない。家賃の安さを一番の理由として契約した部屋の、効かない備え付けのエアコンの設定温度を二度下げる。コロナかもしれない、そう考えた後で、この後の予想される展開が何通りか頭をよぎっていった。家族に連絡がいくだろうし、バイト先にも謝らねばならない。その後、大学にも……、そこまで考えたところで昨日疲れて酒を飲んだのは課題をやっている最中だったことを思い出した。大丈夫だろうか。愚鈍なる我が身では課題提出の一つ一つが単位に直結するのだが。急いでパソコンを開く。
 とりあえず昨日の課題はちゃんと提出できていた。体よりもまずは単位を心配しなければならないこの身が恨めしいが、おかげで少し落ち着くことが出来た。今日は日曜日だ。病院は閉まっているだろう。保健所にかけてみる。応答した若い女性の口調からは、隠しきれない疲れが伝わってきた。彼女曰く、ただ熱が出ただけでは九割以上は普通の風邪なので、病院に行ってもらうしかないそうだ。仕方がない。今日は薬局で熱冷ましの薬でも買って、明日それでも熱が下がらなければ病院に行くことにしよう。顎を触る。ざらざらした手触り。剃っておいたほうがよさそうだ。どうせマスクで向こうには見えないのだが。
 シャワーを浴びた後髭を剃っていると肌を少し切ってしまった。傷口を撫ぜると鈍い痛みがした。指についた血、その赤さを見て、腹減ったな、と唐突に思う。帰った後にしようかと思ったが、一度起こってしまった食欲は大きくなるばかりだった。何か残っていなかっただろうか。片づける人がいないので散らかっているキッチンを漁る。生憎冷凍食品は切らしていたが、三日前に買ったカップラーメンを見つけた。新商品につられて買ったので味はわからないが、このメーカーなら外れはないだろう。そう思っていたのだが……
「辛ぁ!」
 ピリ辛と書いてあったラーメンはやたらと辛かった。洗面所に走り水をガブ飲みする。
 空っぽになった器を今にも溢れそうなごみ箱に無理に押し込んで家を出る。冷房はつけっぱなしにしておいた。帰るころには少しはましな温度になっているだろう。外は風が適度に吹き、思っていたよりも涼しかった。行きかう人々や車は少ない。新しい日常では、たとえ日曜でも出歩けないということか。夏休み期間なのに気の毒に。俺は貴重な夏を浪費せざるをえない小学生と、中学生と高校生、大学生、なにより自分に同情した。横をトラックが猛スピードで通り過ぎていく。マスクのせいで熱がこもり、風邪の熱と相まって調子は良くない。くらくらする、外してしまおうかとも思ったが、それはさすがにはばかられる。考えてみれば、感染しているかもしれない自分の周りに人が少ないのは歓迎すべきことだった。五分ほど歩き、家から最も近い薬局に到着する。近づいてみるが人の姿が店内にみえない。おかしい、この店は日曜もやっているはずだ。覗き込んでみたが、店員も客も一人いなかった。ここから別の薬局まで行くとすると、ここからは近いが家から遠ざかる方向の店か、家に近いが今いる位置の反対側にある店のどちらかに行く必要がある。どちらもかなり面倒くさい。こんなことなら息苦しいのを我慢して自転車に乗ってくるべきだった。思わず舌打ちが出る。
 結局家に近いほうの店で薬を買った。こちらは年中無休二十四時間営業を売りにしているだけあってちゃんと開いていた。少し値段が高いのがマイナスだが。弱った体にこの移動はなかなか堪え、疲れはピークに達した。そのため帰ってからは薬を飲み、布団を敷いてすぐに寝てしまった。まだ四時で外は明るかった。
 携帯から鳴り響く目覚ましの音が耳を打った。太陽の光がかなりまぶしい。かなり長く寝ていたはずなのだが、体からは眠気が抜けていなかった。とはいえ昨日のようなだるさはない。熱を計ると三十六度に下がっていた。何度か計りなおしてみたが結果は変わらない。昨日のは何かの間違いだったのだろうか。課題で無理しすぎたせいだったのかもしれない。首をひねっていると、腹が減っているのを感じた。昨夜は何も食べていない。家を出てコンビニに出かける。眠気覚ましにちょうどいい。
 買ってきた朝食を食べた。ちゃんと朝食をとるのはかなり珍しい。コンビニでは朝食分しか買わなかったので、(コンビニで買うと高くつくのだ)食料を後で買いに行かなければならない。
 とはいえまだ自由に使える時間は十分ある。スキルアップにはもってこいの時間だ。何個かスマホゲームを開きログインだけした後で、テレビにおいてあるコントローラーを手に取る。格闘ゲームは自分の成長が分かりやすいから好きだ。戦えば否が応でも自分の欠点が分かり、それを練習で徹底的につぶしていく。努力は確かに報われるが、一つの壁を超えると次の壁がすぐに見えてくる。今日の進歩は目覚ましく、以前は見切れなかった相手の動きを何度もはじいて自分の技を叩き込んだ。
 ゲームをしているうちに昼になった。そろそろ買い出しにいこうか、帰ってきたら明日の課題をやろう。そこから手癖でスマホを開くと、ラインから通知が来ていることに気が付いた。大半はどうでもいい内容だったが、一つは同じ学科の友達からの飲み会の誘いだった。今は課題の写しあいぐらいしかできていないが、コロナウイルスがなかったころはよくつるんでいた奴の一人だ。コロナで実家に帰っていた仲間の一人が二日後に一時的にこちらに戻ってくるので、久々に飲みに行かないかと書いてあった。熱を測る。三十五度八分。よし、行っても大丈夫だろう。了承の返事を送る。
 夜、風呂に入った後で首が猛烈に痒くなった。鏡で見ると肌が日焼けで炎症を起こして赤くなっている。肌は強いほうだと思っていたが、日々強くなる日差しには勝てなかったようだ。まだ八月もかなり残っている。今度日焼け止めを買いに行かなくては。
 二日後の午後七時、何駅か離れた街の居酒屋に俺たちは集合していた。構成は男三人に女三人。オンライン授業の愚痴を筆頭に、話すことはいくらでもあった。料理の味付けは全体的に濃かったが、その方が酒が進むというものだ。三時間ほどそこで飲み食いした。その後カラオケに行って徹夜しようという話になっていたが、生憎明日はバイトがある。俺はここで帰らせてもらうことにした。残りの五人のうち、木下も用事があるので帰るそうだ。最寄り駅が同じなので結果的に送っていくことになった。
 木下は不思議な女だった。同じグループに属しているのはメンバーの一人と同じサークルだったのが理由なのだが、周りが盛り上がっている時でも別のことを考えているようなことが時々あった。かといってぼんやりしているわけではないらしく、時々目が覚めるようなことをいう。ほぼ人のやりとりを見ているだけの人付き合いは好きで、皆が集まるようなときには必ず参加してきていた。こんな感じで、彼女について話すときはいつも相反する内容を並べ立てていくことになる。
 そんな木下であるので、話すような内容はちっとも思い浮かばなかった。レポートが面倒だとか早くコロナの流行が収まってほしいとか、そういうあたりさわりのない話は駅に着くまでに使い切ってしまった。ここから俺の家と木下の家の分かれ道までしばらくかかる。意外とはやりのドラマで盛り上がったりしているのだろうか。あんまり沈黙が続くと気まずい。頭をひねった俺は、今日は空がきれいなことに気が付いた。
「そういえば木下、天文部だったよな」
 うちの大学には天文部があり、それも結構大きかった。去年の文化祭でプラネタリウムの解説をやるというので見に行ったのを覚えている。
「せっかくだから、星座の話のひとつでもしてくれないか?」
「えーっと、そうだね、それじゃあ、」
 木下はしばし目を宙にさまよわせたあと、
「これは、去年先輩から聞いた話の受け売りなんだけど……」
 そう切り出そうとしたが、そこで彼女は立ち止まった。
「ごめん、歩いたままだとどれが話したい星かわからないや」
 木下が青白い星を見つけて俺に教えるのに数分の時間を要した。その後で、彼女はその星、こと座のベガに伝わる伝説について話してくれた。星の話をする木下は今までに見たことがないほど楽しそうだった。奇麗だな、そう思ったとき、一瞬まるで昼間のように彼女の顔が鮮明に映った。すぐに元の暗さに戻ってしまったが。
「どうしたの?」
 目をこすっている俺に木下は不思議そうに尋ねた。
「いや、眠くて。最近徹夜ぎみでさ」
 本当のことはとても言えないのでそう言って誤魔化した。その後は、今はまっているものの話をしているうちに分かれ道にたどり着いた。木下は最近料理に凝っているそうだ。下ごしらえを十分にするのが重要なのだと力説していた。手を振って別れた後、家に着いた時にはもう十一時だった。
 その夜、妙な夢を見た。妙だったことの一つは、自分が夢をみていると夢の中で気づいたことだった。夢だとわかったのは体が異様に軽かったからだ。夢の中の俺は、何かを強く求めていた。それを鎮めたいのか、どこかに向かって全力で走っている。全身が飢餓ではちきれそうになっている。とはいえ、夢の中であると自覚してしまった今は、その飢餓も他人事のように感じた。足が地面を強く蹴っているが、反発はそれに見合わない。周囲は強い日差しに照らされているが、暑さは全く感じないし、呼吸の感覚もない。現実と比べると足りていない部分がいくつもある。俺は夢の中の欲求に駆られる自分と、外の冷静な自分の対比に滑稽さを感じた。夢の中だけあって、生身ではとうてい不可能な速度が出ていた。景色がほとんど線になって見える。しばらく変わっていく景色を漠然と眺めていたが、自分が夢を見ていることに気づくと夢をコントロールできるという話を思い出した。自分が夢を見ていると自覚できたのは初めてだし、これからそう何度もできるとは限らない。やってみるか。飛べ、と意識して、足を前に出すと、体が地面から一、二メートルのところまで浮いた。そのまま宙を滑って進んでいく。これは面白い。しかし俺はどこへ向かっているのか、そう思ったとき、行く手に女の後ろ姿が見えた。白い服を着た女はうっすら光っており、俺と同じように少し浮いていた。そちらに行かなければならない、という強い衝動が、さっきまで希薄だったはずの現実感を強制的に引きだす。心臓は跳ね、喉は焼け付くようだ。女は捉えどころがなく、追いついたと思えば消えてしまい、また視界の端に立っている。追いつくのは簡単ではなかった。逃がすたびに渇望が強くなっていく。いよいよ俺は焦っていた。
 何分か、いや何時間か経っただろうか。俺は広い道路に出ていた。幅は百メートルほどもあったが、車は一台も走っていなかった。道路沿いにはビルが立ち並んでいて、一般的なオフィス街によく似ている。だがそれと大きく異なっていたのは、道路の真ん中に巨大な赤い塔が立っていることだった。塔は針金を束ねて捻じったような外見で、下は太く、上は細くなっている。金属のような物質で出来ているらしく、後ろから太陽に照らされて光り輝いていた。女はその塔の前、ずっと高い所にふわりと浮かんでいた。このままでは届かない、もっと高く飛ばなくては。そう思ったが体は思ったように上に行かない。あがいていると、今まで逃げるだけだった女がこちらを向いた。女の顔は逆光のせいで不鮮明だったが、そこで俺はあることに気づいた。塔と女を後ろから照らしているのは太陽ではなかった。月だ、巨大な月がまばゆく光っていた。女の笑い声が聞こえ、そこで目が覚めた。
全身が冷や汗でびっしょりだった。
 おかしな夢だった。思いかえしていると、夢の中の女の顔が木下と同じだったことに気が付いた。現実の木下の髪型はショートだが、夢の女の髪は背中を半分覆うほど長かった。馬鹿馬鹿しい。あの少しのやりとりでよっぽど浮かれてしまっていたのだろう。夢にまで見るとはロマンチストに過ぎる。自虐的に笑い飛ばそうとしたが、頭の中からはあの時の渇望がしばらく消えてくれなかった。次の日の夜、例の夢をまた見た。ほとんど同じだったが、最後の部分が違っていた。振り向いた後で女はこちらを見るとウインクをしたのだ。それはもうとびっきり魅力的だった。
 それから何週間か経った。女と塔の夢を見る回数はますます増えている。それに伴って、自分の体が変化しているのを感じていた。辛い物に極端に弱くなり、日焼け止めなしで直射日光を浴びるとひどいかぶれが出来るようになった。それとは逆に、夜目が異常によくなっていた。あの時、木下を見た時のように夜でも昼と同じように見ることが出来る。小さな音にも気が付くようになった。心なしか顔立ちも整ってきた気がする。振り返ってみれば、あの熱を出した日もおかしかった。俺が起きたのは、本当に昼の十二時だったのだろうか。あの人通りの少なさ、閉まっていた店、翌日の眠気を考えると、あれはひょっとして夜の十二時だったのではないだろうか。そして空に光っていたのは、太陽ではなくあの不気味な月ではなかったか。
 問題は、夢を見るごとに女までの距離が縮まっていることだ。最近ではもう手が届くまで来ている。飢餓に苛まれて夢の中の自分との境界も日に日にあいまいになってきつつあった。追いついたときにどうなるのか、それが心配だ。なるべく寝ないように努めているが、夜が近づいてくると強烈な眠気と焦燥が同時に俺を襲ってくる。ああ、腹が減った……


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