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友情登竜門小話

                             屁理屈太郎

 寒々しい朝に私は身を震わせた。布団は働きを放棄し、くしゃりと足元に丸まっているようであった。少しずつ昇るのが早くなった太陽の光は、部屋を照らしている。きらきらと白っぽい埃が光の筋に浮いている。
普段ならば、当たり前のように目が覚めないのに、水でも掛けられたようにすっきりとした寝起きだった。
 壁にかけたブレザーを見た。緩んだボタンが太陽光に反射している。ふと、だらしなく着崩した奴を思い出す。続いて、今日が終わればもうあの制服を着ることのないだろう男の姿が、頭の中で泡のように浮かんでは消え、またぼんやりと踊り出した。

 私はその日もまた図書室にいた。凝りだしたら止まらない質が災いして、とある本のシリーズを食い入るように読んでいた。借りることもできたが、置き勉をしないせいで通学鞄は重い。そのせいもあり、学校で読みきるか、後ろ髪を引かれる思いで帰ることが常だった。
 ぺらり、ぺらりと頁をめくる度に引き込まれていく感覚がやけに気持ちがよかった。夕闇の中で、黙々と読み漁っていた私は図書室が閉まる音すら気づかず、人が近づく気配すら解っていなかった。そいつと初めて会ったのはその時のことだ。
「図書室もう閉まんで」
 突然の声に、弾かれるように顔をあげた。依れたワイシャツのボタンをあけ、ネクタイは無かった。こちらを覗き込むようにする眼鏡の奥の目が弧を描き、八重歯が上唇からちらりと覗いていた。図書係だろう、首から下げたカードがぶらぶらと揺れていた。
 目の端に移るアナログ時計は閉室時間を5分ほど過ぎていることを示していた。
「すいません、今出ます」
 私は会釈した。
「ええの?なんなら貸し出し処理しよか?」
 男は笑みをそのままに私の読んでいた本を指差した。図書室の中はどこまでも静かだった。少しの逡巡後、珍しく誘惑に負けて私はその本を差し出した。私は、閉室時間が過ぎれば貸し出し処理は禁止されているということを、後に知った。しんと静まり返った中、慣れたように私の前に立って歩くその明るい茶髪が、図書室の夕闇に浮かんでいるように見えた。

 件の図書係は注意して見てみれば、結構な頻度でそこにいた。カウンターで暇そうに突っ伏していることもあれば、やけに真剣な目で大小様々な本を分別していたりもしていた。
 そうしていれば、こちらが向こうに気づくように向こうもこちらを認識するようになってきた。目が合うときもあれば、ときたま声をかけられることすらあった。人懐こい笑みを浮かべてへらへらとしている上級生であった。
加藤ですぅ、と突然気の抜けた挨拶をされた時は思わず三秒ほど口をつぐんでしまった。西山です、としぶしぶながら自己紹介をすれば、知っとる!と言われ、その声の大きさに思わず人差し指を口に当てた。失礼なことをした、とおもったが気にした様子もなくむしろ声を殺して笑っていた。そもそも何故名前をと思い訝しげな顔をしていたのだろう。こちらの思考を察したのか、貸し出しカードの名義ってなんとなく覚えてまうなぁ、などと悪びれもせずに言われたときは後退りしたのも仕方あるまい。にこぉ、また八重歯が覗いていた。
 そんな加藤さんがどんな奴かと言われればよく分からない。おそらくヤバイ奴であることは確かなのだ。
 私が彼と会話と呼べる会話をしたのは、自己紹介から一週間ほど後のことだった。
 その時、私は運が悪く典型的な不良にガンをつけられていたのである。いつも通りに帰り道を歩き、コンビニの前を通り過ぎようとしたときにドスンと肩をぶつけられた。こちらからすればぶつけられたという認識だか、それは向こうにとっても同じだったのだろうか。やけに肩をいからせて汚い金色に髪を染めた男だった。痛えなあ、だとかなんとか怒鳴られ、関わりたくないと心底思った。
「すいません」
 すぐさま元来のビビりが顔を出し謝罪の言葉が口をついて出た。私も人並みに身長はあったが、決して意欲的な顔つきでもなければガタイの良さも持ち合わせていなかった。だからだろうか、不良は目をつり上げて私にずいと迫った。後ろにいる何人かの同じような顔ぶれは、にやにやと面白そうに此方を眺めていた。私は何をすればいいかもわからず、うろうろと目をさ迷わせていただけのようにも思う。
 ガツン!瞬間的に顔面を襲った衝撃に掛けていた眼鏡が勢いよく飛んだ。高い音を立ててコンクリートから音が聞こえた。一瞬、何をされたのか理解できず呆然と殴られた方向に顔を向けたままだった。頬が熱を帯びると同時に視界はモザイクをいれたように揺れるだけとなった。聴覚も遠くなったようで、怒鳴りつけるような声と楽しそうな笑い声が二重になって耳に入り込む。暴力には慣れていなかった。突然の悪意に曝されて、冷や汗が首裏を伝っていくのが気持ちが悪い。この状況の理不尽さを言葉でこんこんと説くことも出来たが、顎にまで広がる痛みに耐えることで精一杯で、ろくに言葉を発することも出来なかった。遊ぶようにネクタイを掴まれて、焦点の合わない視界がぶれた。当たり前の恐怖で私は固く身を強ばらせていた。勘弁してくれ、と痺れる頬を庇いながら憎くも思った。
 だが驚いたことに、私がそれ以上暴力の餌食になることは無かった。
「おい。わしのダチになにしてんねん」
 水を流すような淡々とした喋り方だった。そちらを振り向いても、口調と覚束ない視界では気づかなかったが、それは図書係の上級生で相違なかった。
「ダチ?」
 不良と私の内心の声が重なった。離されたネクタイにたたらを踏んだ私の側に、加藤さんが近づいた。つまらなそうな顔であった。こちらがなにかいうよりも早く、「こいつ加藤や。あかん。関わんな」と不良共は言葉を交わしていた。呆気にとられる私を置き去りにして、理不尽な男達はさっさと走り去っていった。
 加藤さんは気にした様子もなく、私の吹っ飛んだ眼鏡を拾い上げた。太陽にかざしたレンズが反射していた。
「二度と構うなよォ」
 呑気とも言える声色で、小さくなっていくその背中に呼び掛けた加藤さんから眼鏡を手渡される。小さい傷ですんだのが幸いであった。掛ければすぐに視界は明瞭になる。
「大丈夫か」
 そう言って眉をあげる加藤さんに先程までの淡々とした雰囲気は無かった。
「ありがとうございました」
 私は低頭した。
「災難やったなぁ」
 間延びしたように言う彼は身長も私より低く、制服の上からは体つきも分からない。そんなに強い人だなんて知りませんでした。呟くように私がそういうと、加藤さんは癖のある笑い方をして手を叩いた。目の下の黒子がよく似合っていた。
 翌週になると暇を見ては私は図書室を訪れるようになった。助けて貰った手前、何か手伝わなければと思ったのだった。図書係の仕事は簡単だった。本をもとの場所に戻したり、昼休みや放課後にひたすらカウンターにいれば良いのだ。そうやって過ごしていればやけに気が合うことが分かった。上級生らしくない雰囲気にこちらの気が緩み、人見知りだと自負する私もよく話すようになっていった。
「トウザイくん、これ頼むわ」
 私につけられた、よく分からないあだ名もいつの間にか馴染んでしまっていた。
「わかりました、字きったな!」
「ア、ホ!こういうのは情趣のある字……」
 加藤さんが一人で仕事をするときもあったが、やっぱりトウザイくんがいた方が楽しいわと口を開けて笑っていた。悪い気はしなかった。

 いやに長い卒業式だった。講堂には造花が飾ってあった。降ろされた緞帳は、垂れ桜が描かれている。左手のライトが白く光り、ぞろぞろと退場していく三年生の姿を照らしていた。思わず加藤さんを探した。卒業式がやけに長いので、加藤さんはもしかしたらサボっているのではないかと思ったのだった。
「そんなわけないやろ」
 加藤さんはひしゃげた箱からショートのタバコを取り出し、火をつけながら笑った。細い煙が溶けていく。
「現にしとるやないですか、二人揃って」
 咳き込むのを我慢したせいか、声が掠れた。式が終われば、待ち受けるホームルームから連れ出された。図書室から繋がるベランダで、漸く重苦しい空気から解放された加藤さんは怠そうにしている。背後の図書室は人気が無く、仄かに薄暗い中から遠くの喧騒が響いていた。
 風に沿って、流れてくる煙を追い返すように手を振る。
「嫌かぁ」
 加藤さんは煙を吹き出しながら言った。
「嫌ですね」
 私はしかめ面をしていた。未成年喫煙をわざわざ咎めるつもりはなかったが、どうにも煙草の臭いは好かなかった。咥えていた煙草を左手に持ち替え、加藤さんは目を細めていた。煙草の粒子が晴れ渡った空の下を流れていく。
 嫌なようで、どこか甘い匂いのする煙が鼻をつく。とうにホームルームは終わったのか、見えぬ階下からは人々の歓声がまた一つ聞こえた。
こちらへ体を向け柵によりかかる加藤さんの胸には、気持ち程度のカーネーションがつけられていた。
「てっきり、加藤さんは僕より後に卒業しはるんやと思ってましたよ」
 いつかだったか。うっかり彼の成績を見てしまったときを思い出して冗談を言えば、あほ!と怒ったようにまた煙草を加える彼をみてくつくつと笑いが込み上げる。可笑しくなって、私は手を口にあて体を震わせた。
「トウザイくん、それ癖よなぁ」
 加藤さんはぼんやりと私の顔を眺めながら呟いた。
それ、とおうむ返しに言えば、その笑うときに口に手当てるやつ、と指を指された。私ははて、と思いつつも「そうかもしれん」と答えた。
じっと見つめられていることに気づいたが、目を合わせる気にはならなかった。
 甘い匂いがまた染みた。鳶の声が清々しいほどに響いた。
「寂しくてな、死ぬんかと思て」
「いきなり何の話ですか」
 加藤さんの人差し指と中指に挟まれた煙草が、鈍色の灰皿に吸い込まれた。楽器を弄るような繊細な手つきだった。
 私は何もいうことも出来ずに、唇に指を当てる彼の姿を見ていた。
「トウザイくんがな、わしが卒業して会えなくなって寂しくて死ぬんやないかと」
「なんであなた、たまにそう気持ち悪いんですか」
 しなを作りおいおいと泣き真似をする彼に、思い切り眉をしかめてやると、加藤さんはまたいつものように声を枯らして笑った。
「せやなぁ」
 いつの間にか喧騒がおさまっていた。
 ふと、夕闇に浮かぶ図書係の姿が脳裏に浮かんだ。もはや懐かしい姿である。
「次あったときはわしが奢ったるわぁ」
「社会人になるんだから、当たり前ですよ」
「感謝の気持ちを持てや」
 春先の強い風がベランダに吹き込んだ。不意に沈黙が場を支配した。一拍おいて、横を向けば指し示したように、目があう。去る男の顔である。想像より僅か、大人びた顔をみる度に私は腹の底がむず痒くなって唇を噛み締めたくなっていた。
 何かを待っているような、傷んだ髪と同じで少し茶色かかった瞳が昼の光を吸い込んでいた。その目に後押しされるように、私は口を開いた。視線を落とせば萎れかけたカーネーションが目にはいる。
「加藤さん」
「おん?」
「……寂しいもんですね」
 私は呟いた。放課後のチャイムが響いた。閑静な学校に、音が木霊する。加藤さんは一瞬、阿呆のような顔をした。だがすぐに、私の言葉を聞いた彼は一言、「知っとる」と笑みを浮かべた。
 分かりきったようなその言葉に、どうしようもなく楽しくなってしまって、癖だと言われたように口に手を当てて私はけらけらと笑った。ひとしきり声をあげ、足元に転がっていた空っぽの通学鞄を持つ。
「ね、加藤さん、一緒に帰りましょ」
「せやなぁ。帰るか」
 同じように加藤さんは呟いた。それが随分と穏やかな優しい声だったものだから、今日ぐらい私は帰りに彼に何か奢ろうと考えたのだった。

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