![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/147083355/rectangle_large_type_2_09e86c71ea296966ace06a822fc6b912.jpeg?width=1200)
ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」
さくねぇ様と岡宮来夢
昨日、吉柳咲良さん(さくジュリ、さくねぇ様)がポストされてた岡宮来夢さん(くるロミオ)に宛てたお手紙がありましたよね。あれを読ませていただきたとき、なにか感動を通り越したショックのようなものを感じて、しばらくその場を動くことができませんでした。
ロミオが「僕は怖い」を歌うことの意味について、岡宮さんが咲良さんに話していた内容が書かれていました。岡宮さんが思い描かれているロミオ像について(ほんの一部にしか過ぎないと思うのですが)、窺い知ることができました。そのロミオ像に対して、岡宮さん本人の演技/歌唱があまりにも当てはまっていて、咲良さんが書かれているように、強い説得力を伴って、自分の目の前に過日のくるロミオが再び現れたのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1720798454976-D9XeYkiR1i.jpg?width=1200)
岡宮さんって、自分は今回のロミジュリまでまったく存じ上げなかったのですが、見た目はまだあどけなく少年のようで、ちょっと女の子のようなかわいらしいお顔立ちで(ごめんなさいね)、でも歌はガツンと低音があって、めちゃくちゃ上手いですよね。ああ、すごい人見つけたなくらいには思っていたのですが、役者として、そして楽曲に対して、こういう思いをもって挑まれているのだな、ということの一端を知ることができました。
ジュリエットと過ごした時間はたしかに短いものでした。が、その時間の中で見せていた解放感というのか奔放で明る部分に対して、それ以外のところでは少し心に暗い影のようなものがあって、抗いと苦悩を岡宮ロミオの中にずっと見てました。特に第二幕で死と対峙する場面での歌と身体表現は本当に素晴らしいものでした。
咲良さんの手紙を読んだ瞬間に、鮮やかに目に浮かんできた彼のお芝居と、そこにあったであろう思考、試行の無数の繰り返しに思いを馳せた時、もう頭がクラクラときてしまって、その場で呆然としてしまったのです。
さくねぇ様、ほんとうによいお話しを披露してくださりありがとうございました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720798558804-j3xT44o4gG.jpg?width=1200)
ティボルトの死について
このたび。すっかりロミジュリにはまってしまい、図書館に行って岩波の『ロミオとジューリエット』を借りて読んだり(買えや!)その他の考察本や関連本を読むまでに至ってしまいました。
むかしから知ってるお話しではあるけれど、本格的なロミジュリ体験は自分の場合、高校時代にプロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」の演奏経験がそれにあたります。この曲の演奏に際し、部員全員で本読みがあったのと、編曲をどうするかを決めるに当たり相互で議論がありました。
余談ながらリードの「オセロ」と「ハムレット」も自由曲で演奏しており今思えば当時の部員(ほとんど女子)、どんだけシェイクスピア好きやねんみたいな話し(笑。
ミュージカル版『ロミオ&ジュリエット』を観劇していくなかで、高校生のときにみんなで議論した、ティボルト(タイボルト)はどのように死んでいったのだろう?という疑問が数十年ぶりに再燃してきました。
プロコの「ロメオとジュリエット」におけるタイボルトの死では、超有名なティンパニ15連発というものがあります。打ち鳴らされる15回のティンパニのうちに、タイボルト(ティボルト)は崩れるように死んでいったのではないか?という予想が高校生のときにはありました(但し実際のコンクールではここはカットで、それじゃあタイボルトは即死だねって話しになるんですけど笑)。ところがネットの世の中になってバレエ版でのタイボルトの死を観てみると、ティンパニ15連発それほど関係なかった(涙(笑(ただし、演出によっていろんな死の描き方があるということもわかってきた)。
ミュージカル版でのティボルトの死について、緊迫した場面、錯乱状態のロミオ、やや挑発的にロミオに近づくティボルト、ここでなぜかユーリ・シモノフが棒を振ってる「タイボルトの死」が頭をよぎるのです。
変態的な指揮、シモノフの指揮ってむかしはめちゃくちゃ嫌いだったはずなのに、このたびこの動画を観て、なるほどこの人の演技(指揮)がいちばんティボルトの死としていちばんしっくりきてしまった。
ああ、やっぱり偉大なマエストロ(笑、となってしまいました。
奥田いろは
7月10日マチネでの第二幕終盤、パリスとの無理やりな結婚について抵抗するシーン。痺れた、痺れまくった。とにかく演技のスピード感、緊迫感がまったく最初の頃と違う。それは早くしゃべる、早く歌うという意味ではなくて、とてもビブラートが強くなってる。間隔も振幅も。最高に上手い。
「私の親じゃないわ、あなたも、あなたも!」と親を糾弾するんだけど以前なら怒りの感情がとっ散らかってセリフ、演技としては少し厳しいのかなと思ったけどこの前には違った。統制された感情のコントロールと整った演技力、いろはの怒りをほんとに怖いと感じた。見事だった。ツイッター(エックス)の中で同様の感想を複数発見したので、やっぱりいろはちゃん怖かったよ(笑。怒りの表出って、あまりあるものでも無いから余計にね。
5月22日のアクシデント
この日、演技の最終盤でロミオの短剣が見つからずにジュリエットが一滴も残っていない(はずの)毒薬を飲んで服毒死するという事案が発生。
観ていて、これはまずい!と思った。
なんかロミオの体や体まわりをワサワサと必要以上にまさぐっているように見えたし、やや挙動不審というか少し不自然さもあってそのうちあれれ?、みたいになってきて、え!ジュリエット短剣持ってない!となってああーと思っているうちにもあの場面、音楽がどんどん大きくなってもうその瞬間がすぐそこに来たの待ったなし!
音楽が最高潮に達した瞬間、いろはの選択は毒をもういちど飲んで死ぬこと。流れとしてはものすごく自然だった。下手をしたら舞台とまっていたかもしれない。でもそうはならなかった。何が起きたか気づいていない人も多かったとのこと。それくらい自然な流れのように見えた。というか、奥田いろはの咄嗟の判断がそれを成立させたのだと思う。あの場面で舞台上にいるのはロミオとジュリエットの二人だけでかつロミオは死んでいる、つまりいろはジュリエットのひとり舞台状態だから自分でどうにかこの場面を切り抜けるしかない状況だった。見事な機転だったと思う。
![](https://assets.st-note.com/img/1720798758398-4pHekKvQ0V.jpg?width=1200)
どうして奥田いろはにこれが出来たのかというと、彼女によるロミオとジュリエット研究の成果だと自分は考える。この役が決定した直後のブログで、いま入手可能なありとあらゆるロミオとジュリエットを見て、読んで、参考にして勉強していると書いていた。この成果だと。
このブログについたコメントの中には、小池先生はそういうことをとても嫌うお方だからおやめなさい、と諭すようなものもあった。ほんと馬鹿。
演者以上にこの作品に精通しているファンなどいるはずない。どれだけのことを考え、練っているかは先のさくねぇ様のお手紙にあった来夢さんの通り。おそらくいろはちゃんの中に、(パリスの短剣で死んだものも含めて)、多くのロミジュリ作品と多くの演出パターンがあって、それでも服毒死というケースは無かったかもしれないけど最良の選択としてあの日のあの行動があったのだと思う。でなきゃ、トラブル発生で固まって舞台とまって全部終わってしまうところだった、と思う
で、本人はサラッと「いろいろありまして」と軽く流しているところがまた最高にかっこいい。
残りの公演も数が限られてくるようになりました。
どうか、大千穐楽(おおせんしゅうらく)までこのまま無事に。
私の2024年はロミオ&ジュリエットに尽きます。
![](https://assets.st-note.com/img/1720798803755-Mja9JrYWRN.jpg?width=1200)