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5/5 ここ数日の総括

4/30 友人の結婚式

女性の友人の結婚式に友人代表として参加してきた。スピーチを頼まれたプレッシャーで前日はまったく寝付けなかった。というのは半分嘘で、スピーチ原稿がまだ完成していなかったのと、人生はじめてのスピーチの練習のために、寝ずに結婚式へ行った。式場は横浜で、電車の中で少し眠れたのが助かった。

男性が新婦の友人代表としてスピーチをするという経験は比較的レアなものだと思うので、私がそうしたほうがいいと思ってし、実際にしてよかった点を列記しておく。異性が新婦の友人代表スピーチをするにあたって不安要素はいくつもあるのに、インターネットには先達のアドバイス等が見つからなかった。

  • スピーチに新婦と自分だけの具体的なエピソードを入れない

  • スピーチの中で新婦の(ふだんの)外見に言及しない

  • 新婦の性格について、少しその人を知っていたら分かるような特徴についてだけ言及し、そこを褒める

  • スピーチの中で新郎の外見を(強めに)褒める

  • 「末永く」とか言わない

  • 今このときの瞬間風速の幸福感を強調する

全体としては「親密さをアピールしない」ということを意識していた。具体的なエピソードを入れれば入れるほど、疑り深い人々に詮索の種を与えてしまうことになる。披露宴の参加者がそのような人々であるかどうかに拘らず、ハレの場では、そのようなケガレこそ意識して払うべきものだと思う。

また、私は外見的に美しいほうではないので、新郎の外見をしっかり褒めておくことで「身の程をわきまえている」雰囲気を出せると思ったのでそうした。あまり外見が良いと皮肉っぽくもなるかもしれないが、実際に新郎は私から見てもとても美しい方だったので、うまく機能した。

最後の2つは新婦のために、友人としての義務感からそうしようと思っていた。未来はどうなるかわからないが、この日感じた幸せが彼女にとって人生をあたたかく照らす光になるなら、それが一番好ましいことだと思った。

私がスピーチのたぐいが苦手なタイプではないというのも、「なんでこの人が友人代表?」とへんに勘繰られることを避けられた理由だと思う。実際にはここ3年間ほどで一番緊張していたが、私の人生には緊張をコントロールして人前で話す方法を学ぶ機会が何度もあった。できていたかどうかは知らない。

個人的なクライマックスは、原稿に用意していた「(新婦は素直で真面目な方である一方、)私は雑なひねくれもので」という言葉に、その場のアドリブで「率直に申し上げて」と思わず前置きしてしまったことだった。「率直なひねくれもの」。これほど自分を的確に表現する言葉がとっさに出てくるとは、と自分の無意識に感動した。

聴衆の反応は、スピーチ中はよく見ていなかったが、少なくとも観測範囲では好意的で助けられた。新婦はあとで「泣いちゃったよ」と本当かどうかは知らないが言ってくれたし、新郎からも好意的な反応をもらえて、救われた。あなた方2人が良いと思ってくれたなら、それ以上に嬉しいことはない。

久しぶりに不特定多数の人と不特定多数としてでない形で会って、人々は基本的に非言語的に生きていて、細かな表現などにはいっさい気を遣うことなくおおらかに、幸福に生きているのだなあと思った。それに嫌みの一つも言いたくなるという時点で、結局私はそれが羨ましいのだろう。

ともかく、綺麗な式場だった。横浜桜木町の駅のすぐ近くで、去年運行を開始したばかりのロープウェイが海の上をフワフワとわたっていく様子が景観を彩っていた。前日の不安定な天気とはうって変わって、風は強いがよく晴れた、暖かい日差しの日だったのも、気持ちが良かった。

結婚式という風習への信仰は、あと50年は続くだろうと思った。キリスト教的処女幻想を背景としたヴェールの儀式の象徴的意味は、現代においても機能している。

5/1 読書会 朔太郎「猫町」 花袋「蒲団」

↓アーカイブ

萩原朔太郎「猫町」

「猫町」は、率直に言ってあまり好きではなかった。以前この読書会で読んだ芥川の「杜子春」のほうがまだ緊張感があって好きだ。

「杜子春」は1920年(関東大震災より以前)の作品で、「猫町」は1935年(二・二六事件の前年)の作品だ。その点で後者の方が社会的緊張は高まっているはず。そう考えると、「猫町」の「ここではないどこか」への逃避も切実な(あるいは必然的な)ものだったと見えてくるかもしれないが。

読書会で誰かが「マジックリアリズム」という言葉を持ち出した。この言葉は強力で、「猫町」のような作品をこの言葉で形容するのも無理がないように見える。しかしこの場合の「マジックリアリズム」の意味はガルシア=マルケスに対してのそれとは大きく異なっていて、「常識的でないことをリアリズム的手法で扱っている」という程度の意味しかない。

より「猫町」に対してよく言われてきた「シュルレアリスム」という形容もあるが、こちらのほうがしっかりとあたっている言葉で、「理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜かぶとを脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。」という箇所はそのままシュルレアリストの信仰告白だと言える。一般的な知覚や感覚を捨てることで、現実以上の現実に接近しようとする試みこそがシュルレアリスムだからだ。

だが、そうした現実以上の現実にアクセスしたいという希求を、「ここではないどこか」へ行ける瞬間がいずれ到来するのだという浄土信仰めいた期待として消化すべきではないと私は思う。「猫町」はふと気づくとそこにいるのではない。私が意図して行くのだ。

田山花袋「蒲団」(2回目)

言いたいことは1回目でほぼ言ってしまったので、内容的には再放送。「私小説の原点」と言われる作品が3人称小説であるというのはいささか奇妙だが、そうして文学であるという体を保ったのも、最初から田山花袋の照れとプライドによるものであり、それ自体がひどく凡庸ではある。その凡庸さをこそ「私小説的」と呼ぶ。

↓1回目のアーカイブ。

正直ツルゲーネフ「はつ恋」が日本文学に与えた影響は甚大だと思うのだが、このへんを真面目に分析するとやはりすごく大変なのだろうか。「蒲団」の背後には、「はつ恋」のように、コケットに耽溺し人生のレールを踏み外してしまいたいと欲望する花袋がいる。

5/2 ネットでの人間のプレゼンスについて

Discordで友人に話した内容が自分にとって重要なことだったので書き残しておく。

インターネットにおいて人間の身体性はあらかじめ捨象されている。インターネットで人間はほとんどの場合文字であり、ときどき声であり、まれに画像や動画だ。人間の身体性はつねにそれらの痕跡から類推されるにすぎない。

インターネットでの人間関係は、家族や学校のクラスメイトのような関係性とは全く違い、面白くなければ黙ってその場を離れ二度と顔も合わせないということが許される関係だ。接続コストも(表面上は)限りなく低く、ゆえに切断コストも低い。

だから自分にとって面白くない関係性を切断するのも一瞬で、そうして見切ったり見切られたりして生きていくのがインターネッツピープルなのだ。

それを理解している人間からすれば、面白くある(つまらなくしない)ということが関係性に対するリスペクトであり、関係性の維持コストなのだが、インターネット初心者のみなさまにはあまりご理解いただけていないようなので、今後も周知していきたい。

5/4 家族と寿司を食った

家族で外出して寿司を食った。あといい匂いのする油とそれを垂らす石を買った。

安眠効果のあるとされているラベンダーの精油を買った。匂いに過敏なタイプの人間なので、ディフューザーとかだと香りすぎそうだったのとそもそもこういうのが合わない可能性があったので初期投資が安い石スタートを選択。

おまけ

結婚式のために100年ぶりにヘアワックスを買ったが、よかった。香りが好みだったし、ふだんワックスなど使わないが、適当でもそれっぽい感じになりかつわざとらしい感じでないのがありがたい。
同系の中ではまあまあ高いが30年に1度しか使わないものだし良くないか?

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