「この世の喜びよ」個人用まとめ
芥川賞2022年度下半期受賞作、井戸川射子「この世の喜びよ」について、2023/02/19に読書会を行いました。下記はその際に作成したメモに加筆・修正を行ったものです。
ページ数はすべて文藝春秋2023年3月号のもの
読書会のアーカイブはこちら。
なぜかまた私の声が録音されておらずアーカイブとしては不完全でたいへんしんどいです
この世の喜びよ
井戸川射子
2022
主要登場人物
疎外の象徴、イオンモール
喪服売り場のあなた(穂賀)
2人の娘がいる
上の娘は小学校教諭
名古屋に「家出」する
下の娘は2歳下っぽい
喪服売り場の同僚(加納)
30歳?の息子?がいる
ゲーセンにいつもいるじじい
なんかすごい汚い雰囲気で書かれている
妻(「ばあさん」)の手作りパウンドケーキをくれる
あきらかにこの小説のクライマックスの1つ
ゲーセンの多田(23) 嘘の存在
フェイク一人暮らし
「洗い物めんどいから、肉とかも手でちぎってますもん。だから肉は豚バラスライスしか買わないんですよね」(305)
スカっとジャパン要素
「呼び方失礼ですよ、帽子さんとか呼ばれたら嫌っしょ」(307)
申し訳程度のオタク要素
「後から淫行だったとか言われたら死ぬじゃないですか」(331)
ヤングケアラーの少女(中3)
マックの女子高生
「『できないことが増えていくのって、慣れないだろうな』」(318)
あきらかに言わされている
やってることがオタクの美少女
なのに作家が女性だから許されている「この子ならこうやって、気軽に親しい関係を取り結んでいけるのだろう、スポーツをやっていたんだし」(321)
意味不明(穂賀のスポーツに対するコンプレックスの表出でしかない)
なんか恋しているし、なんか失恋もしている
「だって二十三歳だよ」(322)
純朴すぎる
小説に必要なことをやる
327以降のブチギレパートは、わざとらしい(が、ないと小説として成立しない
批評的論点
これは何についての小説?
疎外を感じ続けてきた穂賀が自らの人生という「経験と歴史」を、それしかないと受け入れなおす話
2人称による語りは成功しているか? 失敗しているか?
2人称の語りの狙いは?(技術的水準)
「私は」と語りだすとき、原理的に、語られる「私」と語り手はひそかに分離される
日本語の口語では、主語が私であるときに主語の省略が起きやすい 「私」は見慣れた人称だが、一方で小説っぽく語ることに慣れているのような違和感が付きまとう → 語り手の「素人っぽさ」の表現
この小説では、現在時点での出来事について積極的に現在形で語る傾向がある
書き言葉には、過去になされた行為を事後的に語るというニュアンスがある
この効果をねらって、作者はこの文体を選択したのではないか
「あなたは」と語りだすとき、語られる「あなた」と語り手はあらかじめ分離されている
あなたは私ではない
「あなた」と指示される対象がじつは語り手自身であるこの小説の場合、「私は」と語りだしたときのような語り手との距離が生じることはない もとから空席だった場所(「あなた」の指示対象)に語り手が座りなおすだけ
この小説の場合、視点は穂賀に固定されているため、視点は一般的な一人称小説と変わらないのだが、そのことが通底した奇妙さ(気持ち悪さ)を生んでいる
内なる目 内面を規範意識に視られている感覚
「加納さんは(...)首の筋肉に入れる力すら出し惜しみしている、加納さんの白い背が、吊られて伸びる服に囲まれ目立つ。あなたはそうはありたくはないので、さっきした書類の整理などをもう一度し直したりする」 (296)
「穂賀は」と語りだすとき、語られる対象の名前は因果関係に規定されている
「穂賀」は結婚相手の名前でしかない
「『私小さい時、おばさんってあだ名だったことあるんだけど』(...)『親呪っちゃったよね』」(318)
作家は、現在の穂賀自身から引き出される情報以外は記述しない
「あなたは風景ならいつまでも覚えておける」(297)
非常に言い訳臭い
「彼女は」と語りだすとき、語られる対象から固有性は剥奪されている(また、性別が固定される)
小説っぽすぎる? 私はこれでもいいと思う
「母」という属性を外部的に付加したくなかった?
内容的水準
名もなき母の「あなた」 → 「穂賀さん」と少女に呼ばれる
「あなたは名前を覚えていてくれる人がいるということだけで、一杯百円の価値はあると思っている」(302)
「近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称すら混ざってしまっていた」(319)
その狙いの意義は?
「母」という役割の外部性
母が先にいるのではなく、子によって母と規定される
ヤングケアラーの少女との一致性/不一致性
異常に叱る人々
「呼び方失礼ですよ、帽子さんとか呼ばれたら嫌っしょ」(307)
「お父さんは今、関係なくない?それもあるのかもしれないけど、人のせいにしないでくれない?」(312)
「ダメだよ、怒鳴らなくても、大人なら言葉だけで分かるんだから」(321)
娘にもめちゃめちゃ叱られている
「説教は娘たちにしなよ」(329)
叱ることすら叱られる
はたしてこの作品は小説として書かれるべきだったか?
好意的感想
特徴的な文体を用いて読者に実存的な手ごたえを与えることに成功している
文体的なギミックが作品のテーマと一貫しており、有効に機能している(「群像」の編集者はこういうのが好きという印象がある)
たぶん「お母さん」が読んだら感動するのでは
批判的感想
表現はうまいかもしれないが、別に小説はうまくない
実存的な手ごたえと引き換えに筋の面白さを捨ててしまっている
そもそも別にトレードオフではない
その結果、持ち出してくる「母の実存」から遠いテーマに小説的な必然性が感じられない
「母 - ヤングケアラー」は良いが、その他の問題系が散漫な印象
いちど長編を書いてみてほしい
「何の話!?」となる部分が多い割に、それがとくに機能してこない
ディテールとしてもヌルい
「大学生の時に付き合った相手は、女の子の胸って水中で踏むと気持ちいいんだよねと言い、湯船で向かい合い、毛の濃い脛を上げて柔らかくあなたのを足蹴にしてきた」(306)
読解コストを押し付けてきている
小説的発想としては、ギミックはさっさと消化して、大ネタを持ってくるべき
全体に人物造形が嘘すぎる
母性という問題系に対して閉鎖的なアプローチばかりしている
優等生的な問題設定 典型的な疎外の話
家族という社会制度は母という人間を疎外する(このことをずっと書いている)
今気づきました! みたいな顔をされても困る
全体に「オカン臭い」。主題から遠い人間を拒絶する小説
徹底的に異常独身男性を排除してくる
作家が分からないからだとは思う
想像で補ってなお足りない空白がこのテキストの限界を指している
べつに母 - 娘だけのための文学があってもよいのだが、それは父 - 息子だけのための文学とか文学的教養を持った人間のためだけの文学とかとどう違うのだろうか? という視点は挿入されてしかるべき
作家の立ち位置がいっこうに見えてこない
読者の視線が意識されすぎていて(巧緻すぎて)、作家の作為が前景化されてしまっている
指先で書かれた小説
詩人としてやりたいことはよく伝わってくるが、小説家としてやりたいことが伝わってこない。なぜその人の人生を語るのかという動機が申し訳程度の時事性しか付け加えられていないように見える
「あなた」の背後にいる2人の「私」、穂賀と作家(および語り手)の距離を整理できていない
穂賀は「母」として実生活を通して「この世の喜び」を見つける
が、これは作家の作為であり、穂賀のような平凡な人がさまざまな不満の中から(穂賀の不満について直接書かれることはすくない)生きた喜びを自発的に見つけることは、あまりリアリスティックではないように思える。だとすると作家は何をしていることになるのだろう?
疎外されている状況は解決できないので、それこそが自分の人生だとして積極的に受け入れていくしかない、というごくサルトル的な解決
おもろいか?
平凡な人間にも「この世の喜び」を見出してやる、芸術がその役割を担うのだ、という作家の尊大さ
穂賀は誰かを「あなた」と呼んで終わるのではなく、先に「私は」と語り出すべきだった
本当にそのテーマを扱いたいなら、この紙幅では足りないのでは?
「そこに『この世の喜び』というほど大仰なものが漲っているのかどうか」(松浦寿輝の選評)
なんで関西弁でしゃべらないんだろう?
なんで車の話が出てこないんだろう?
郊外型ショッピングモールは車社会に規定されている