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「バリ山行」書評: 「オモロイ純文」最高
短評
登山というテーマに正面から向き合いつつ、現代人の鬱屈した生とその解放を平易な筆致で描出した傑作。これを読んだ私は、その二ヶ月後に筑波山へ向かったのだった。我ながら影響されやすい性質だが、面白い小説に影響されて何が悪い。
本文
「合ってるんですかぁ! ルート! これ、合ってますかぁ!」堪らず私は叫んだ。
「――ハハハハ」何が可笑しいのか、妻鹿さんは笑い出し、その声は繁みに吸い込まれるように消えた。
このやりとりは「バリ山行」を象徴するシーンの一つだ。私=波多は、建物の外装修繕を専門とする兵庫県の会社、「新田テック建装」の営業一課に勤める三〇代中盤くらいの男性。保険会社に勤める妻と三歳くらいの娘がいるが、四年前にリストラに遭った。社内の人間関係を疎かにしたことがその一因だったと反省するも、人付き合いが苦手な性格は変えられない。いわゆる「飲みニケーション」が億劫で、徐々に社内から浮き始めた波多だったが、社内レクリエーションとして企画された登山に参加したことをきっかけとして、登山にのめり込むようになる。
「バリ山行」は、つねに波多の視点から語られる一人称一元描写の小説だが、不思議と単調に感じない。(二人称一元小説「この世の喜びよ」や、そして一人称二元小説である「サンショウウオの四十九日」は、その語りの戦略性ゆえに文体が歪められて、どうしても読みにくいし、また主題自体もわかりやすいとは言えないものだった。その点、「バリ山行」は平易で読みやすく、小説の主題もかなりわかりやすく書いてある。)「バリ山行」の主題はあくまでも登山である。だが、その登山の物語を語りすすめるほどに、気づくとそれが登場人物たちの人生と同調しているようにみえてくる。この塩梅が非常に巧みで、読書の楽しみを存分に味わうことができる。まさに、作者の松永K三蔵の標榜する「オモロイ純文運動」を体現した一作だと思う。
引用部に登場する「妻鹿さん」は、波多と同じ会社の、営業二課の主任である。四十三歳で、忘年会や納会には顔を出さないし、現場では厳しい対応を見せるため、波多同様に社内でやや孤立している。また、他の社員たちが概ね関西弁で話すのに対し、妻鹿は関西弁を話さない。その点でも会社の人間関係というコミュニティには所属していない感じが強調されている。
妻鹿は最初、会社のレクリエーション登山には参加しない。妻鹿の登山スタイルはもっぱら「バリ」=一般の登山道ではなくみずからルートを見出しつつ登攀していく、バリエーション登山だったからだ。
バリエーション登山にはつねに危険が伴う。一般登山者が通過するルートは基本的によく整備されている。六甲山のような人気の高い低山ならなおさらだ。六甲山で道に迷う人もいないわけではないだろうが、多くの登山者がいれば自然とルートも見失いにくくなる。案内看板などの道標のみならず、トレースと呼ばれる他の登山者による踏みあとがルートを教えてくれるからだ。
また、登山者が多ければ、いざ怪我をして動けなくなったとしても救助を期待しやすい。ルート上で通過することになる難所にはあらかじめ鎖やロープなどが設置され安全が図られていたりもする。登山そのものが自然と向き合う危険をはらんだアクティビティである以上、簡単に「安全」と形容することはできない。だが、バリエーションルートは一般ルートと比較して、圧倒的にハイリスク・高難度であるというのは間違いないだろう。
登山者のあいだでも「バリ」に対しては賛否両論あるほどで、作中にもそのことははっきりと書き込まれている。妻鹿は、彼の「ヤマレコ」(実在する登山アプリ)の山行記録を見た一般ユーザー、「所謂『山をなめるなオジサン』からDM」で怒られたりもするらしい。実際、高い技術を持って難易度の高い山行に臨み、その記録を投稿している現実の山岳系YouTuberたちも日々こうしたコメントに頭を悩ませているようだ。こうしたディテールは現代的すぎるきらいもあるが、同時代でこの小説を読む私たちにとってはわかりやすく、面白い。
本題に戻る。妻鹿が毎週末単独でバリエーション登山をしているのを知った波多は、「バリに連れて行ってくれませんか?」と同行を願い出る。一度は「危ない」とにべもなく断られるが、妻鹿は翌日になって「一回行ってみる?」と態度を翻す。波多と妻鹿の、最初で最後のペア山行だ。
最初こそ、誰もいない道を行く「バリ」の快楽に魅せられていた波多だったが、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。熊笹の藪漕ぎ、落ち葉の積もる急斜面、やったこともない懸垂下降——「いつの間にか冗談では済まされない場所に足を踏み入れている」波多はそう直感し、不安を覚える。
「な、本物だろ? 波多くん」
本物? 私がその意味を掴みきれずにいると、「この怖さは本物だろ? 本物の危機だよ」と続けて言った。その声に異様な響きを感じて見上げると、逆光の中で黒い影になった妻鹿さんが薄く笑みを浮かべているように見えた。その危機に自ら踏み入っておきながら何の冗談だろう。
波多を完全に置き去りにする妻鹿の一言だ。妻鹿はこの「本物の危機」を求めてバリをやっていた。
思えば妻鹿は、仕事で高所に登る際も「未だにフルハーネス型でなく胴ベルト型の安全帯を使って」いた。それは「安衛法違反」、つまり二〇二四年十一月現在、労働安全衛生法に違反している。妻鹿の安全に対する感覚が一般的なそれから考えると狂っているというのはその時点で明らかだったが、波多はある意味「バリ」を、そして妻鹿をなめていた。
そのことに気づき、波多は一段と不安になる。死の危険が眼前に迫る。「本物の危機」は、本当に怖い。一方妻鹿も、波多との「バリ」に違和感を覚えていた。
「山ン中をさ、一人で歩くとね」ザックを揺らして前を行く妻鹿さんが口を開く。
「――感じるんだよ。崖とか斜面を攀じ登った後ってさ、全身が熱くなって昂ってね。墜ちたら死ぬようなところだと特に。(中略)そしたら感じるんだよ。もう自分も山も関係なくなって、境目もなくて、みんな溶けるような感覚を。もう自分は何ものでもなくて、満たされる感じになるんだよ」
(中略)
「だからさ、やっぱりこれはバリじゃないんだよ」
妻鹿と波多のあいだに何か決定的な食い違いがあったようには見えない。波多は山の中でもふだんの生活の感覚を引きずっている。一方妻鹿は、むしろ山での感覚が日常生活を覆っているように見える。だが、そもそも波多はそうした日常空間での悩みや不安から逃れて山を登りたかったからこそ、妻鹿に同行させてほしいと言ったのだ。だから二人は実際には対立していないのかもしれなかった。
だがそうだとしても、波多は、妻鹿の「バリ」にはどうやっても同行できない。それは妻鹿の「バリ」が本質的に孤独であり、身体的であり、こう言ってよければ、実存的な試みだからだ。当然、波多にとっても、妻鹿にアテンドされた「バリ」は絶対にバリではない。この逆説のために、二人の登山はこれが最初で最後になった。
「バリ山行」がいちだん優れていると感じるのは、妻鹿自身が語るこうした登山観を彼自身の人生観のアナロジーとして単純化して解釈することはできないように書かれているところだ。そこに妻鹿という人間の深みが描かれる。「本物の危機」に昂る妻鹿に、波多は「本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」と怒鳴る。「山は、バリは刺激的ですけど、いや〝本物〟って、そんな刺激的なもんじゃなく、もっと当たり前の、ぼんやりした日常にあって、もっともっと怖ろしいもんじゃないですか」。波多の「山は遊び」という趣旨の指摘に対し、妻鹿は沈黙する。そのことに対する直接の返答はないままに、二人の登山は終わる。波多が疲れで体調を崩し寝込んでいる間に、妻鹿は新田テック建装を退職した。それで二人はもう会うこともなくなる。だがそうして初めて、波多の本物のバリがはじまるのだ。
「本物の危機」をめぐる一連の議論を、登山者たちは興味深く読んだようだ。インターネットを少し検索すれば、芥川賞受賞から二ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず、登山者によって書かれた優れた書評がいくつか見つかる。私はそれ自体がとても素晴らしいことだと思うし、「バリ山行」はもっと読まれてもいい作品だと思う。また、登山という題材の面白さもさることながら、「バリ山行」の練りこまれた面白さは、出不精がちの私のような読者でも登山に関心を抱いてしまうほどだ。「バリ山行」をきっかけに、登山と文学の相互関係がもっと世間に認知されたらいいと思う。ちなみに私は昨日、紅葉の筑波山に行きました。普通に坂がきつくて死にそうになった。
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