創作のススメ
私がNoteを毎日更新するようになって20日と少しが経過した。三日坊主の私がここまで食い繋いで来たのは、正しく一つの奇跡であり、しかしそれは意志一つで揺らいでしまう薄氷のような奇跡でもある。
普段はなかなかこのような、自分自身と面識するような文章を書くことはないのだが、いわゆる「エッセイ」なるものを書いてみたいと思ったのは、とある人の言葉だった。
「毎日、何かに繋がるようなことなんて、自分にはできない」
その言葉は、中学生の時からの親友だった。私はその言葉に、褒められたような嬉しさは間違いなくありながら、けれども何処か感覚のズレた違和感があった。
ここで、表題の言葉に戻ることにしよう。
これを読んでいる読者各位はおよそ、何であっても「なにかを作っている」と思われる。実際に形にはならなくても、他の人間とは隔絶した思考を持ち、かつそれを頭の中でこねくり回すことはしているだろう。
なにもないところから、新しい何かを作り出す、この文脈においてはそれを「創作」であるとしたとして、勿論のこと考えることだけでもそれは創作をしていることになる。
それであれば、私がこの記事の中で改まって「ススメ」と書くことは少し不自然であると思う人がほとんどであろう。
ここで改めて、私が何かを「創作」することをあえてススメとして書いているのは、実はその背景に複合的な意味があるからである。確かに、noteのような個別性の高いページにアクセスするような人であることからも、他の人よりも高い創造性があるのは重々承知しているが、ここで一つ落とし穴がある。
創作することは、確かに考えることだけでも成立するがその実、ものとして完成するものはその考えに100%同じであるものとは決して限らない。
少し分かりづらいが、例えば私の分野である「小説」を例にしてこれを整理してみよう。
まず、多くの小説を書く人は必ず物語の土台となる「プロット」を作るところから始まる。作り方に幾つかルールこそあるが、実態は「自分の好きなようにする」人のほうが圧倒的に多いだろう。起承転結や序破急など、物語の全体の流れは踏襲していることが多いが、プロットに従って書くのか、それとも逆で流れに沿って修正していくのかは人によってかなり異なるし、構成を練る上でも、どこから物語を作っていくかはまさに千差万別だ。
私の場合は、「自分が気になる言葉」からスタートすることが多い。勿論これ以外にもあるが、数として多いのは間違いなくこれだろう。
ちなみに私の場合、他には「書きたいシーンがある」、「伝えたい事柄がある」などから遡って物語を作ることもある。
このような書き方をしている人が他にどのくらいいるのかはわからないが、少なくとも自分はこの書き方が比較的メジャーではないかと思っている。これは主観であるため、私の物語の作り方に疑問符を浮かばせる人はいるかも知れない。しかし、それはそれで尊重されるべき考えであると思うし、逆に私の思考も、少なからず尊重されるべき考えであると確信している。
話を戻して、「頭で考えること」と「作品」が乖離するということにつなげてみる。
私の小説の例になると、最初思い描いていた趣旨、つまり先程挙げた物語をどのように作るかという3つの鉤括弧で括ったものが「考え」になる。そしてその対として、実際に出来上がった物語を「作品」となる。
実は、私の物語ではしばしばこの2つが乖離する。もうそろそろ10年と文章を書いてきて、ある程度客観的な評価が身についてきたからこそ、その乖離を実感し、評価することができるようになったのはいいことだが、今度はどうしてそれが起こるのか、の方に目が行くようになった。
いくつか原因が考えられるのであるが、私が一番納得したものとして、「考え」が「作品」に反映されるのは、自分が思っている「考え」のおおよそ半分ほどになる。
これは私の実力不足のためである、という見方も勿論できる。しかし、どうであれ創作をしたことのある人間であれば、「考え」を「作品」にすべて反映させることの難しさがよく理解できていると思われる。というより、それを目指して作り手は「作品」を作ることになる。
私自身、多くの物語を作ってきたが、そのどれもこれも、満足のできるものにはならなかった。そして、これからも完全を求めて延々と書き続けていくと思う。もうそろそろ10年という記念すべきタイミングでこんなことを言うのも憚られるが、恐らく「完全」になる日は来ないと思う。
というのも、作る過程でやはり「考え」が変わっていくからだ。短編小説であっても、「趣旨」は変わらずとも「考え」は即座に変質していき、最終的には全く違うものになってしまうこともある。
ここで新しく「趣旨」という言葉を出したが、これは物語の最も根底にあるものであると定義しよう。
例えば、先のプロットの段階で言う「自分が気になる言葉」や、「伝えたいこと」「好きなシーン」のことである。「趣旨」と「考え」の決定的な違いは範囲にある。
「趣旨」は中枢となる部分のみを示し、「考え」はそれをどのようにして表現するか。という部分である。「考え」は最良を目指して常に変形し続け、それが投影される「作品」に強く影響を与えることになる。私が「完全」となる日は来ないと言及したことがここになってわかる人も出てくることだろう。
そう、「考え」が完全な姿で投影された作品を作るということは、それは即ち、絶対に変質をしない「考え」を持つ必要がある。そして、それに至るまでの人生経験を積むためには、到底私に残された人生は少ない。それについては、未来の自分に期待するしかないが、今のところ私はすっかり諦めてしまっているのも事実だ。
話を戻して、およそ原稿用紙10枚ほどの短い物語であってさえ、「考え」は決して完璧な姿で作り上げられることはない。散々泣き言染みた言葉を吐いてきたこの記事を見て、およそ読者各位が抱く感想は、「全くススメていないじゃないか」という事かもしれない。
一周して、私が本記事を「創作のススメ」とした理由について記述しよう。
結論から言うと、「考え」を「作品」にする過程、そしてそれを共有すること自体が大切だからだ。
ここでは2つの主語をあげたので、それぞれについて一つずつ話していく。
まず、作品となっていくまでの過程は、当然ながら技術そのものの向上に寄与することになる。「作品」が作られるときはまさに一進一退である。これについては人によるが、基本的には大きく進んで、そして戻ることを繰り返す。納得の行くものが一発で出来上がることなど、基本的にはありえないから。
それを繰り返す中であるのは試行錯誤であり、考え、思考し、そして試していく営みはまさに「向上」していく過程である。
ここで、「共有」していくことの重要性が出てくる。物語が作られる道筋が技術の向上であれば、「共有」はいわば評価に当たる。自分自身の感覚ではない全く別の意識が介入することにより、「作品」はより多くの次元で成立するようになる。自分の中の思考が、現実のものとなっていく、という言い方をすればより適切であろうか。
これこそが、私が「創作のススメ」の根幹である。
「作品」は誰かに共有されて初めて、ものとなる。いくら形があっても、自分だけが持っている「作品」は「考え」に近い。問題になっているのは、自分の「作品」に触れた人の「考え」の方なのだ。これを見て何を思い、何を感じたのか、それを知ることがひいては自分自身を知ることになる。
「創作」は、それをすることで自分自身の理解が行き届かない領域に手を伸ばす一つの手段なのだ。客観視された自分を見れば、今度は新しい「考え」となり、「作品」になっていく。
その「作品」が自分にとって、どのようなことを齎すかどうかは人によって変わるだろう。
例えば職業が「小説家」であれば、「作品」は生きていくための手段になるし、私のように別の仕事があって文章を書くのであれば、「作品」はまた違う意味となる。私にとって「作品」は、自分自身を知るための一つの手段であり、同時にいずれそれで生きていくための目標でもある。
これを見ている読者各位にとって、一人ひとり「作品」について私が長々と説いていくことはまさに愚行である。「作品」の意義は、本人が考えて、それを咀嚼すること、今度はそれに深い意味がある。
いわば、「作品」に意味を付ける作業として、私は「創作のススメ」なるこの記事を作っているのかもしれない。
長ったらしくつらつらと書いているが、私にとってこの記事は自分自身の考えの整理である。
いわば私の思考をそのまま書いているようなものなので、過度に真に受けるのは好ましいことではない。あくまでも、話半分に聞くことを目的にし、冷静になって自分を見直すことに使うことが望ましいと、私は考える。