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もはや演劇ではなくなった「名取さな」という存在

サナトリック・ウェーブ、最高のライブでしたね。私は配信で参加したので現地と比べて音響などの環境はいくらか劣っていたとは思いますがそれでも最高のライブでした。
それでライブの長文感想を書いていたらノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。についての記述がかなり長くなったので、とりあえずこの曲だけの記事を先に投稿しておこうと思いました。
長く書いた分、この曲の解釈も結構進んだ気がします。
こういった感想というか解釈は初めて書くので読みにくいところもあると思いますが、よければお読みください


ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

この曲、大好き
ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。
直訳すると「観客のいない劇場」
最初はいまいち意味がつかめないと感じたのですが、さなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-で描かれた名取さなの、名取■奈の人生の話。それらを通してこの曲を解釈すると少しわかってきた気がします。

「劇場」
「演劇」
そして
「嘘」


さなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-


名取さなのVirtual Youtuberとしての特異性は昔からたびたび話題になっていました。「名取さな」というレイヤーの奥に「名取■奈」のレイヤーが存在している。-ハロー・マイ・バースデイ-ではそのレイヤー間のギャップへの葛藤、苦しみが描かれていました。
全部ホントで全部ウソ、ゆびきりをつたえて。これらの曲が内包する「嘘」というテーマ。そのテーマに対して名取が-ハロー・マイ・バースデイ-で出した「嘘でもいい」という答え。
「名取さな」という嘘。「名取■奈」という本当。そのどちらも名取であると。そして名取は、自分自身に向き合っていくという約束をしました。嘘も本当も併せ持った彼女は一歩、強く踏み出したのです。
「名取さな」という存在が新たな意味を持って生まれたような、そんな一日でした。

余談ですが名取さなの一人称は普段の配信とかでは基本「名取」なのですがこのツイートの一人称は「わたし」ですね。俺はそれで泣いた。


ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。が意味することとは


そんなさなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-から早いもので1年と半年が過ぎました。名取さな1st live サナトリック・ウェーブの前に投稿された地獄でなぜ悪い。ライブで歌ったライアーダンサー。そして、ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。
-ハロー・マイ・バースデイ-以前の彼女は「名取■奈」がつくった嘘の存在である「名取さな」として表舞台に立って活動してような印象を受けます。
「嘘」をまとい、舞台に立つ。それはさながら演劇のように。そしてその演劇を見る私たちせんせえは言うなれば観客でしょう。
ならばノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。観客のいない劇場。これは違和感のある表現です。私たちは依然として名取さなのことを追いかけて応援している。観客がいないわけがない。むしろ増えている。
なら発想の転換です。
名取さなが今は劇場にいないのではないかという考えです。
劇場は今となってはそれこそライブをしたりと、様々な用途で使われていますが、昔は演劇を見るための場所でした。

そんな劇場にいないのなら。

名取さなの活動が今や演劇ではないのなら。

嘘と本当のギャップに苦しんでいた彼女が今や嘘をまとわずとも輝けているのなら。
そんなに素敵なことはありません。そして彼女が劇場を出て行ったのなら、彼女のことを追いかけて応援している私たちは劇場の外だろうとどこまでも付いていきます。 
-ハロー・マイ・バースデイ-以前の「名取さな」という演劇、もうそこには演者も観客もいません。前へ一歩踏み出した彼女。そして彼女に私たちも付いていったから。

歌詞を見ていく

タイトルだけで語りすぎたのでそろそろ歌詞についても触れていきます
名取本人も言っていましたが全体的にネガティヴな歌詞です。けれども最後は少し前向きな歌詞があります。

歌詞です

「描いていた。ずっと見えないままだった。
歌っていた。小さな狭い箱庭。」

これはきっと-ハロー・マイ・バースデイ-以前の、「名取さな」を夢見ていた「名取■奈」の心情だと思います。
「モンダイナイトリッパ―」のMVで表されているように、「名取さな」の活動は、モンダイナイトリッパ―中の歌詞を引用すると、「名取■奈」が小さな狭い箱庭である病室から描き歌っていたトラベル計画、と言えるでしょう。


「歩いていた。とっても寒い夜だった。
 揺らいでいたうっすら白い空は心奪ったんだ。
 深く息を吐き出した。」

「うっすら白い空」がなにを意味するのかピンと来ず少し調べたのですが、春や夏は遠方が白っぽく見えるようです。
また「寒い夜」のワードも考慮すると、日中は暖かくとも夜は冷え込む、冬から春へと季節が変わっていく時期がイメージできます。

「うっすら白い空」に心奪われているのです。きっとそのうっすら白い空に向かって歩いているのでしょう

唐突ですが、私は名取さなの表現する「可能性」が好きです。
-ハロー・マイ・バースデイ-で発表された新曲の1つパラレルサーチライトは正に名取さなのもつ無限大の可能性を如実に表した曲です。
彼女は-ハロー・マイ・バースデイ-で自分と向き合うという約束とともに一歩踏み出しました。そして歩み続けて、今、名取さなは1st liveを見事にやってのけました。この1st liveも名取さなが持つ無限大の可能性の1つだったのです。そんな彼女を踏まえると、「揺らいでいたうっすら白い空」は名取さなの持つ無限大の可能性と考えることができます。可能性に心奪われ歩いていく。
まさに名取さなその人です。

「ただ悔しくて、寂しくて、もどかしい日々を味わうよ。
この苦しみと悲しみの根拠なんかさ、知らないけど、
あの嬉しさも、楽しさも、幸せも、かけがえはないから。
世界に一つの存在を信じている。わかってあげる、わかってげる。
ずっと歩き続ける、この愛と」

歩み続けている最中の名取さなの心境でしょうか。

自分と向き合うのはかなり苦しくて辛いことだと思います。根拠は知らなくても襲い来るネガティヴな感情はあるはずです。けれども、それでも、嬉しさも、楽しさも、幸せも全部大切だから。
全部大切にして歩み続けながら、少しずつでも、世界にひとつの存在である自分自身を信じて、自分自身と向き合っていく。

ここで少し迷ったのが「この愛」をなんと捉えるかです。考えたのは「名取さな→せんせえ」への愛と「自己愛」ですが、文脈から考えるとここは自分と向き合っている歌詞ですから、「自己愛」と解釈するのが妥当かと思いました。

「わたしの誕生日」を経て「わたし」のことも信じられるように、愛せるようになれているのではないのでしょうか。
どこへ行こうと自分自身は必ず付いてきます。だから「ずっと歩き続ける、この愛と」なのでしょう。


「そうだった。結局、一人きりだった。

そうだった。空虚な問いかけだった。
とっくに気付いていた。嗚呼!」

まず「そうだった。」~「嗚呼!」について。
最初は「一人きりだった」が引っかりました。
せんせえたちは名取さなを応援していますがそれが名取さなには届いていなかった?少し傲慢な考えかもしれませんが、そんなはずはありません。断言できます。

そこで視点を変えてみます。
まず私は、この曲は自分と向き合っている最中の彼女の曲だと感じました。それを踏まえて考えてみると「一人きり」は、自分自身は結局一人きりだった、ということ。
つまり「嘘」と「本当」の二人の自分がいるのではなく「嘘」も「本当」どちらも同じ一人の人間、自分自身だった、と気づいたのではないでしょうか。
当たり前のことかもしれません。だから「空虚な問いかけ」だったのでしょう。

嗚呼!

「とっくに気付いていた。嗚呼!」ここで曲調が変わるんですよね。
バックモニターも激しい明滅を始めます。
新たな気づきを得て吹っ切れた彼女には新しい世界が見えているのではないでしょうか。

「どれだけ後悔しても たまには失敗しても 大事な宝物 見捨てないで。
どれだけ疲れても とにかく真剣だけど 届かない感情はもう諦めようかな。」

「どれだけ後悔しても」~「見捨てないで。」ここは歌詞通りそのまま受け取っていいと思います。彼女から彼女への、ひいてはせんせえへのメッセージ。
「どれだけ疲れても」~「諦めようかな。」このあたりが結構解釈難しいんですよね。
私は名取さなは自分の活動に、そして名取さなに付いていって活動を応援する人に対してとても誠実な人だと感じています。
例えば「いっかい書いてさようなら」の歌詞「シンプルなフレーズが 伝わりますように」に表されるように「わたしとあなたで見える世界が違っていても、あなたに、届けたい、伝えたい」といったふうな彼女の誠実さが伝わります。

その誠実さは「どれだけ疲れても とにかく真剣だけど」の歌詞にも表れています。
けれどそのあとに続く「届かない感情はもう諦めようかな。」これです。
まず「届かない感情」これは名取さなが届けようと、伝えようとする感情だと解釈できます。ならば私たちは名取さなが届けようとしていた思いを見逃してしまったのか。

人はどのような関係性であってもどうしても違う生き物同士。見えてる世界が全く同じというわけでもないでしょう。
だから自分の思いを完全に他人に伝えるのは難しい。
それでも難しくとも誠実に、相手に伝えようとする、相手の思いを理解しようとする。それがコミュニケーションの真髄なのだと思います。

そんなコミュニケーションに、相手に届けようとすることに疲れてしまったのなら、きっとそれは誠実でいたことの裏返しのはずです。
それならば誠実な彼女が疲れてしまうことは当然あるでしょう。
疲れているときは思考もネガティヴになってしまうもの。
諦めようかなという考えが浮かぶことも十分ありうる。

けれど「諦めようかな」です。
「諦めた」ではありません。
迷うことはあっても彼女なら完全に諦めてしまうことはないでしょう。
私たちが応援している名取さなはそういう強さを持った人です。

「ただ温もりと、まどろみと、優しさにこの身を委ねた。 あの憎しみと、強がりの真意なんかは、言えないかな。 この苦しみも、悲しみも、虚しさも、かけがえはないから。」

もう終盤の歌詞です。

「ただ温もりと」~「この身を委ねた。」
「温もり」や「優しさ」
これらはきっとせんせえたちの名取さなを応援する気持ちのことで、それらを名取さなが受け止められるようになってきたのではないでしょうか。
私は名取さなはめちゃくちゃすげー人間だと思っています。ほんとうに。
けれどどこか、彼女は自己肯定感というか自己評価がかなり低いような印象があります。
他者から褒められることに、愛されることに慣れていないような感じ。
けれど最近はその感じが薄まってきた気がします。
それが「この身を委ねた。」なのではないでしょうか。

「あの憎しみと」~「言えないかな。」ここもちょっと解釈に迷いましたが、この曲を歌う前に言っていた「普段は言えない感情」きっとそれを表した歌詞だと思います。

「この苦しみも、」~「かけがえはないから。」について。
この曲の序盤にも「かけがえはないから」ってワードがあるんですよね。
「この苦しみと、悲しみの根拠なんかさ、知らないけど、」に続く
「あの嬉しさも、楽しさも、幸せも、かけがえはないから。」って歌詞です。
この曲の序盤では「ネガティヴな感情はあるけれど、とっても大切なポジティヴな感情がある」といった感じでした。
けれど最後には「この苦しみも、悲しみも、虚しさもかけがえはないから。」と歌っているんです。
この対比が成長というか進歩を感じて泣きそうになる。ポジティヴな感情もネガティヴな感情も嬉しさも楽しさも幸せも苦しみも悲しみも虚しさもなにもかも全部が、かけがえのない大切なものだと歌っているんです。


「私が解き放つ輝きと光はきっと、ずっと、失ったりしないから
 その愛を頂戴よ。この愛と生きる。」


私が解き放つ輝きと光は、きっと、ずっと、失ったりしないから

ここの歌詞一番好きです。名取もここめちゃくちゃ堂々と力強く歌うんですよ。
今までどこか自信がなさそうというか、自己評価が低い感じがしていた名取さなが最後に自信満々に「私が解き放つ輝きと光はきっと、ずっと、失ったりしないから」と歌うんです。
あなたがそう言ってくれるのなら、そう歌ってくれるのならば、私はこれからもその輝きを、光を享受しよう。そう思わされます。
自分と向き合って、葛藤して、それでも歩み続ける彼女がこうも力強い言葉を歌ったのです。


そして
その愛を頂戴よ。この愛と生きる


思わず手を取りそうになった

「どこか名取さなは愛されることに慣れていないような感じがあった」と私は書きました。そんな彼女が「その愛を頂戴よ。」と歌いました。
彼女の輝きに、光に魅せられた私たちが断るわけもありません。
そして彼女がこう歌うことができたのも、彼女がこれまでの活動を通じて築いたせんせえたちとの関係性があるから。こう言ってもせんせえたちは応えてくれる。そういう信頼を名取さなも自認できているからでしょう。
そして彼女がせんせえたちとの関係をそう思ってくれているというのがなんだかうれしいです。

そして「この愛と生きる。」この言葉で締めくくられます。
「この愛」は曲の序盤と同じように「自己愛」と解釈できるでしょう。
この曲を聞いていると、歌詞にかなりネガティヴな気持ちが表れていたこともあり、私はどこか名取を心配するような気持ちに少しなっていた節がありました。
けれど、最後にその不安はなくなりました。
これからも、名取さなが私たち肉人間と同じようにネガティヴな気持ちになることもあるでしょう。生きているのですから当然です。
けれどそんな感情もかけがえないものと思えるようになった彼女なら、自己を愛することのできるようになった彼女ならば、そんな心配も杞憂といったものです。


総括「迷えど歩み続ける彼女の歌」

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。この曲の私の解釈を一言で表すのならこんな感じかと思います。歌という一つの作品を一言にまとめるのは無粋で傲慢で暴力的なような気もしましたが。
-ハロー・マイ・バースデイ-を経て歩き出した名取さな。彼女は今や劇場を飛び出し、嘘をまとい演じることをせずとも輝き続けている。「名取さな」も「名取■奈」もどちらも同じ一人の人間なのだから。
そんな彼女に、彼女の輝きと光に魅せられた私たちせんせえは彼女に付いていって劇場を出ていく。
そうして演劇を見るための場所であった劇場からは観客もいなくなった。
だからこそ「ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。」なのではないでしょうか。



また、私はこの曲の
「歩いていた。とっても寒い夜だった。
 揺らいでいたうっすら白い空は心奪ったんだ。
 深く息を吐き出した。」
という歌詞から、冬から春へと季節が変わっていく時期をイメージしました。
日中とはうって変わって、冬の寒さが残る夜。それでも遠方の春の空を目指して歩いている彼女。
無限大の可能性を持つ彼女はこれからも、どこまでも歩いていくことと思います。
歩き続けることは容易なことではないでしょう。
途中で疲れることだってあるでしょう。
けれど、たとえ途中で止まってしまうことがあっても、歩いていれば目的地にはたどり着けるはずです。
夜が明けるように。
冬から春へと季節が変わるように。

歩み続ける彼女が寒さに震えることの少ないことを、私は願います。


最後に

ライブでお披露目されたときから曲の雰囲気も素敵で好きだったのですが、こうやって歌詞にきちんと向き合い咀嚼していくとさらに好きな曲になりました。

Twitter(旧X)で他せんせえ方の感想を見ていると「ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。というタイトルはせんせえは観客ではなくて一緒に舞台を作っていく人だから」という考えを目にしました。
この解釈も素敵ですね。こちらのインタビューでも名取さなは「誕生日イベントではお客さんとの双方向性を意識している」と言っていましたし。

他の解釈もこれから見ていくつもりです。


ここ、青色がかっていた名取の色調の変化が、夜明けを迎えたみたいでよかった

日々挑戦と成長を続け、1st liveも大成功を収めて見せた名取さなには驚かされてばかりです。いつも彼女の輝きをこれからも見ていたい、そんな気持ちにさせられます。1せんせえとしてこれからも応援していきます。

今回はノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。のみの感想ですが、またサナトリック・ウェーブ全体の感想も書いて投稿するつもりです。
最後に、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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