【10分小説】僕の本気を読んで欲しい
『past』
風鈴の音がする。気まずい沈黙を和らげてくれているようだ。前の家では風鈴なんてものは出していなかった。
意外に心地よい音なのだと知った。しかし、この沈黙は風鈴だけでは消せないようだ。おばあちゃんが耐えられなくなったのか、リモコンを手にし、テレビをつける。
「たけちゃん、ほら、これ聡ちゃんじゃない?」
おばあちゃんがそう言った。
「本当だね。やっぱり、有名人だなぁ」
おばあちゃんが作ってくれた唐揚げに手を伸ばしながら、兄が返事をした。
今見ているテレビで特集されているのは、和泉聡という高校二年生の天才小説家だ。中学生の頃に、大人も参加する新人小説家の大会で入選を果たし、デビュー。そこから小説を世に出し続け、高校一年生の頃に書いた小説は映画化が決まっている。
今では人気小説家の和泉だが、デビューする二年前、和泉は母を不慮の事故で亡くしている。学生とは思えないほど、深い文章がかけるのはおそらく、そういった過去が関係しているのだろう。この事実は和泉を知っている者なら、誰でも知っていることだ。
和泉の特集が終わると、兄はテレビを消して言った。
「ごちそうさま」
おばあちゃんが返事をすると、兄はおばあちゃんに微笑みかけてから、二階の自室に戻っていった。
「また、小説書くのかしらね」
おばあちゃんが僕に話しかける。
「わかんないけど、そうじゃない?聡くんの特集見たから、気合入ったのかもね」
おばあちゃんはようやく会話ができるようになってきたことを喜んだように、「そうだね」と返事をした。
一週間前、この家に来てから、家の中では会話をほとんどしなかった。おばあちゃんが気を使って話しかけてくれても、適当に相槌を打つだけだったのだ。僕も、心の整理ができていなかったし、おばあちゃんでさえも話したいとは思えなかった。
兄なら、なおさらだろう。だってあの現場を見たのだから。
僕も自室に戻って寝る準備を始めた。自室といってもただの和室なのだが。部屋らしい部屋を与えられたのは兄の方で、それに不満はなかった。兄はずっと昔に死んでしまったおじいちゃんの部屋を自分の部屋として使っている。
和室に布団を引いただけの殺風景な部屋の明かりを消して、眠りにつこうとしたが、なかなか寝れない。あの日のことが思い返されるのだ。
あの日、母が死んだ日、僕が友達の家から帰ると、そこはいつもの家ではなかった。たくさんのパトカーがあり、たくさんの人が家の前にいて、これは何かが起こったのだと、五感で感じさせられた。兄は青ざめた顔でドアの前の庭に丸まっており、数人の人が声を優しくかけていた。
そのすぐ後に、警察の人から、母が何者かに体を刺され、病院に向かっていると教えられた。病院に向かっているが、もう助からないとも。
天地がひっくり返るような感覚がしたのを覚えている。状況が理解できず、わんわん泣いた。意味がわからないけど、わんわん泣いた。
母の第一発見者は兄で、リビングで血まみれになって倒れているのを見て、警察に通報したらしい。その第一声は「母が倒れています。呼びかけても返事がありません」というものだったそうだ。その状況で、警察に連絡できた兄はやはりすごいと思った。自分だったら、通報なんてできずに、逃げ出してしまっていたかもしれない。
兄は自分の母が死んでいるところを生で見たのだ。僕よりも衝撃はきっと大きい。おばあちゃんと同様、僕も兄が僕らと会話をし始めてくれたことを嬉しく思う。
母を殺した人がしっかり捕まって、兄もホッとしたのだろう。犯人は母の会社の同僚で、母と友好関係が悪かったらしいが、母はなんにも悪くないと警察の人が言っていた。
これからは、おばあちゃんと三人で、おばあちゃんが死んでしまったあとは、二人きりで生きていかなければならない。しかし、クールで優しい、この兄なら、僕らの状況もどうにかできると思った。母のことを忘れられる日は来ないと思うし、忘れたくない。だけど、心の中の母と一緒に、兄と三人で昔のように大笑いできる日が来ると信じてる。元の平凡な暮らしに戻れることを信じてる。
自分の気持ちが回復していっていることを感じ、気づいたら眠りについていた。
翌朝、目が覚めると時計は十時を指していた。寝すぎてしまったことを反省しつつ、和室を出る。そうか、おばあちゃんは今日、出かけてるんだ。朝ごはんが卓上においてある。兄の分はないから、もうきっと食べて自室に戻ったのだろう。
一応、兄が部屋にいるかを二階まで確認しに行く。兄の部屋のドアの前で声を出す。
「お兄ちゃん、いるー?」
すぐに、「うん」という返事が来ると思ったのだが、返事がない。もう一度、呼びかけるが何も返ってこない。ご飯がなかったから、寝ているわけではないと思うのだが。
そういえばと、僕は思い出す。一度も兄の部屋に入ったことがない。前の家の時からだ。なぜか、僕の中に兄の部屋には入ってはいけないというルールがあった。僕が小学生の頃に、勝手に入って怒られたのかもしれない。しかし、今は応答がないので入っても別にいいだろう。
ドアを開けると、中はとても汚かった。殺風景な僕の部屋と違い、中にはたくさんのものがおいてある。一番目につくのは大量の本だ。積み上げられた本の間からベットに目をやるが、やはり兄はいなかった。どこかに出かけたのかもしれない。
和泉の小説を中心に多くの本が雑に床に置かれている。壁に目をやると、和泉の新聞の記事の切り抜きだろうか。警察が調査するときのように壁一面に貼られている。中は薄暗かったので、電気をつけようとしたが、スイッチを押してもつかない。
本を踏まないように気をつけながら、奥まで進むと、小さなランタンのようなものを発見した。机の上にそれは置いてあった。ランタンをつけたが、まだ薄暗い。おじいちゃんが生きていた頃にこの部屋には入ったことがあるが、ここまで古くなかったし、汚くなかったはずだ。この兄の部屋と、いつもの兄のイメージがどうしてもくっつかない。
それにしても、ここまで兄は和泉のことが好きだったのだなと僕は思う。切り抜きを集めるくらいに。和泉聡は僕らの幼なじみである。僕はそれほど交流はないのだが、兄はよく和泉の家に遊びに行っていたし、和泉も僕らの昔の家に来ていた。二人は小学生の頃から、本が好きで小説家を志していた。二人と違って、頭が良くない僕は話についていけなかったが、いつも小説の話らしきものをしていたものだ。二人が約束していることも知っている。
「一緒に超偉大な小説家になろう」と。
確か、中学生になってから、和泉は和泉の母が事故でなくなったこともあって、遠くに引っ越したのではなかったか。それ以来、おそらく二人は会っていないはずだ。
机の上にはランタンと、兄が小説の執筆に使っているノートパソコンと、和泉のデビュー作『future』が置いてある。気になって、机の引き出しも開けてみる。
左側の引き出しには何も入っていなかったが、右側の引き出しには一冊のノートがあった。ノートの表面には『past』と書かれていた。いけないことをしてると思いつつ、好奇心で中を開ける。
一ページ目には、和泉の記事の切り抜きがあった。ネットの記事を印刷したものから、新聞のものまで、いろんなものだ。壁に貼ってあるものと変わらない。
「お母さんを亡くしてから、小説を書きたいと思った」和泉の言葉の一つに蛍光ペンが引いてある。「この作品は母のことを思って書いた作品です」ここにも、蛍光ペン。
二ページ目と三ページ目には記事の切り抜きはなく、ただ一言、二ページ分を使って、大きく書かれている。雑な文字だ。
「The greater past」
はっきりとした意味はわからないが、おそらく「より良い過去」ということだろうか。
これは兄の小説の最新作のなにかなのではないかと、僕は予想し始めた。
和泉同様、兄も今まで小説を作り続けてきた。兄の書く小説は和泉の小説以上に、僕は好きだったから、この『past』という作品も楽しみだなと、呑気なことを思っていた。
しかし、なぜ、和泉の切り抜きをこのノートに貼っているのだろうか。
次のページをめくった瞬間、そのページに目を落とした瞬間。
「おい、何してんだ」
兄の聞いたことのない声がした。
怒りの声。
急いで、そのノートを閉じて、引き出しにしまう。兄は床にある本を踏みながら、こっちにやってくる。心臓の鼓動が早くなる。
息が荒くなってしまう。こんなに怒った顔をしている兄は今まで見たことがなかった。その表情からは殺気のようなものさえ、感じ取れた。
「まぁ、いいや。お前、さっさと出てけ」
机に目を落としながら、兄はそう言って、顎をドアのある方向に向けた。急いで、出ていき、ドアを閉めて、その場にしゃがみこんだ。
母が殺されたのって。
その時、「the greater past」の意味がわかった。
異様なまでにあるあの、和泉の切り抜きの意味も。兄は前の平凡な日常が好きでもなんでもなかったのだ。
『past』のノートの次のページには、確かにこう書いてあった。
「母を殺す。殺さなきゃならない。」と。