紀行文の面白さはどこに行ったかではない

紀行文を書こうと思うと、いつ、どこに、どんな手段で言ったかを詳しく書きたくなる。

何時の汽車に乗って、どこまで移動し、その後何を食べてと行動を順番に記す。でも出来上がったものを読んでみると、思ったほどグルーブ感もないし、あの日の楽しさも伝わってこない。

何が原因かを考えてみると、どうやらただの日記になっていることがわかる。昨日遠足に行って、友達と一緒におにぎりを食べて帰ってきました。日記としてはいいかもしれないけれど、読み手には、これでは遠足の楽しさは伝わらない。
 
紀行文だから、どこに行ったかという情報は必要かもしれない。でも盛り上がるのは、そこで何をしたか。

椎名誠の紀行文は最高だと思う。彼は、ほとんどの日本人が行ったことの無いような場所に足を延ばした。そこでの体験も面白かったが、私は無人島で焚火をする話が好きだ。

特別なことは起きない。林さんが、パラパラのチャーハンを作り、それを怪しい探検隊の面々がうまいうまいと言って食べる。ビールで乾杯し、やがてウイスキーで夜が更けていく。

焚火を見ながら、語らっていた男たちが、やがて一人ずつ自分のテントに引き上げていく。言ってみればそういう話。

そういう話に、どうして私は血沸き、胸躍ったのか。このあたりの秘密がわかると、私の紀行文も面白いものになりそうな気がする。
 
開高健の紀行文も面白い。でもその面白さは、椎名誠のものとは違う。

開高健は、世界を旅しながら巨大魚を釣り上げた。その巨大魚との格闘が、写真付きで紹介される。

開高健は、気取っていて、読者が少し近づきがたい雰囲気を持っていた。選ばれた人間だけができる遊びを、庶民に教えてくれる感じ。だから、開高健のやったようなことは、私は一生できないだろうと思いながら、そのページを追いかけていた。

あの紀行文の何が面白かったのか。見たことの無い世界を見ることができる楽しさだったかもしれない。大人の世界を教えてもらう感じだった気もする。いずれにしろ、文句なく楽しい紀行文だった。
 
蔵前仁一の「ゴーゴー・アジア」も忘れられない紀行文だ。

アジア各地を旅しながら、いろいろなものを食べる。そのタフさがうらやましく、またリッチでないところもうれしかった。

今はそれほどでもないが、この本が出たころの日本と、アジア各国は経済力の格差が大きかった。日本の庶民であっても、アジアの国に出かけて行けば、豪遊が可能だった。

そんな時代でも、蔵前仁一は、お金に物を言わせて豪遊するのではなく、その国の庶民の目線で旅をした。私自身も、蔵前さんの旅の一向に加えてもらったような気持になって、アジアを一緒に旅した記憶がある。
 
司馬遼太郎の「街道を行く」は紀行文と言っていいのだろうか。

著者の視点は、空間だけではなく、時間を自在に移動し、ただ旅をしただけでは見えない世界を見せてくれた。

私は紀行文を読むのが好きだ。そして旅をするのも好きだ。何とか私なりの紀行文が楽しく書けるようになると良いと思う。

スタイルは別に決まっていないようだ。人を書く人。趣味を書く人。食を書く人。文化を書く人。

何を書くにしても、自分なりのスタイルを見つけていくことができればいいのだろうと思う。

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