書いたものが面白くなるかどうかを書く前に予想するのは難しい

五目釣りという釣りがある。

オキアミという、小さなエビのような生き物を小さな籠に詰め込む。
このかごを先端にして、その上にたくさんの針がついた仕掛けを付ける。
この仕掛けを、リールのついた釣り竿に付ける。
後はそれを海に沈めるだけ。

オキアミの入った籠が、重りになって仕掛けは海に沈んでいく。
沈むルートに合わせて、オキアミが拡散される。
するとこのオキアミを食べに来た魚が、間違えて仕掛けの針に食いつく。

場所は、他にも釣り人がいるような港がいい。
朝まづめとか、夕まづめとか釣りやすい時間帯があるらしいが、五目釣りは割といつでも釣れる。

釣れるときは、一度に二匹とか、三匹の魚がかかる。
豆アジのようなものがかかることもあれば、それ以外の魚がかかることもある。

同じような堤防で、イソメと呼ばれる、海版のみみずのような生き物を、針に付けて投げることもある。
この時は、少し重りを付ける。
この釣り方でも、港の中では小さな魚しかかからない。

でもある日このやり方で釣っていた息子の仕掛けに、30センチもありそうなボラがかかったことがあった。
ボラは体の表面が油でベタベタしており、持ち帰ってもおいしいわけではない。
大人から見たら雑魚だ。
でも息子からしたら、びくともしない大物。
全力を尽くして、何とか堤防の上に釣り上げた。
その時は、予想外の大物に、息子の興奮が止まらなかった。
 
文章を書くことは、少し釣りに似ている気がする。
狙っている魚はある。
それ用の仕掛けを作り、それ用の餌を準備する。

でも私の場合は、書き始めてみないと、何がかかるかわからない。
書いているうちに、私の中の、私の知らないものが引っ張り出されることもある。
気が付かずにいた価値観や、知らずにいたものの考え方に出会って驚く。

書くことによって、私が、私に出会う感覚がる。
あらかじめ決めていることを、わかりやすく構成するような書き方をする人もいるのだろう。
でも、私はどうもそういう書き方ができない。

だから書いたものが面白くなるかどうかを、書く前に予想することは難しい。

お前の書くものなど、すべて面白くないという批判は、とりあえず横に置いておく。
私なりの文章レベルでの、良し悪しを問題にしたい。
 
書いたものを推敲しながら、驚くことがある。
私の中に、そんな要素があったのか。
そんな考え方があったのか。
そういう時が、私にとってはうれしい瞬間。

がっかりすることも多い。
底の浅さに辟易する。
思いやりの無さや、冷たさに出会って私はそういう人間だったのかと思うこともある。
それでも、予想外のものが書けたときはまだいい。

書いても書いても、同じところをぐるぐる回るようで、全く文章が展開していかない時もある。
 
釣りと同じだと思えば、坊主の日もある。
何も釣れない日があっても、自然の中で遊ばせてもらったことにして感謝して帰ればいい。
悔しいけれど、釣れなかったのは、私のせいではない。
運が悪かったか、場所が悪かったか、餌が悪かった。
腕など問題ではない。

五目釣りは、釣れるときは、子供でも釣れる。
飽きることなく、海に向かって竿を出し続けることが大切なのだ。
五目釣りでタイが釣れることはないけれど、豆アジも十分においしく食べることができる。

長く釣りを続けたいものだ。

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